鎌倉 上の道  
4.南町田−永山     地図: @南町田-成瀬   A成瀬-七国山
                                   B七国山-永山

 


 南町田から、つくし野、成瀬を経て七国山を越え、多摩市 永山に向かう。
七国山から小野路に残る鎌倉古道が、今回のハイライトである。


町田街道小川原交差点
 南町田駅北口から東に向かい旧街道と出会ったら北に向かい、200mほど進んだ後、町田街道の小川原交差点を横切り、すぐに北に向かう。信号のある十字路で右方向に行き、つくし野中学校の脇を下っていく。 いままでの台地を進む道から低地へとすすむ。小さな川が流れており、それに沿って進む。左にゆるやかにカーブし旧街道は北に向かう。

右側の高台に福寿院がある。

道の風景-低地へ
                               
  いままでの台地を進む道から低地へとすすむ
谷間に沿って左にゆるやかにカーブし、旧街道は北に向かう。

右側の高台に福寿院がある。                    

                     福寿院

杉山神社
 その先の右側に、道を一本隔手たところに、杉山神社の石段がある。
杉山神社は、由緒によれば、「創建年代は不明で、文化4年(1807)再建…中略・・・杉山神社は、都筑郡に24社、橘樹郡に37社、久良岐郡に5社、南多摩郡に6社と記されている。小川村(現つくし野)杉山神社はその南多摩郡6社中の1社である。」としている。
 境内から町田方面のの眺めはすばらしい。
横浜線
 旧街道まで下りて北に進むと、広い道路となり、100mほど進んで細い川を渡り左奥にすすむ。やがて道は、横浜線で途切れる。ここから旧街道は二手に分かれ、一つは東北の恩田側にかかる都橋、もう一つは、西北に進み、西山橋方面に進んだという。西北方面は全くなくなっているという。
都橋までのルートもなくなっているが、東側を通る桜並木のある広い通りを上り、南成瀬中学校を過ぎたあたりで恩田川・都橋をめざす。


鎌倉街道 中の道 方面への寄り道
 都橋を渡る前に手前から東に行き、鎌倉街道の中の道との連絡道であった名残という場所に寄り道する。
町田下水処理場の東南端の道をすすむと、コーナーに地神塔と道祖神が立っている。
 道祖神は、「天狗童子立像」(からす天狗)の像で、全国的にも類例を見ない貴重なもの、と説明板はいう。道の反対側には地蔵菩薩像が立つ。享保8年(1723)建立で、台座には 奉供養 念仏庚申、と刻まれ、頬ずえをした猿が浮き彫りされている。

都橋
 都橋まで戻り、鶴見川の支流である恩田川を渡る。
100mほど進むみ、今のバス道路(成瀬街道)に出る手前を西北に進むのが旧街道である。

旧街道風景
 西北に進む旧街道であるが、この先の南第二小学校あたりで、芳賀氏のいう道筋を追えなくなった。

小学校の西に、恩田川にかかる西山橋があり、横浜線で消えた西北の道は、このあたりに来ているようで、こちらの方が本道ではないかと、氏は見ている。

              西山橋付近


そこで、成瀬街道の北側にある杉山神社と東運寺にいく。杉山神社は、昭和57年遷宮と由緒にあり、東運寺も比較的新しいので、、近くから移転してきたかもしれない。

杉山神社

東運寺

成瀬城跡
 そこから約00m南西にある成瀬城跡にいく。成瀬高校の南から、会下山橋で恩田川を渡り、城山公園にいく。城山城跡の石柱が立つ。
東運寺の石碑-縁起に、成瀬城のことが記されている。小田原北条氏が関東進出し、大永4年(1524)頃、それまで廃城であった小机城を重臣笠原越前守信為の居城とした。さらに勢力拡大に伴い小机城の支城を各地に築き、出城として会下山に成瀬城を築城した。という。

石塔 数基
 成瀬街道の成瀬センター前の交差点へ戻る手前に、西北に向かう細い道があり、その角に石地蔵や地神塔など数基立っている。
地神塔には文政11年(1828)の銘がある。
このあたりから成瀬街道を横切って行くのが旧街道のようである。

金毘羅神社
 成瀬街道を少し進んだ後、山側にはいり、成瀬街道と並行して西に向かう道が、旧街道である。
約500mほど進み、右へ大きく曲がる手前の三叉路の山側に鳥居と長い石段がある。
上りきった所に小さな社があり、そこからの眺めは素晴らしい。

その先から、道は恩田川に沿って真北に向かう。南大谷小学校の先の交差点を左折して、小田急線のガードをくぐる。

南大谷天神社
 右側の奥に天神社の鳥居がみえる。 
正保2年(1645)の創建と伝えられる。同時期にその別当寺として、虚無僧寺 南松寺が創建された。明治に入り廃寺となり、今は観音堂がある。
 
そのまま西北にすすむが、左に団地ができて幅広い道となる。団地がなくなる前の信号で分かれて、、旧街道は山裾に入っていく。鶴川街道を越えてさらに西北にすすむが、その前に南西約300mにある井手の澤古戦場跡に行く。 鶴川街道と自動車道の鎌倉街道が交差する地に、菅原神社がある。

菅原神社
 神社の由緒によれば、『室町期の永享年間(1429-41)、近郷の大沢氏は天神像をこの井手の沢の山上に奉安し、江戸期初頭の寛永7年(1630年)その子孫・大沢玄藩は新たに渡唐の天神像を刻ませてここに奉安いたし、この地を寄進して本町田の鎮守とした』という。

