箱根町-三島
     

       地図→  @箱根町〜山中城祉   A箱根峠付近の詳細 
            B山中城祉〜塚原新田  C塚原新田〜三島

 小田原駅から箱根登山鉄道のバスで、約1時間、終点の箱根町に到着。
箱根峠を経て、箱根西坂を下り、三島を目指す。


箱根宿 三島町方面
この付近から東側が小田原町で、小田原城付きの土地とされ小田原藩町奉行が管理し、西側が三島町でありこちらは昔から幕府直轄地として、韮山代官所の江川太郎左衛門が支配してきたという。

この先の関所南交差点を右に入ると箱根駅伝往路終着点。


            箱根駅伝の碑   
萬福寺と本環寺
交差点を左に入ると、萬福寺、その西に本環寺がある。箱根新駅開設と同時に創建されたと伝えられている。
萬福寺には、文政の時代(1818年〜)から寺子屋が開かれており、明治5年(1872年)学生公告により創立された箱根学校に引き継がれたという。




             本環寺
大明神川
国道に戻りすぐに大明神川という小川を渡るが、川沿いの湖側に「蓑笠明神という箱根神社の末社があった。今はこの先の芦川の駒形神社に合祀されている。」という石碑が建つ。


       


          蓑笠明神の碑
地蔵堂
さらに進むと、旧東海道が分岐する四つ角となる。正面山側に地蔵堂があり、中に地蔵座像と馬頭観音が建つ。
地蔵座像は天保9年(1838年)、馬頭観音は天保12年(1841年)と銘がある。

道の脇に石碑が建っており、左に入る山道は「関白道 といい、天正18年(1590年)秀吉が小田原城攻略の折、開設した道路で、鞍掛山登山道に通じる」という。
駒形神社
旧東海道は右に入る。200mほど行くと左に赤い鳥居が見える。
神社の創立は不詳、箱根神社の末社で箱根宿の鎮守。

境内には、箱根七福神の「毘沙門天」や、先ほど石碑を見てきた「蓑笠明神社」、そして、箱根宿ができた時に人々を悩ましていた狼を退治したという唐犬2匹を祀ってある「犬塚明神」が祀られている。
遊撃隊士の墓
石段を下りて、その先をまっすぐに進むのが旧東海道であるが、右に折れて少し入った右側に小さな柵があり、戊辰戦争で死んだ遊撃隊士の墓がある。明治元年5月21日、「林昌之助の臣」として7名の名前が刻まれている。
六地蔵
元に戻り、大きな杉に向かってすすむと、左手にひっそりと六地蔵が並ぶ。
合わせて7体の地蔵で、苔むしており、形の崩れているものが多い。
石塔群
反対側には、12基の石塔が建っている。
手前にあるものは、巡礼記念塔が6期あり、田代氏によれば名前が箱根宿の住人で宝暦年間の造立が多く、18世紀半ばころから全国への巡礼が始まったのではないかという。

斜面右端の庚申供養塔は、万治元年(1,658年)の銘があり、箱根でも特に古いものであるという。(畑宿の庚申塔と同じ年代)
向坂(むこうさか)
登り坂で向坂の標石がある。
ここから先は、箱根の4か所目の「向坂地区の杉並木」であるが、ところどころに並木が残っていると感じである。
また、挟石坂あたりまで約400mにわたり石畳が敷かれている。
このあたりは戦後補修されたもので丸みを帯びている。
赤石坂
赤石坂の説明板がある。
ほぼ直線の登りが続く。
途中 国道と交差し、その下を通る。
石畳は江戸時代の角ばった石となる。

石畳と杉並木が続き、急な坂に名前がつき、ハコネダケという細い竹と、杉と石畳が続き、急な坂には名前がつき説明板がある。
釜石坂 杉並木と石畳   風越坂(かざこしざか))
挟石坂(はさみいしざか)

この先に木の階段があり最後の登りの挟石坂が始まるが、すぐに国道で行きどまりである。

階段を登り切ると、挟石坂の標石と旧街道の説明板がある。

国道にでて左に緩やかな登りをすすむが、後方には芦ノ湖の景色が広がる。


箱根新道合流地点
箱根新道との合流地点をすぎた後、国道は右へカーブするが、「箱根くらかけゴルフ場」の看板のところを直進する。100m弱で分岐を右に少し下ると、今まで来た国道と合流する。
このあたりは、古い面影が全く残されてなく道筋がわかりにくいので地図(A箱根峠詳細)を参照のこと。

