中の道 
12栗橋-古河

        地図    @栗橋-板間   A板間-古河



 栗橋から利根川を渡り、古河公方の館跡を訪ねる。


静御前の墓
 栗橋駅から旧街道に戻る前に、駅前の静御前の墓に寄る。
義経が藤原氏を頼って平泉に向かったあと、静御前も義経を慕って京都を発ったが、途中の下総国下辺見付近で「義経討死」の報を聞き、仏門に入ったが、文治5年(1189)この地で死去したと伝えられる。
 文化3年(1806)に建立されたという歌碑がある。
 「舞う蝶の 果てや夢見る 塚の蔭」

旧街道にでると、この辺りは日光街道の宿場町があった所で、古い家並みが残る。
町はずれ・・道の突当り・・には八坂神社がある。
   

利根川(橋から八坂神社の森を見る)
 八坂神社の東は利根川の堤防であるが、堤の上に関所があり、その先で川原に下って渡し舟で渡ったという。
栗橋関所跡の碑が立っているということで探したが見つからなかった。(左右の利根川橋の間にあるはずであるが、歩道が左側の橋にしか付いていないため、中に入れなかった。)

中田宿
 利根川橋を渡って直ぐの信号で左折し、100mほど土手と並行して進み、角を北に進む。最初の左に入る道を西に行くのが旧街道(旧奥州街道)で、そのまま真っ直ぐ行くが日光街道である。

寄り道して、中田宿に行く。100m先で「公方通り」を横切ると、左角に「中田宿」の立札が立つ。
利根川の水辺から北へ530mほど続いている宿場で、天保4年(1843)では、栗橋宿404軒に対し、中田宿は69軒であったという。

鶴峯八幡神社
 信号から300m程先の左手に鶴峯神社がある。
創立は養和元年(1181)で、頼朝の奥州征討の折り、戦勝祈願し武運が開け、鶴岡八幡宮の分霊を勧請したという。



 その隣が、静御前遺跡の寺として有名な光了寺である。


光了寺
 光了寺はもと武蔵国高柳村(栗橋駅前)にあって、高柳寺といい弘仁年間(810〜824)の創立という。その後この地に移り、寺名を改めたという。
静御前が後白河法皇より頂いたという恩賜の舞衣『蛙蟆龍(あまりょう)』などが所蔵されている。
 蛙蟆龍(あまりょう):
   雨をつかさどるといわれる中国の想像上の動物。
   龍に似た動物で、黄緑色という

静橋
中田宿の立札の手前の、旧奥州街道への道まで戻り、西に進む。
この辺りの小さい川を渡っていた橋が、静橋と言ったというが、この橋かどうかは分からない。
細い旧街道をすすむと、自動車道(公方通り)の手前に、明治時代の顕彰碑が立っている。

道の景色(1)
 公方通りを越えて、道なりに進むと、宇都宮線のガード下を通る。
100mほどいくと、自動車道と合流し、その先で少し右手に入って進む道もあるが、その後はずっと広く整備された公方通りを北に進むことになる。

        ガードの先の道→

道の景色(21)
 片側2車線分の道路が、交通量の関係からか1車線に狭められており、その分歩道をゆったりと歩ける。
西側の畑の先には、利根川の堤防が続くが、その先、北は、渡良瀬川となる。

道標
 東側奥に「板間企業団地」があり、過ぎた地点の西側の一画に、百庚申塔と刻まれた昭和に建てられた大きな石碑があり、その前に小さな道標が立っている。
文政9年(1826)と刻まれ、「東 茶屋新田 右 古河 左 新久田 南 中田新田」とある。

古河公園への脇道
 旧街道は、このまま北に進むが、鴻巣に入ってから、信号を左斜めに入って古河公方の館跡を訪れる。
道を入ってすぐ左に文字庚申塔が立ち、その先の民家の前には真新しい馬頭観世音の石塔がある。

石塔
 更に奥にいくと、右手の畑の前に小さな祠があり、元文4年(1739)の十九夜灯の如意輪観音、萬延元年(1748)の馬頭観音石塔、文政9年(1826)の十九夜塔が立っている。
その先で古河総合公園となる。
突当りに案内表示があり、左手奥の古河公方館跡、民家園に行く。(右手は、公園正面入り口である)

移築された民家
 二つの民家が移築されている。
「曲がり屋」という うまや部分が突出しL字形をしている旧飛田家で、延享〜寛延年間(1744〜50)の頃お建築という。
左側にあるのが、旧中山家で、茨城県岩井市からの移築で、延宝2年(1674)の建築と言われる。

 その奥の樹林の中に古河公方館跡がある。

古河公方館跡
 

 周りには空堀が残っており、古河公方館跡という石碑と案内板が立っている。この辺りは、旧御所沼に突き出た半島の高台で、足利成氏が建てた古河城の別館があった所という。

 足利成氏は関東管領足利基氏の子孫で鎌倉にいたが、執事上杉憲忠(のりただ)と対立して康正元年(1455)古河城に移った。成氏は結城・佐竹・宇都宮・小山・千葉・里見など関東豪族の支持を受け、上杉氏が擁立した将軍義政の子政知の堀越公方と覇権をかけて争うことになった。その後4代晴氏の時北条氏康に攻められ、北条方についた。
5代義氏には跡継ぎがなく息女「氏女うじひめ)」がいたのみで、ここに移された。小田原攻略後、秀吉が名家の断絶を惜しみ子弓義明の孫国朝を跡継ぎにし、「氏女」を配して喜連川城主とした、という。

