中の道 1.北鎌倉−下永谷
  地図 @北鎌倉−本郷台  A本郷台−下永谷

 

 北鎌倉駅から自動車道で500mほど北西にある水堰橋を、中道の出発点として、中道の旅をスタートする。そこに、『びっこ石』(清明の石ともいう)というたいらで大きな石があったという。「知らずに踏むと足が丈夫になり、承知して踏むとびっこになる」という言い伝えが残っている。(芳賀氏)
そこで、現在その石が移されたという八雲神社に出かけて、それを見てから―踏まないでー出発とする。

八雲神社と清明石
 北鎌倉の駅(臨時出口)から200mほど西の山側奥に、八雲神社の参道(石段)がある。元仁元年(1224)疫病がはやった時、村人の健康を祈って祇園八坂の神霊を勧請したといい、牛頭天王社といわれた。関東管領上杉憲房が室町時代に武運長久を祈願して京都から勧請したという説もある。

清明の石と庚申塔
 境内左の高い所・・安倍清明と刻まれた石柱の前に「清明の石」がある。今は、除災の石として信仰されている。
 
 境内左のさらに奥-小高い丘の裏側にまわると、庚申塔などの石塔群が立っている。
その中でも真中に、大きな庚申塔がある。寛文5年(1665)銘のある鎌倉最大最古の石造庚申塔という。

水堰橋
 Jバス道までおりて西に向かい自動車の鎌倉街道が直角に曲がる角を過ぎて100mほど先に、水堰橋がある。
 橋の手前に「せい志くばし」と刻まれた石柱がある。鎌倉武士はこのあたりで、鎌倉入りの準備と勢揃いすることになっていたので、「せいぞろい」→「せいしく」→「すいせき」という橋名になったという。
右側には、享保12年(1727)銘の庚申塔(?)/.道標がある。

中道の旧街道は、ここを右に進む。バス道をまっすぐ西に向かうと、植木、俣野、瀬谷・・と続く上道の一つである。

成福寺(じょうふくじ)
 JRの踏切を越えると右側に茅葺の山門の成福寺がある。
開山は成仏(北条泰時の子、泰次)で、親鸞に師事して浄土真宗に改宗し、貞永元年(1232)に建てたといわれる。
4代住職成円は、北条高時の実弟であったため、新田義貞の鎌倉攻めで津法され、70年ほど無住だったという。
現在、鎌倉唯一の浄土真宗の寺院である。
            境内左にある四季桜(10月桜)

地蔵堂
 そのまま北に進み広い車道を斜めに横切った先に十字路があり、角に地蔵堂がある。説明板があり、「離山地蔵菩薩坐像」といい、元禄期(1700)ごろ、山の頂に石地蔵が建ったという。その後この地に移された。
自然石を利用した石地蔵である。

道の風景
 このあたりは離山と呼ばれているが、往時は南から地蔵山・長山・腰山という三つの離れた山があったことから地名になったという。
旧街道らしい道をゆるやかに曲がりながら北に進むと、砂押川で行き止まりとなる。郵便局前の信号から車道を進む。資生堂前あたりで消えた旧街道と合流することになる。

青木神社
 その先右側の丘の上に青木神社があり、長い石段を上る。石碑にある由緒によると、「社伝によれば建武2年(1335)近藤出羽次郎清秀が領内笠間村の青木繁る高所に神社を建立、一族と領民鎮護の社としたという。新編相模国風土記には『青木明神社 村の鎮守 村持』と記されている。」

新橋
 笠間の交差点を抜けて、いたち川にかかる新橋をわたる。いたち川とは、鎌倉武士が出陣する時の出立川(いでたち)がなまったものといわれている。直進すると、戸塚へいく。旧街道は右に折れて東北に進む。
道標と地蔵堂
 角に地蔵堂と道標がある。
道票は、大きくしっかりと字が残っており元禄4年(1691)建立で、正面には「従是 とつか道」とあり、右側面には「従是 ぐみやうじ道」 )とある。
その右には、延命地蔵尊が立つ。

庚申塔等の石塔
 旧街道がのこりまわりに住宅地ができてきたため、一部の道は他と比べると狭い。
JRのガードに手前に、庚申塔など5基の石塔が並んでいる。


     明和元年(1764)の庚申塔
道の風景
 JRのガードをくぐり、栄区下水処理場の手前で道は二手に分かれる。左側の坂道には、大きな民家があり、其の角に道票が立っている。
「坂・ぐみやうじ道」と書かれ、裏には、正徳5年(1715)とある。