合流地点が箱根峠交差点である。
箱根坂路改築記念碑
交差点から、国道を芦ノ湖方面に少し戻ると斜面に「箱根坂路記念碑」が建つ。
箱根峠は、海抜約880mで、東海道の最高地点という。
当時は相模の国と伊豆の国の境を示す標示杭があって、小田原藩と三島代官の支配する幕府領との境で、境木と呼ばれたという。
大正10年から12年の国道建設で大きく変わり、この記念碑は現在の神奈川県と静岡県の境を示している。
当時の標示杭もこの付近にあったという。
親知らず子知らず地蔵
箱根峠交差点を左折→玄岳・伊豆スカイライン方面ーすると、すぐ伊豆箱根バスのバス停がある。、脇に「箱根の親不知(脚気地蔵)」と書いた説明板と斜面を登る階段があり、上に石碑が建つ。


大阪の呉服問屋の息子を探しにきた父親が脚気で動けなり、介抱しようとした雲助が、大金を持っていることに気付き殺してしまう。あとで実父とわかり、山中城下の宗閑寺で自害したという。
地蔵像はなく、石碑-供養塔が建っている
新箱根八里記念碑(峠の地蔵)
交差点で国道を渡り、国道の西側をすすむ。専用の歩道が整備されており、駐車場の端に箱根旧街道と書かれた木の門がある。

その先に「新箱根八里記念碑(峠の地蔵)」とある記念碑が建つ。
2003年にできたもので、碑には「宮城まり子など8人の女性の揮毫を得て新しい石碑-地蔵が誕生したという。未来への道標となろうという言葉を抱えて、現代の一里塚である。」と、記されている。
茨ヶ平(ばらがだいら)
駐車場の端で国道から分かれ、右にすすむ。ゴルフ場に向かう専道路で、約200mほど行くと、左に分かれるが、ここに、茨ヶ平の説明板と石標がある。石標は、「是より京都百里、是より江戸25里」と刻まれている
箱根旧街道の説明板はここからは三島教育委員会のよるもので、「い茨が生い茂っているので付近の草原を茨ヶ平」という説明がある。

また、箱根峠から笹原一里塚までの石畳のルートと整備拠点のマップが掲示されている。
八ツ手観音
街道に入るとすぐ右側に、高さ50cmほどの馬頭観音がある。台座に天保元年(1830年)とある。
箱根八里記念碑
観音の向いの細い道を入ると、箱根八里記念碑がある。
ここから三島までの要所要所に記念碑があるが、「8人の文化人による揮ごう」を石に刻ん建ててある。ここは、井上靖の「北斗欄干」-北極星が夜空にさんぜんと輝くさま-がある。
新箱根八里記念碑(峠の地蔵)
交差点で国道を渡り、国道の西側をすすむ。専用の歩道が整備されており、駐車場の端に箱根旧街道と書かれた木の門がある。
その先に「新箱根八里記念碑(峠の地蔵)」とある記念碑が建つ。
2003年にできたもので、碑には「宮城まり子など8人の女性の揮毫を得て新しい石碑-地蔵が誕生したという。未来への道標となろうという言葉を抱えて、現代の一里塚である。」と、記されている。
茨ヶ平(ばらがだいら)
駐車場の端で国道から分かれ、右にすすむ。ゴルフ場に向かう専道路で、約200mほど行くと、左に分かれるが、ここに、茨ヶ平の説明板と石標がある。石標は、「是より京都百里、是より江戸25里」と刻まれている
箱根旧街道の説明板はここからは三島教育委員会のよるもので、「い茨が生い茂っているので付近の草原を茨ヶ平」という説明がある。
また、箱根峠から笹原一里塚までの石畳のルートと整備拠点のマップが掲示されている。
八ツ手観音
街道に入るとすぐ右側に、高さ50cmほどの馬頭観音がある。台座に天保元年(1830年)とある。
箱根八里記念碑
観音の向いの細い道を入ると、箱根八里記念碑がある。
ここから三島までの要所要所に記念碑があるが、「8人の文化人による揮ごう」を石に刻ん建ててある。ここは、井上靖の「北斗欄干」-北極星が夜空にさんぜんと輝くさま-がある。
甲石(かぶといし)坂と兜石跡
坂道が急になり、周りをハコネダケに囲まれた急な石畳を進む。
このあたりには、甘酒茶屋があったという。