 林から出て北に進む。館の跡付近が高台になっており、反対側はきれいに整備された池と広場がある。
 正面入口を出て、北に100mほど向かうと、虚空蔵菩薩(右)の入口があり、その右手にお堂があり子安地蔵が安置されている。

子安地蔵
 この木造地蔵菩薩坐像は、子育てに功徳があるということから、子安地蔵の名で知られる。
もとは古河公方5代足利義氏の娘「氏女」が鎌倉から勧請したものといわれ、高さ60.3cmの寄木造・玉眼・漆箔の技法で、南北朝〜室町時代の作といわれる。

徳源院跡
 地蔵堂の前の道を北に行き、再び公園にはいる。左側の梅林を100mほど進むと、少し小高くなった林の中に、「足利義氏墓所」の石碑と説明板がある。右奥の土盛りの所が義氏の墓とされ、左には義氏の娘 氏女の石塔が立っている。
ここには、明治初めまで円覚寺末の徳源院という氏女の法号にちなんだ寺があったという。
 公園から北に向かい、旧街道(公方通り)にもどる。

台町の神社
 古河庁舎前を過ぎてしばらく行くと台町会館があり小さな神社がある。左手にほこらがあり、顔が補修された青面金剛が刻まれた庚申塔など3基の石塔がたつ。
安政2年(1855)とある。


会館の直ぐ脇の道を左に行き、古河城の北の部分からから渡良瀬川までをたどる。

鷹見泉石邸
 まもなく古河歴史博物館のサインがあり、右にいく。
博物館は、古河城の「出城」があった位置に建てられている。南側に鷹見泉石が晩年住んだ家で、建物自体は寛永10年(1633)に建てられ、改修されたものという。庭には「楓樹(ふうじゅ)」・・・唐楓(とうかえで)の一種・・・という珍しい木がある。
 徳川吉宗が、古代天子の居所に植えられたということから中国から輸入させ、寛永寺と東照宮に植えたという。

鷹見泉石<天明6年(1785)〜安政5年(1858)>;古河藩の家老で、蘭学者。
  藩主 土井利位(としつら)の大阪城代在職中に起こった大塩平八郎の乱の
  鎮圧にあたった。

長谷寺
 鷹見泉石記念館の西に長谷寺がある。
明応年間(1492〜1500)に初代古河公方成氏が、鎌倉の長谷から勧請した木造十一面観音菩薩像がある。古河城の鬼門を守る仏として歴代藩主の祈願所であり、また、長谷観音とよばれ鎌倉、大和と共に日本三大長谷の一つとされている。

正定寺(しょうじょうじ)
 長谷寺の脇の道を北に行き、古河駅と三国橋を結ぶ広い道路にでる。
突当り左の奥に広い境内の正定寺がある。
寛永10年(1633)古河藩主となった土井利勝の創建という。
(寛永15年(1638)には江戸幕府初代大老となる。)
土井家の墓所は浅草誓願寺であったが、昭和初めに正定寺に改葬されたという。

頼正神社
 三国橋方面にすすみ、左へ大きくカーブする手前を左折するとすぐ右に高台がある。古い石段を上がるとあまり整備されていない境内の奥に源三位頼正を祀る頼正神社があり、そのすぐ南には水神宮の社がある。
頼正は、保元の乱では後白河天皇方に参加、平治の乱では源義朝を捨てて平清盛を助けた。その後以仁王(もちひとおう)のすすめで平家を討とうとしたが、宇治川の戦いで自刃した。家臣がその首を奉じて葬ったという。(はじめ古河城南端にあったが渡良瀬改修のため現在の地に移されたという。)

古河城船渡門址
 水神宮から南に下りると、公園が南北に広がる。公園の東端には「古河藩作事役所址」の石碑がたち(右)、堤防にそった南端には「古河城船渡門址」の石碑が立つ。(左)

 古河城ははじめは下河辺氏が築き、その後何代か代わり、足利成氏が古河公方として移って来た。

渡良瀬川
 船渡門の外は渡し場となっており、鎌倉中道から分岐してきた道は、対岸の向古河(むかいこが)に進んで行った。
堤防にでると、南側に三国橋が架かっている。

         堤防から公園側を見る→

永井路子旧宅
 もと来た道を正定寺までもどり、更に東に進んで旧街道まで戻る。
途中 永井路子旧宅がある。江戸時代末期の建造といわれる店蔵が復元されている。
この通りには古い家並みが残っている。

古河城下本陣跡
 旧街道のもどると、左側に「古河城下本陣跡」の石碑が立っている。
すぐ先には新しく置かれた「古河宿」の標識も建っている。


 ここから東へ約300mほどで宇都宮線古河駅に行く。

 芳賀善次郎氏の 「旧鎌倉街道探索の旅  中道編」 をベースに、古河まで進んできた。
ここから更にら北に向かって、日光街道/奥州街道のもとになっている鎌倉街道は進んで行くのであるが、芳賀氏の著書は、ここで終了であり、私自身の『中道の散策』もここでひとまず終了とする。

ただし、下道、上道との連絡道や支道などまだ多くの鎌倉の古道がその著書で紹介されており、今後とも機会を見つけて鎌倉時代の古道を散策する予定である。
     
    
 散策日   2010年9月17日  栗橋駅〜古河駅            
 参考資料  「旧鎌倉街道探索の旅  中道編」  芳賀善次郎