新箱根八里記念碑(峠の地蔵) |
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交差点で国道を渡り、国道の西側をすすむ。専用の歩道が整備されており、駐車場の端に箱根旧街道と書かれた木の門がある。
その先に「新箱根八里記念碑(峠の地蔵)」とある記念碑が建つ。
2003年にできたもので、碑には「宮城まり子など8人の女性の揮毫を得て新しい石碑-地蔵が誕生したという。未来への道標となろうという言葉を抱えて、現代の一里塚である。」と、記されている。
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茨ヶ平(ばらがだいら) |
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駐車場の端で国道から分かれ、右にすすむ。ゴルフ場に向かう専道路で、約200mほど行くと、左に分かれるが、ここに、茨ヶ平の説明板と石標がある。石標は、「是より京都百里、是より江戸25里」と刻まれている。
箱根旧街道の説明板はここからは三島教育委員会のよるもので、「い茨が生い茂っているので付近の草原を茨ヶ平」という説明がある。
また、箱根峠から笹原一里塚までの石畳のルートと整備拠点のマップが掲示されている。
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八ツ手観音 |
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街道に入るとすぐ右側に、高さ50cmほどの馬頭観音がある。台座に天保元年(1830年)とある。 |
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箱根八里記念碑 |
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観音の向いの細い道を入ると、箱根八里記念碑がある。
ここから三島までの要所要所に記念碑があるが、「8人の文化人による揮ごう」を石に刻ん建ててある。ここは、井上靖の「北斗欄干」-北極星が夜空にさんぜんと輝くさま-がある。 |
甲石(かぶといし)坂と兜石跡 |
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坂道が急になり、周りをハコネダケに囲まれた急な石畳を進む。
このあたりには、甘酒茶屋があったという。
その先少し開けたところに「兜石跡」と彫られた小さな石碑がある。
この石は、これから通る接待茶屋の先に運び出されたという。 |
接待茶屋跡 |
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(説明板にのっている写真) |
坂が終わると国道へでる。大きくカーブしているがその内角付近に接待茶屋があったという。道路脇の指標とともに、説明板がある。
江戸時代中期、箱根権現の別当が旅人や馬に粥や飼葉を無料で施したという。その後一時途絶えたあと江戸の豪商により再興されたが明治維新とともに中断し、明治12年(1872年)大原幽学の始めた性理教会により再開されたがその衰退とともに、鈴木利喜三郎とその家族三代により昭和45年まで続けられたという。
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山中新田一里塚 |
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向い右手に旧東海道の入り口がある。
入口の左側に山中新田一里塚がある。樹木に覆われていてわかりにくいが、国道側から石碑が見える。江戸より26里と刻まれているが、いままでの一里塚の数からカウントすると25里目のものである。(25里目がない)
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徳川有徳公遺跡碑 |
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一里塚と並んで大きな石碑が建つ。箱根富士やホテルのコック長であった鈴木源内がこの地の整備のために昭和10年に建てたもの。、徳川有徳公とは吉宗のことで、吉宗が将軍になるため江戸に向かう途中、この下の茶屋に立ち寄ったが、そこの主人の振舞いに感心して永楽銭を与えた。以後、紀州公が参勤交代のつど立ち寄り永楽銭を与えたという。茶屋は永楽茶屋と呼ばれた。 |
兜石 |
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その斜め向かいに、兜石がある。説明板によると、兜を伏せたような形をしていることから、又は、秀吉の小田原攻めのときこの石の上に兜を置いたから という呼ばれるようになった、という。
上でみた甲石坂にあったものを、国道の拡幅工事の時に鈴木源内が移させたものという。 |
箱根八里記念碑と明治天皇眺望碑 |
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すぐ先に右に分岐するゆるい登り坂があり、その先が施行平で、芝生の敷かれた展望地点となっている。
そこにある箱根八里の記念碑は、東山魁夷の揮毫の「青山緑水」である。
その手前には「明治天皇宸賞之處」と刻まれた大きな石碑がある。
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石原坂(石割坂)と明治天皇小休止跡 |