その先少し開けたところに「兜石跡」と彫られた小さな石碑がある。

この石は、これから通る接待茶屋の先に運び出されたという。
接待茶屋跡

(説明板にのっている写真)
坂が終わると国道へでる。大きくカーブしているがその内角付近に接待茶屋があったという。道路脇の指標とともに、説明板がある。
江戸時代中期、箱根権現の別当が旅人や馬に粥や飼葉を無料で施したという。その後一時途絶えたあと江戸の豪商により再興されたが明治維新とともに中断し、明治12年(1872年)大原幽学の始めた性理教会により再開されたがその衰退とともに、鈴木利喜三郎とその家族三代により昭和45年まで続けられたという。

山中新田一里塚
向い右手に旧東海道の入り口がある。
入口の左側に山中新田一里塚がある。樹木に覆われていてわかりにくいが、国道側から石碑が見える。江戸より26里と刻まれているが、いままでの一里塚の数からカウントすると25里目のものである。(25里目がない)

徳川有徳公遺跡碑
一里塚と並んで大きな石碑が建つ。箱根富士やホテルのコック長であった鈴木源内がこの地の整備のために昭和10年に建てたもの。、徳川有徳公とは吉宗のことで、吉宗が将軍になるため江戸に向かう途中、この下の茶屋に立ち寄ったが、そこの主人の振舞いに感心して永楽銭を与えた。以後、紀州公が参勤交代のつど立ち寄り永楽銭を与えたという。茶屋は永楽茶屋と呼ばれた。
兜石
その斜め向かいに、兜石がある。説明板によると、兜を伏せたような形をしていることから、又は、秀吉の小田原攻めのときこの石の上に兜を置いたから という呼ばれるようになった、という。
上でみた甲石坂にあったものを、国道の拡幅工事の時に鈴木源内が移させたものという。
箱根八里記念碑と明治天皇眺望碑
すぐ先に右に分岐するゆるい登り坂があり、その先が施行平で、芝生の敷かれた展望地点となっている。
そこにある箱根八里の記念碑は、東山魁夷の揮毫の「青山緑水」である。
その手前には「明治天皇宸賞之處」と刻まれた大きな石碑がある。
    
石原坂(石割坂)と明治天皇小休止跡
元の道に戻り、旧街道をくだると石畳が始まる。石原坂(石割坂)という。その途中に左にはいる細い道があり、笹に囲まれた突き当たりに「明治天皇御小休趾」の石柱が立っている。
当時はピンカの茶屋と呼ばれた甘酒茶屋があったという。(ピンカ=イヌツゲのこと)
道の風景
        
念仏石
右手に土地の人が、念仏石と呼ぶ大きな三角形の石があり、その前に、説明板と「南無阿弥陀仏 宗閑寺」の文字が刻まれた石碑がある。
旅の行き倒れを宗閑寺で供養して建てたものと思われる。
道の風景
その先は平坦となり、左下に国道が見える見晴らしの良い道が続く。     
願合寺石畳
さらに進むと民家の敷地に出て道がなくなる。旧東海道はこの部分を迂回する形となる。案内標示の通りに国道に出て脇を進むと、左手下に降りる木の階段があり、そこから整備された石畳が続く。
「願合寺石畳の復元・整備」の説明板で、この地区の発掘調査の結果や復元の内容が写真とともに詳しく説明されている。
この区間のうち整備されていなかったところを、平成7年度に約188mは、江戸時代の石を元に戻して復元、他の278mの石畳の少ないところやなかったところは、根府川町で採石した安山岩を補てんしたという。

