中の道 
10岩槻−和戸 

          地図 @岩槻−慈恩寺   A慈恩寺−彦兵衛   B彦兵衛-和戸



 この区間の旧街道は、旧日光街道と同じ道であるが、途中から分かれて東に行き、東武伊勢崎線の和戸駅の東で旧利根川を渡ることになる。(その先で再び合流する)

日光御成街道を北へ
 岩槻駅から旧日光街道にでて東にいくと、渋江の交差点で「時の鐘」の脇を通ってきた旧道と出会う。
交差点を北に向かい、前回訪れた浄安寺を右に見て進む。
途中には「日光御成街道」のサインがある。

地蔵尊と道標
 東武野田線をくぐって数百m行くと信号のある三叉路がある。
 屋根に覆われた地蔵尊と、手前に道標を兼ねた供養塔か馬頭観音らしい石塔やその他石塔らしきものがある。
「是より ちおんじ道」「是より右・・・・ミち」というように読めるが定かではない。

元荒川
 まもなく慈恩寺橋で、元荒川を渡る。西側奥には岩槻工業団地があり、右側には住宅地が広がっているが、一部にはまだこうした風景も残っている。
先の交差点角には、天明7年(1781)の石橋供養塔が立つ。近くの古隅田川の源流の一つである山城掘に架けられていた石橋の供養塔という。

慈恩寺への道-道標
 交差点から200mほど先に斜め右に入る細い道があり、そこに大きめの道標が立っている。
「是より右 慈恩寺道」とある。
旧道はまっすぐに進むが、約1km北東にある慈恩寺を訪ねることにする。
新しい住宅が建つ中を北東に進み、200mほど先からは東に、左側に畑が広がる道を進む。

慈恩寺への道-石塔
 その先の三叉路右手に表慈恩寺公民館があり、その前に数基の庚申塔や石塔が並んでいる。天明2年(1782)や、寛政12年(1800)などと共に、大正期の石塔もある。
そこから真北に進むが、のどかな田園風景が続いている。

慈恩寺への道-地蔵尊
 その先には、古い地蔵尊が畑の脇に立っており、慈恩寺近くになると、薬師堂が建ち、また古い庚申塔なども並ぶ。
 突当りに慈恩寺がある。
左から来る道の正面に山門があるが、境内は広く、南側が道路に面しているので、開放感のある寺である。

慈恩寺


 天長元年(824)に慈覚大師(円仁)によって開かれた天台宗の寺院で、関東有数の寺院として栄え、坂東観音12番札所として、全国から信者が詣でたという。
 慈覚大師(794〜864)は下野国の出身で、伝教大師最澄の弟子となり、唐に渡って修業ののち、延暦寺第三世座主となった。
 
 徳川時代には家康から100石の朱印地を受け、寺領だけでも慈恩寺村、裏慈恩寺村がうまれ、今でも地名として残っている。

←元禄4年(1691)建立という山門



本堂(観音堂)には参拝者が多く訪れており、境内の藤棚が満開であった。

 ここからは旧道を目指して西に向かう。
 途中の右側の畑の一画に文政13年(1830)の薬師如来と刻まれた石塔を祀った祠がひっそりと立っている。

毘沙門天堂
 さらに行くと右側に、民家風の堂が建っている。
石碑の碑文によると、ここに、運慶作と伝えられる毘沙門天が祀られており、堂宇があったといい、平成3年に再建したという。
左手には、享保6年(1721)の供養塔や、天保3年(1832)の石塔、ひらがなが刻まれた石塔などが並んでいる。

道標
 そこから100mほど先の左側には、天満宮と掲げられた小さな社がある。

 信号のある交差点で旧道に出会う。右角のブロック塀に挟まれて、供養塔が立っている。
青面金剛供養塔と刻まれ、三猿が彫られた庚申塔である。右側面には「是より・・・・」、左には宝暦5年(1755) 「・・よしみミち」とと刻まれて、道標ともなっている。

相野原一里塚
 道標から北200mほど進んだ右側に、相野原一里塚跡がある。説明板はないが、「ワコー産業」という会社の入り口の手前にあり、塀が周囲を囲んだ形になっている。
その先の道の左側の一段高い所に、享保7年(1722)相野原村講中の建立の地蔵尊が見える。

杉並木の名残
 その先には杉並木に名残がある。
説明板があり、三代家光の時代に杉並木が整備されたが、今はこの区間のみ残るという。
両側約300mにわたって続くとされているが、片側ずつ残っており昔の面影はない。