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元の道に戻り、旧街道をくだると石畳が始まる。石原坂(石割坂)という。その途中に左にはいる細い道があり、笹に囲まれた突き当たりに「明治天皇御小休趾」の石柱が立っている。
当時はピンカの茶屋と呼ばれた甘酒茶屋があったという。(ピンカ=イヌツゲのこと) |
道の風景 |
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念仏石 |
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右手に土地の人が、念仏石と呼ぶ大きな三角形の石があり、その前に、説明板と「南無阿弥陀仏 宗閑寺」の文字が刻まれた石碑がある。
旅の行き倒れを宗閑寺で供養して建てたものと思われる。
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道の風景 |
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その先は平坦となり、左下に国道が見える見晴らしの良い道が続く。 |
願合寺石畳 |
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さらに進むと民家の敷地に出て道がなくなる。旧東海道はこの部分を迂回する形となる。案内標示の通りに国道に出て脇を進むと、左手下に降りる木の階段があり、そこから整備された石畳が続く。
「願合寺石畳の復元・整備」の説明板で、この地区の発掘調査の結果や復元の内容が写真とともに詳しく説明されている。
この区間のうち整備されていなかったところを、平成7年度に約188mは、江戸時代の石を元に戻して復元、他の278mの石畳の少ないところやなかったところは、根府川町で採石した安山岩を補てんしたという。
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幅2間(約1.8m)を基本に、道の両側の縁石は比較的大きめに石がほぼ直線的に並ぶように配置され、基礎は作らずローム層の上に敷き並べられていたという。
約700m続き、箱根東坂、西坂合わせて最も保存のよいところである。 |
一本杉石橋 |
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発掘調査の結果、2か所の石橋が発見され、うち、一本橋石橋の保存状態が良いため、整備・復元された、と説明板にある。
長さ160cm、幅60cm、厚さ35cmの板状の石が6枚、街道を横切るよう斜め方向に敷き並べられ、板石を頂部としてアーチ状に架けられている。板石は2段に組まれた40〜50cmの間知石(けんちいし)に支えられ、流路には20〜30cmの平石がぎっしりと敷き並べられていた。という。 |
雲助徳利の墓 |
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国道に合流する手前右側に、盃と徳利を浮き彫りにした墓石がある。説明板によると、「この墓は『雲助の墓』と言われている。西国の剣道指南役だった松谷久四郎が酒飲みで事件を起こし追放され、箱根で雲助に仲間に入った。そこで、雲助をいじめる武士をこらしメタ里、相談にのったりして、雲助に慕われるようになり、
死後、雲助仲間が恩返しにこの墓を建てた・・・・雲助たちの人情が伝わってくる・・」という。
最初は、石原坂にあったものを、西坂を整備した鈴木源内が山中一里塚近くこの地に移し、その後ここに移されたという。 |
上の堂 |
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すぐに国道に合流して、「山中新田」の集落に入ることになる。歩道橋の下に、二つの碑が建っている。右側が南無阿弥陀仏に名号碑で、延宝8年(1680年)の銘があり、左は三界万霊塔で、天保9年(1838年)のもの。道の下には石塔や供養塔がならんでおり、阿弥陀堂があって「上の堂」と呼ばれたという。 |
山中城-諏訪駒形神社 |
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歩道橋を渡ると鳥居の下に、山中城跡の説明板があり、右には貞享4年(1687年)の庚申供養塔がある。坂道と石段を登ると山中城の本丸に守護神として祀られた駒形神社がある。山中城跡の北東の端に位置する。
左手にはアカガシの老木があり、県天然記念物に指定されており、社の上には、高さ31.5m樹齢500年前後といわれる市天然記念物の「矢立の杉」がある。 |
山中城址 |
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山中城は小田原の北条市が永禄年間(1560年代)に小田原防備のために築き、天正17年(1589年)秀吉の小田原攻めに備え増築したが、翌年3月豊臣軍に包囲され約17倍の人数にわずか半日で落城したと伝えらる悲劇の山城である、という。
戦国末期の北条流の築城法で、堀や土塁の構築、尾根を区切る曲輪の造成、架橋や土橋での連絡など自然の地形を巧みに取り入れ、石を使わない山城の最後の姿をとどめているという。
本丸、北の丸、西の丸、二の丸、櫓台、畝堀、障子掘や箱井戸な土復元整備され、広い城址の多くに、それぞれ説明板が用意されている。
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