幅2間(約1.8m)を基本に、道の両側の縁石は比較的大きめに石がほぼ直線的に並ぶように配置され、基礎は作らずローム層の上に敷き並べられていたという。
約700m続き、箱根東坂、西坂合わせて最も保存のよいところである。
一本杉石橋
発掘調査の結果、2か所の石橋が発見され、うち、一本橋石橋の保存状態が良いため、整備・復元された、と説明板にある。
長さ160cm、幅60cm、厚さ35cmの板状の石が6枚、街道を横切るよう斜め方向に敷き並べられ、板石を頂部としてアーチ状に架けられている。板石は2段に組まれた40〜50cmの間知石(けんちいし)に支えられ、流路には20〜30cmの平石がぎっしりと敷き並べられていた。という。
雲助徳利の墓
国道に合流する手前右側に、盃と徳利を浮き彫りにした墓石がある。説明板によると、「この墓は『雲助の墓』と言われている。西国の剣道指南役だった松谷久四郎が酒飲みで事件を起こし追放され、箱根で雲助に仲間に入った。そこで、雲助をいじめる武士をこらしメタ里、相談にのったりして、雲助に慕われるようになり、
死後、雲助仲間が恩返しにこの墓を建てた・・・・雲助たちの人情が伝わってくる・・」という。
最初は、石原坂にあったものを、西坂を整備した鈴木源内が山中一里塚近くこの地に移し、その後ここに移されたという。
上の堂
すぐに国道に合流して、「山中新田」の集落に入ることになる。歩道橋の下に、二つの碑が建っている。右側が南無阿弥陀仏に名号碑で、延宝8年(1680年)の銘があり、左は三界万霊塔で、天保9年(1838年)のもの。道の下には石塔や供養塔がならんでおり、阿弥陀堂があって「上の堂」と呼ばれたという。
山中城-諏訪駒形神社
歩道橋を渡ると鳥居の下に、山中城跡の説明板があり、右には貞享4年(1687年)の庚申供養塔がある。坂道と石段を登ると山中城の本丸に守護神として祀られた駒形神社がある。山中城跡の北東の端に位置する。

左手にはアカガシの老木があり、県天然記念物に指定されており、社の上には、高さ31.5m樹齢500年前後といわれる市天然記念物の「矢立の杉」がある。
山中城址
クリックすると拡大 山中城は小田原の北条市が永禄年間(1560年代)に小田原防備のために築き、天正17年(1589年)秀吉の小田原攻めに備え増築したが、翌年3月豊臣軍に包囲され約17倍の人数にわずか半日で落城したと伝えらる悲劇の山城である、という。
戦国末期の北条流の築城法で、堀や土塁の構築、尾根を区切る曲輪の造成、架橋や土橋での連絡など自然の地形を巧みに取り入れ、石を使わない山城の最後の姿をとどめているという。
本丸、北の丸、西の丸、二の丸、櫓台、畝堀、障子掘や箱井戸な土復元整備され、広い城址の多くに、それぞれ説明板が用意されている。
本丸跡           二の丸 櫓台        障子掘(本丸と二の丸の間)
      
宗閑寺
山中城の箱井戸から東海道へ出る所が、三の丸跡であり、山中公民館がある。その隣が宗閑寺である。元和初年(1615年頃)家康の愛妾阿久の方が、一族の間宮小五郎を開基として建立したと伝えられている。

本堂左手に、山中城の守将で玉砕した松田康長、その副将の間宮康俊とその一族の墓がある。

芝切地蔵
国道は左へカーブするが東海道は真っすぐ約100m進み、再び国道と合流する。その中間に、芝切地蔵がある。
説明文によると、昔山中新田で腹痛で世を去った旅人が、死ぬ間際に「地蔵尊として祀り芝塚を積んで故郷の常陸が見えるようにしてもらいたい。そうすれば村人の健康を守る」と言い残したという。村人は地蔵尊を祀り、縁日には小麦まんじゅうが売られ、有名になったという。
岱崎(たいさき)出丸
国道を横断して腰巻地区の石畳に入る。東海道を下る前に、左に登る階段があり、その先に岱崎(たいさき)出丸がある。
秀吉の小田原攻めに備えこの出丸の増築を始めたが短期間で完成できず、また小田原城の籠城作戦の決定によりここには大軍が配置されなかった。




