中の道 
11和戸-栗橋 

        地図 @和戸−幸手   A幸手−外国府間   B外国府間−南栗橋
             C南栗橋−栗橋




 下野田の一里塚付近から旧日光御成街道から外れて、東北に向かって和戸駅の南で古利根川を渡ったあと、北に向かう。その先で、御成街道と一緒になり、幸手-栗橋に進む。


西北へ
 和戸駅から東の古利根川に向かい新しくできた住宅街を抜けて万願寺橋を目指す。
橋の手前の小公園のある橋の手前で、旧街道-中の道-の散策を開始となる。
橋を渡った直ぐ先の信号を渡り100mほど先の左への細い道に入る。
古利根川と並行して西北に進むが、途中には石塔が立ち古道の雰囲気のある道である。

全長寺
 左側に、足利氏の氏族で、この地域を支配した幸手城主 一色氏が建立した全長寺がある。
本堂の引き戸に、丸に二つ引の足利氏の家紋が付いている。

天満宮
 そこから100mほど先の細道を左に入って行くと、小さな社がある。年代不詳。
境内には、杉戸町の指定文化財で樹齢600年といわれる槙の巨木が聳えている。
 もとの道に戻ったあたりの両側には、古くから続いていると思われる旧家が並んでいる。

永福寺
 すぐ先で入口に「高野大せがき寺」と刻まれた石塔が立ち、参道が続く永福寺がある。説明板によれば、往古は阿弥陀寺と称し、本尊は神亀3年(726)行基作と伝えられている。その後五代将軍綱吉の頃永福寺と改められた。江戸後期の代表的な心学者として活躍した大島有隣と関口保宣の墓がある。二人は郷里大島村(現杉戸町大島地区)に名主藤城吉右衛門とともに「恭倹舎」を建て、心学の普及に尽力したという。
 毎年8月に行われる施餓鬼は、「どじょう施餓鬼」としても知られ、関東三大施餓鬼の一つと言われている、という。

西行法師見返り松
 山門の北側の道端に、西行法師見返りの松と言われる松と碑がある。(今は何代目か、若い松である)
文治元年(1186)69歳の時、東大寺再建のため平泉に向かう途中、激しい風雪に会って倒れたが村人の看護を受けた。静養中に庭の松をとても愛し、病が治り村を離れる時に、松を振り返って旅立ったという。 
足利尊氏の有力な武将、高師直の歌の碑がある。

景色

 北に進むに従って右側には田畑が多くなる。季節柄か、ちょうど「ガマガエル」が周囲一帯に向けてその存在感を示すように低くうなるような声で鳴いている。

それぞれの縄張りを主張して一定の間隔を過ぎると別の鳴き声が聞こえてくる。

昔から変わらない風景であったろう。

下高野一里塚

 しばらくすると、左側に新しい住宅が並んでいるところがあり、旧道から外れて細い道を真西にむかうと、旧日光街道に出る。
そこに一里塚が立つ。
(下野田の一里塚から北東一里の地点)

今残っているのは東塚だけであるが、このあたりは古利根川の自然堤防になっており、その上に塚が設けられ松が植えられていた、という。

旧街道の景色

 元の旧道に戻り、右側に田圃が広がる用水路沿いの道を進むが、土手に、胡桃の実がなっていた。

その先すぐに、旧日光街道街と合流する。

八幡神社
合流してしばらく進むと、松並木の名残があり、左手に八幡神社がある。下野村の鎮守の一つであったという。
境内右手に天保7年(1836)の馬頭観音供養塔や元禄7年(1694)の形の整っている庚申塔や地蔵像が立つ。庚申塔の左側面には、「右 江戸かい道..」とあり道標も兼ねていたようだ。

松並木の名残

 途中には、松並木の名残があり、街道らしさを出している。

「御成街道の松並木」の説明版が立っている。

御成街道;日光街道の脇往還で、江戸日本橋を起点に本郷追分で中山道と分かれ、岩淵をへて荒川を渡り川口−鳩ヶ谷−大門−岩槻の4宿を経て幸手宿の南で千住からの日光街道と合流する五宿12里の街道である。
 この街道は、将軍の日光東照宮への参詣の道であったが、江戸時代を通じて13回ほど使われた記録が残るという。