井手の澤古戦場跡
 神社境内左手に、「史跡井出の澤」の石碑が立つ。
神社の左手に、井手の沢といわれる清水が湧き出しているところがあり、ここが、「中先代の乱」の決戦場になった。

・・・元弘3年(1333)5月に滅亡した鎌倉幕府最後の執権北条高時の二男、時行は、鎌倉を脱出し信濃の諏訪神党に匿われていたが、建武2年(1335)7月に信濃から武蔵国に入り久米川、女影原、小手指原などで足利軍を撃破して攻め上がった。鎌倉にいた足利尊氏の弟直義(ただよし)は、井手の沢一帯に迎撃してきたが、時行軍はこれを撃破し、鎌倉に入った。敗れた足利直義は京都に向かったが、この時、配下の淵辺義博に命じてご醍醐天皇の皇子護良親王を殺させた。しかし翌8月には時行は尊氏に敗れ、20日間の鎌倉占領で終了した。・・・

もと来た旧街道に戻り、恩田川の右岸を山裾に沿って進む、古道らしい様子となる。
すぐ右が永禄10年(1567)創立という養運寺で、前身は、文永年間(1264-74)以来の寺という。その先に歴王元年(1338)創立の宏善寺がある。
芳賀氏によれば、このあたりは旧街道の宿場があった所だろうという。
今井谷戸の交差点まで進む。

養運寺

                      宏善寺
境内にある変った石柱





道の風景

日向山公園               今井谷戸交差点から北へ
    

七国山
 今井谷戸の歩道橋をわたり、北に向かって坂道を上がるが、住宅がほぼ頂上近くまで建っていて、街道の面影はない。庚申塔が一基ある。

その先の頂上付近の林の中に進むとようやく古道となる。
左側の道端に、小さな鎌倉井戸が木枠でしっかり整備されて残り、説明板と、「七国山鎌倉街道の碑」と書かれた石碑がある。

鎌倉井戸
 それによると『鎌倉時代に掘られたものと言われ、新田義貞が鎌倉攻めの軍を進める途中、ここに井戸を掘り、軍馬に与えたと語り伝えられている。井戸の深さは約4mあまり、表土の部分は長い年月の間に崩れ落ちているが、地表から約1.5m下のローム層の部分には、下方に直径約70cm程の円筒形の井戸が原型のまま保存されている。この層から汗の様に滲み出た水が溜まるものと考えられている。』とある。

頂上の展望
 井戸を過ぎると、旧街道は左に行く。そこの右の土手の上が小さな展望台となっており、北の方角がさえぎるものもなく望める。
下りは、森の中の山道という感じでしばらく続き、やがて林を抜けると造成地がひろがり、住宅が立ち始めている。 
山裾に沿って北東にすすむと、今井谷戸から薬師堂の西を通ってくる別ルートと合流し、鶴見川にかかる丸山橋にでる。

芝溝街道から小野路へ
 その先に東西にはしる芝溝街道がある。ここから北に広がる丘陵をこえると小野路宿があり、そこに向かうのに、二つのルートがあり、今回は東側をすすむ。
 
野津田公園入口の看板がある道を北に入る。左側に文政11年(1828)建立の大きな地神塔が立っている。
すぐ坂になるが、右手の先には華厳院がある。

野津田公園へ
 うっそうとした竹藪の先は、すぐに開けた土地となり、新たに造成された広大な野津田公園ができている。
公園から先は残念ながら旧街道は消えている。

中に残っている林の中を北に進み、バス道に出る。

小野神社前のT字路


小野神社
 小野路の広い通りを西に進むと、小野神社のある信号になる。左からもう一つの旧街道が来てここから一緒になる。
ここから西側の通りは南と北から丘陵がせまり、、通りに沿って狭い町並みが続く静かな、情緒ある通りであるが、すでに道路の拡張工事の準備が始まっていた。
 神社の説明板があり『小野神社は、小野篁(たかむら)の七代の孫小野孝泰が武蔵の国司として天禄年間(972)頃赴任し、小野路のこの地に小野篁の霊を祀ったことに由来する。小野篁は、菅原道真の先輩で、小野道風は孫にあたる。・・・中略』
 応永10年(1403)には、交通の安全を祈願して宮鐘が奉納され、旅人に時をしらせたという。(現在は、逗子市の海宝院に保管されている)

 小野路宿は、戦国時代一時寂れたが、江戸時代には大山往還の宿場として活気を取り戻したという。
幕末開港以後は、八王子と神奈川を結ぶ生糸輸出のための運搬路として栄えた、という。

旧街道の風景(1)
 小野神社の信号から西に向かうとすぐ右に中世からの名主、小島家がある。信号から約300mいくと、右手に丘陵に上がる坂道があり、これが旧街道である。

ここから、1km弱、鎌倉古道の趣をを最もよく残している道のひとつであると確信する。
左に地蔵尊の祠があり、石久保子育地蔵尊と書かれ、台座には明治2年(1869)と刻まれている。

旧街道の風景(2)
右手には、小さな石塔がひっそりと立っている。明治8年7月 馬頭観世音とある。


恵泉女学園前(2)
 恵泉女学園の裏の道に出たところに、鎌倉古道(鎌倉街道上ノ道本路)跡という標柱がある。
すぐ先が多摩ニュータウンの南端を走る道路で、「恵泉女学園前」交差点である。



ここから京王永山駅に行った。
散策日  2008年3月7日  南町田-永山

参考
「旧鎌倉街道 探索の道   上道編」 芳賀善次郎著