      最先端にあるすり鉢曲輪
箱根八里記念碑と馬頭観音
東海道にもどると石畳がはじまり、腰巻地区石畳の説明板がある。約350m区間が復元・整備されている。さらにくだると、右手に箱根八里の記念碑がある。
司馬遼太郎の『幾億の足音が 坂に積もり 吐く息が 谷を埋める わが箱根こそ』 とある。
脇に、嘉永6年(1853年)の馬頭観音が建つ。
菊池千本槍の碑
石畳を下り国道にでるが、田代氏「歩く見る箱根八里」によると左手国道下に馬頭観音があり、韮山への道が続いていたということで、馬頭観音を探したが見つからなかった。韮山辻と呼ばれたという。
しばらく国道を進んでから、東海道は右にはいるが、そこに新しい石碑が建っている。「建武2年(1335年)この付近で行われた水呑峠の合戦で、後醍醐天皇方の菊池肥後守武重の兵が槍の原型となる竹の先に短刀をつけた武器で足利勢に勝利した。・・・」とあり、平成3年菊池氏にゆかりのあるものが建てたという「菊池千本槍の碑」である。
富士見台の芭蕉の句碑
「旧街道 浅間平地区」の説明板では、約330mが復元整備されている、とある。国道に出る直前左にドライブインがあり、大きな芭蕉の句碑がある。

「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き」とあり、貞享元年(1684年)の作品。


  国道を渡って振り返ったところ→
上長坂
国道を渡ってコンクリート舗装の道があり、手前の急な道が人の歩く東海道でコンクリートの道が馬の専用道路であったという。説明板では「上長坂地区石畳」として約370mが復元整備されている。
国道にぶつかる前に、この2本の東海道(写真では 左:馬の道、右人の道=石畳)が合流するが、この地点に馬方の「よしの墓」と呼ばれる墓石があるということで探したが、残念ながら見つからなかった。
笹原平 馬頭観音
国道に出て、道に沿って進むとモーテルが見え、その裏から左に入る。
「笹原地区石畳」で、全長430mのうち380mを復元整備したという説明板がある。

少し先の右側の祠の中に4基の馬頭観音が並んでいる。昭和と明治のものらしい。
笹原新田一里塚
石畳は続くが周りに畑が見えてくる。一段高い左手に農道が並行し、左手にシイの林が見えてくる。そこに登っていく細い短い階段がある。
一里塚の石碑と、箱根八里記念碑がある。
三島市生まれの詩人・批評家の大岡信(まこと)の
『森の谺(こだま)を背に 此の径(みち)をゆく 次なる道に出会うため』 
が刻まれている。
笹原新田の庚申塔
一里塚のすぐ先が国道である。横断する手前右手に庚申塔が建つ。延宝6年(1678年)とある。
その右手奥には山神社の大きな木が見える。

笹原新田のの道祖神
国道を横断すると、アスファルトの旧東海道となる。右手に旧街道の説明板が建ち、「ここ下長坂は、別名『こわめし坂』ともいう急勾配で、背に負った米も人の汗や蒸気で蒸されて強飯(こわめし)のようになるからだ」とある。
その先右側の祠に、道祖神が2体並んでいる。当時はその隣に、笹原新田の高札場があったという。ここから下が笹原新田の集落が始まる
一柳院
家並みをしばらく下ると、右手に入る細い道の奥に一柳院がある。
山中城、岱崎出丸で戦死した秀吉側の武将一柳伊豆守直末を弔った寺で、大きな墓石がある。
(右写真の左にある自然石は西国33ヵ所巡礼の碑で、伊豆守の墓は、中央の石段の上にある)

道の風景
集落が終わると急な坂が続き、正面にいよいよ駿河湾が見えてくる。
三ツ谷新田発祥の地
坂を下り切ると県道(旧国道)に合流する。
右側に小さい木の説明板がある。(向かいに公民館がある)
それによると、「元和年間(1615〜1624)現在地付近に三軒の茶屋があり、元茶屋と呼ばれていた。」ことから「箱根五カ所新田成立時に『三ツ谷新田』と転化した」という。
山神社(天神社)
県道の左の公民館の手前を左折するとすぐに山神社の鳥居がある。説明板によると、天神社の創建は明和3年(1766年)で三ツ谷新田の氏神というよりこの地方の総氏神としての性格をもっているという。昭和43年に山神社を合祀した。