道標
 まもなく幸手市に入り、その先の信号のある三叉路の角に比較的大きな道標が立っている。正面には「馬頭観音菩薩」 左側面に「文化14年(1817) 右 日光 左 いわつき 道」とあり、右側には「西 くき 志ようぶ かず 道」と刻まれてり、

琵琶溜井(びわためい)

左側には琵琶溜井と呼ばれる水門があり、大きな用水路が流れている。今は葛西用水路と呼ばれている。
説明板によれば、関東郡代伊那忠克が古利根川を開発して琵琶形のダムと各地への水門を造り、水田への水を確保し、江戸を水害から守るために利用したという。

近くには、正徳2年(1712)の庚申塔が立っている。


追分

 旧街道は大きく右へカーブするが、その先で東側から江戸時代の奥州街道(日光街道ともいう)が合流する追分となる。

千住から草加−越谷−粕壁−杉戸−幸手−宇都宮−白河と続く。(幸手から宇都宮までは日光御成街道と同じである)


神宮寺

 追分から150mほど先左手に神宮寺がある。「頼朝が欧州征伐の折に、この地で鷹狩をし、戦勝を薬師如来に祈って開基したと伝えられる」という説明版が立つ。

東部日光線の踏切を渡り、川をこえると旧街道は北に向けてまっすぐ進む。

神明神社
 右側には神明神社がある。宝暦5年(1755)伊勢皇太神宮の分霊を祀った神社というが、境内には菅谷不動尊があり、これは 「たにし不動尊」として知られる。眼病の人がたにしを描いた絵馬を奉納・祈願すればご利益があるといわれる。大正11年(1922)奉納の狛犬の足の下に 「たにし」がある。 


л号高低標

境内入口の案内板の後ろに、神社に奉納された灯篭の基礎部の石があり、その側面に「不」の記号が刻まれている。これは、「л号高低標」といい、明治7年(1874)にイギリス式の測量方法が導入され、東京―塩竃間の水準測量を行った際、神社の鳥居や灯篭などに設置されたものという。


明治天皇行在所跡
 明治9年(1876) 奥羽巡幸の際、またその後の巡幸の際にも幸手市に宿泊(元本陣の知久家に)しているという説明版が立つ。

幸手の町並み
  

本陣 知久家跡

 通りの中心にあたる中一丁目の信号のある三叉路の角にうなぎ屋があり、その前に案内板がある。

幸手宿で、本陣・問屋・名主の三役を兼ねたもっとも重要な役割を果たしたという知久家跡である。

聖福寺
 まもなく街道は右へカーブするがその手前左に入る道の奥に聖福寺がある。応永年間(1394−1428)の開山という。
江戸時代には日光参拝の折や、東照宮例大祭に天皇の代理で参拝した例幣使の帰路の休憩所に使われたという。

正福寺
 すぐ先突き当たりに正福寺の参道がある。山門を入った右手に義賑飢餓之碑がある。天明3年(1783)浅間山の大噴火により大飢饉が発生した。名主知久文左衛門は幸手宿の豪商20人と金銭・穀物を出し合い難民を救済した。時の代官―関東郡代伊奈忠尊の知るところとなり、顕彰碑を建てさせたという。
    義賑飢餓之碑→

道の景色

 再び旧道はまっすぐ北に進み、広い自動車道の国道4号線に合流する。
しばらく進むと右手の奥にこんもりとした森が見えてくる。権現堂川の堤防の森である。ここでまっすぐ行かずに途中の公民館入口の標識のある道を右に入り、堤防に向かう。