旧道のルート(彦兵衛付近から真北へ)
 左に宝国寺を過ぎて、左、右と大きなカーブで進むが、「岡泉」の交差点を過ぎて隼人堀川に架かる往還橋を渡る。
その先に「彦兵衛」という信号がある。
旧道は、この辺りから真っ直ぐに北に向かっていたという。(今は消えている。)
旧日光街道は旧道を避けて左に大きくカーブして 旧宿場町の和戸に向かっている。芳賀氏によれば、旧道の道筋は水害が多かったためではないかという。(貝殻坂の場合と同じ)
 
旧道に進む前に、旧日光街道の下野田一里塚に行く。

不動明王
 「彦兵衛」の信号を過ぎて西北に進む。
 宮姫落川を渡ると左側の林の中に小さな社がある。
不動明王社と書かれ、中にはっきりと彫りの残る不動明王が刻まれた石塔が立っている。武蔵国埼玉郡上野田x下原 、嘉永4年(1851)建立とある。
 まわりは、麦畑と水田が広がる。

下野田一里塚
 すぐ先の広いT字路は東武動物公園入口という信号で、その先に下野田一里塚がある。
東西両方の塚がほぼ原形のまま残っている。
西側の塚の前に説明板があり、日本橋から11番目にあたる一里塚である。

 旧道に向かって進む。 
彦兵衛付近から北に向かった旧道に行くために、先ほど通りすぎた東武動物公園入口の信号まで戻り、東に向かうことにする。

道の風景
  田園地帯の中を道なりに進む。田植えの真っ盛りであった。信号から数百メートル進んだ先に、四辻の交差点がある。
東武動物公園の駐車場の西のはずれである。
旧道はこの辺りに来ていたものと思われる。

道の風景
 駐車場に沿って北に進み、2本目の用水路を右に行って最初を左折し北西に向かう。
田園地帯から屋敷林に囲まれた家が並ぶ集落の中に入って行く。
左側奥まった所に子育て安産地蔵尊の地蔵堂が建つ。

東粂原鷲宮神社
 地蔵堂の東から参道が真北に延びており、100mほど奥に、鷲宮神社がある。創立不詳。かっての東粂原村の村社で、延享2年(1745)頃より始まったとされる獅子舞が毎年奉納されているという。
境内には元禄9年(1696)?や安永5年(1776)の庚申塔などの石塔がある。

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 境内の説明板には、鎌倉街道中道の説明があり、延文6年(1361)の「市場之祭文」に、久女原に市が立った事が記されているという。

 元の道に戻り、東西にはしる道を横切り北東に進むと、左側に供養塔らしい石塔を納めた祠が立っており、昔の面影を残している。
真蔵院 
 道なりに進むと真蔵院の大きな林が左に見える。鎌倉時代の嘉暦年中(1326〜29)の草創と伝えられる。 木立の奥に仁王門がある。

江戸時代前期の高さ46cmの如来像の円空仏が残されているという。
 近隣から集められたと思われる延宝8年(1680)の庚申塔など多くの石塔がある。

文政12年(1829)の道標→

道景色
 門の前から北に向かう古道らしい細い道が続き、東武伊勢崎線で途切れる。
迂回して踏切をわたり、細いあぜ道を進み、広い道路にでて右に進むとすぐ万願寺橋となる。、古利根川が流れている。

「高野の渡し」・・・古利根川と万願寺橋
 橋の手前左手にある小公園の脇に、説明板がある。
「当時は古利根川は『高野川』と呼ばれていた。橋の所が高野の渡しと言われており、その後橋が架けられ、交通の要所であったという。
 吾妻鏡に、寿永2年(1183)志田義広の乱(野木宮の合戦)の時に『高野の渡し』を固めて敵の逃亡を防いだ、と記されており、また元享4年(1324)の北条高時の発した文書には高野川に橋が架かっていたことが記されている。」という。

古利根川(正式名は大落古利根川)は江戸時代初期までは、利根川の本流であった。
家康は、伊奈忠次を関東郡代に任じて、関東周辺の河川改修工事を行わせた。
元和7年(1621)幕府は伊奈家2代目の忠治に命じて利根川を渡良瀬川に合わせ、更に承応3年(1654)、3代目の忠克が利根川を鬼怒川にあわせて、現在のように太平洋にそそぐように流路を変えたのであった。
 
古利根川の西に広がる新しい住宅街の中を通り、東武伊勢崎線の和戸駅まで戻った。
     
    
 散策日   2010年5月10日            
 参考資料  「旧鎌倉街道探索の旅  中道編」  芳賀善次郎