 
 その民家には大きな長屋門がある。
緩やかな坂道を上っていくが、その先、本郷台小学校の北の先から住宅地が続き、旧街道は辿れなくなる。

その先は、小菅ヶ谷小学校の北から先に丘陵の尾根伝いに北の舞岡公園に行く道があるので、そこにつながると思われる。

長屋門
 道標のある道まで戻り、もう一つの旧街道を行く。下水処理場の所にある広い車道をこえ、その先の工場と駐車場の間の右側奥に立派な長屋門を持った農家がある。
そこから北へいくと、本郷台駅方面からバス道路に合流する。
このあたりの開発がどんどん進行している。

長光寺
 合流地点左側高台にある。寺の説明板によると、「伊豆の豪族伊藤祐親の孫祐光が鎌倉時代に創建したという。、伊豆に流された文覚上人から祐親に贈られた上人自作の薬師如来像を本尊として、鎌倉に来て父祐清の菩提を弔うため、ここに一宇を建てた、という。その後浄土真宗に改宗。
徳川家康の鷹狩の時の言い伝えで、「花立薬師」ともよばれる、という。

木曽の石仏
 北に行き、左側からの環状3号線への入り口の角に3基の石仏が石垣の所に収められている。道路工事の関係でこの場所になったとおもわれる。両脇には力石と、享保10年(1725)の供養塔がある。小さな説明板がついている。いわく
 「鎌倉古道 木曽の石仏  この石仏は旧鎌倉道の木曽と赤坂の境の辻に、行路の安全を願って安置されたもにで、風化が著しいが地蔵菩薩一体と如意輪観音または聖観音2体であり、造像年代は江戸元禄頃と推定される。又土地の性質から道祖神の役割も果たしていた」

道路建設
 西谷戸のバス停をと環状3号を線過ぎるあたりからこの広い車道の右側に細い道がある。旧街道の名残とおもわれる。緩やかな坂道で、往時は「摺小鉢坂」といっていたという。北からくると谷間の底に下る形になるからという。
ただし、西側は道路の建設中で、東側は宅地造成中である。
この写真の上の橋は、舞岡公園から南下する尾根沿いの道である。

舞岡公園
 坂道の先の丘が舞岡公園として整備されており、その手前の道にぶつかる。車道は右折後左へ上がって行くが、旧街道は細い道をまっすぐ登る。(今ではほとんど使われていないようだ)
舞岡公園の南側に位置する場所に出る。

その先は京急港南ニュウタウンが広がり、公園を越えると、バスの発着場があり、その先は京急港南ニュウタウンが広がりる。
旧街道は北方面の日限地蔵がある小高い丘にむかうが、そこまでは完全に消えている

日限地蔵尊 福徳院
 京急ニュータウンの真中を走るバス道を、日限地蔵前の信号までいく。
旧街道は日限地蔵尊のある丘の南側を西北にむかっている。

 福徳院は、慶応2年(1866)に開創され、かっては横浜の高野山とよばれる山深い寺であったという。
 港南区歴史協議会のHPによると、「昔、永谷村の農民で、日ごろ癪(しゃく)に苦しんでいた飯島勘次郎が、一人の旅僧に三島の連馨寺の日限地蔵を信仰すれば治るといわれ、出かけて祈願したところ痛みがなくなった。そこで、連馨寺から分身を勧請し、舞岡町にお堂を建てたのが始まりで、その後、子孫が修理、高野山真言宗 福徳院とした。」という。

尾根伝いの道へ

 バス道路におりて、下永谷駅入口信号から、北に入り、すぐ左にある特養ホーム芙蓉苑の脇の坂を上って行く。ここから、旧街道の続きとなる。ここから、丘陵上の尾根道が続く。下永谷町と舞岡町の境界線上の道を進むことになる。
    

 林の中を進む途中の左側では、造成がはじまっている。 間もなく、住宅街となり、横浜西港南台郵便局の脇を通り、環状2号線と国道1号線を結んでいる車道にでる。

この道の北側に、下永谷市民の森が広がっており、旧街道はその西端を通ることになる。
     
    
 散策日   2007年10月5日
 参考資料  「旧鎌倉街道探索の旅  中道編」  芳賀善次郎

 「神奈川県の歴史散歩」