順礼の碑と権現堂堤
  


 中川の堤防と並行して走る道路の信号を越え、堤防の森に入ると、右側に順礼の碑がある。
説明版によると、享和2年(1802)長雨のため水位が上がった利根川が決壊し、人々は土手の修復に当たったが、激しい濁流のため工事ができず手をこまねいていた。その時通りかかった順礼の親子がこれを見かねて人柱を申し出、流れに身を投じたという。すると洪水はおさまり修復工事が完成したという。
別の説もあるが、人身御供になった順礼親子を供養するために昭和8年(1933)に建立されたという。
碑には、明治・大正の有名な日本画家 結城素明の母子順礼の姿が刻まれている

 権現堂桜堤を国道に向かう。国道のかかる橋は行幸橋と呼ばれるが、その手前の高台に行幸堤之碑がたっている。権現堂堤は、権現堂川の水防のために江戸以前から造られていた堤で、江戸時代を通じて何回かの洪水を経て、明治8年(1875)に 新権現堂堤が完成したという。


行幸橋からみた権現堂桜堤

道標

行幸橋を渡って自動車道から分かれすぐ西側の道に入る。 旧街道であり、旧日光街道でもある。
 すぐ先で道は二又に分かれるが、そこに彫刻・文字がはっきりときれいに残っている道標がある。
安永4年(1775) 日光街道と筑波道の分岐点に建てられたものである。左側面には「左日光道」、正面には「右つくば道」右側面には「東川つま道 まいばやし道」と刻まれいる。(かわつま;茨城県五霞村字川妻、前ばやし;茨城県総和町前林 で、筑波へ行く道順である。


電神社
  道標に従って左側の道を進む。古道らしい趣のある道幅が続く。
 集落のはずれに、鳥居に「雷電宮 権現宮」と掲げられたが雷電神社ある。社自体は新しいが、境内や雰囲気が古さを感じさせ、また祠に納められた寛文6年(1666)の地蔵像や、延享4年(1747)?の庚申塔、十九夜女人講供養塔などが並んでいる。

小右衛門村の一里塚

 その先は国道4号線に沿って、西側の一段低くなった細道を進む。

 途中古く壊れかけたお堂らしき建物の前に一里塚の説明版がある。幸手宿と栗橋宿の中間で小右衛門村に位置し、江戸から14番目という。
塚の上にあるのは、権現堂川から移築されたという弁財天堂という

しばらく進むと、新幹線のガード下をくぐる。

八幡宮
この先で旧道は消えるが、国道4号線の端に上がってすぐ左に向かう広くなった道を進む。すぐ先右側(国道との間)に、鳥居に「香取宮 八幡宮」と掲げられた川通神社がある。


津見送り稲荷神社

 神社の前の新しく拡張された道を進むと、民家の敷地の中に赤い鳥居と祠が見え、説明版がある。江戸時代会津藩の武士が江戸へ書面を届けるため、栗橋宿下河原まで来たが地水のため通行できず困っていたところ、狐の化身である白髪の老人が現れて道案内をしてくれ、無事江戸に着いた、などのいろいろな説がある。

烙(ほうろく)地蔵

 稲荷のある民家から国道と平行して西北に向かう細い道路を進み、国道と交差する道路の下をくぐって、旧道の続きに出る。

 その先に小さな地蔵堂があり「焙烙地蔵」の説明板がある。
利根川の関所破りの罪人を火あぶりの刑にした所で、土地のひとが供養のための焙烙地蔵として祀ったものという。


正寺

 地蔵堂の前から、旧道が拡張された道を進む。
200mほど先に正寺があり、栗橋宿のもととなった上河辺新田を開墾し、代々本陣役を務めた池田鴨之介の墓がある。顕正寺はその菩提寺として下総国中田から移ってきたもので、町指定の阿弥陀如来像ある。

旧街道は昔からの町並みが残り、ゆったりとしたカーブで西北に向かっている。

利根川の渡しまではもう少しであったが、暑さと長距離を歩いたことからあきらめて、東北本線の栗橋駅に向かった。
     
    
 散策日   2010年7月16日  和戸駅〜栗橋駅            
 参考資料  「旧鎌倉街道探索の旅  中道編」  芳賀善次郎