石段途中の左側にに多くの馬頭観音が並んでいる。そのうちの一つは寛政7年(1795年)。
松雲寺
300mほど下ると、右手に明暦2年(1656年)創立の松雲寺がある。東海道を往還する参勤交代の大名の休息所となり、宝暦13年(1763年)の朝鮮使節や文久3年(1863年)徳川14代将軍家茂などの「寺本陣」ともなった、という。
境内には明治天皇が休憩時に腰を掛けたという石もある。
この付近が三ツ谷の集落の入り口で、高札場があり、松雲寺の2軒先には茶屋本陣などがあった
題目坂
集落を抜けるころ小時雨坂と呼ぶ坂になり、東海道は大きく左にカーブする県道から右手に分かれる。右手に坂公民館の展望場所ができている場所を過ぎると坂小学校がある。このあたりに法善寺があったという。
さらに進むと右したに下る急な坂道と階段がある。大時雨坂のちには題目坂と呼ばれていた。
入口には、坂の説明板と「足利尊氏建立の七面堂旧址」と記された石碑が立つ。
また坂の途中には文化3年(1806年)の馬頭観音が祠の中にある。
山神社
坂を下りた先の信号で県道と合流するが、右手に出征馬記念碑がある。少し先に、階段と神社の木が見える。山神社といい「、五穀豊穣の神様で、本殿は精巧で彫刻に彩色も施され、享保14年(1729年)9月の棟札がある。」という。
境内の大きなシイの木の根元に、単立の道祖神が祀られている。
法善寺
もと題目坂の上にあった寺が移転されてここ山神社の隣にある。

当時、山神社の参道左手付近に高札場があり、このあたりが、市ノ山新田の入り口であったという。
市ノ山地蔵堂
県道を進むと右手に地蔵堂がある。本尊は室町時代から桃山時代のものと思われる木彫りの地蔵立像という。

そのとなりには13体の地蔵菩薩が並らび、端には元禄12年1699年)の三界萬霊塔がある。

臼転坂(うすころげざか)
しばらく進むと右に分かれる細い道があり石畳がつづく。入口に道標と説明板があり、「牛がこの道で転がったとか、臼を転がしたため、臼転坂の名がついた」という。

途中左に3基の馬頭観音がある。
大きな自然石のものは、文政3年(1820年)の銘がある。
塚原新田 普門院
坂の終わりで県道に合流する。このあたりから塚原新田が始まっているという。また塚原古墳群と呼ばれる奈良・平安時代からの円形古墳が多く存在しているという。
県道の左手に普門院というお堂があり、元禄14年(1701年)銘の聖観音坐像が本尊という。
左手には宝暦4年(1754年)の巡礼供養塔を始め多くの石塔・石仏が並んでいる。
道祖神
東海道を下って右側に宗福寺がある。
               (右



しばらくして左手の塚原公民館を過ぎた先右側に、県道と平行してすすむ一段高くなった農道が始まるが、その農道への分岐点の土手に、ひとつの道祖神がある。
光背をもつ単立神像と伊豆型とを折衷した珍しい道祖神という。
箱根路石碑
県道は左へ大きくカーブし、国道と合流する。(この日は工事中であった)
大きな木の根元に「箱根路」と彫られた石がある。
これは昭和43年に三島の倉島延三氏が、東海道の旧道入口を明示するために建てたという。
初音ヶ原松並木
この先で国道は上下線の二本にわかれている。旧東海道は上り車線の位置を通っており、松並木はそれをはさんで約1km続いている。
右外側の石畳は、平成2年「初音ヶ原石畳遊歩道」として整備されたもの。
初音ヶ原は、頼朝が蛭ヶ小島に流されていた当時、箱根権現への参拝の帰途、この地で初めてウグイスの初音を聞いたという伝説からつけられたという。
錦田一里塚
途中、道の両側に一対の一里塚が建つ。(右側は初音ヶ原一里塚とも呼ばれる)。 2基とも保存状態が良いので、大正11年に最も早く国指定史跡(*)になった。
≪*他の指定史跡:太平一里塚(愛知)、阿野一里塚(愛知)、野村一里塚(三重).で東海道には全部で4基ある≫

箱根八里の碑がある。
龍澤寺 鈴木宗忠老師 
『日々うらら 歩々(ほほ)道場の 一里塚』
箱根大根の歌碑
松並木の終わる手前の道の右側にたつ。明治22年(1889年)東海道線が御殿場回りで開通して以来、旅人は途絶え西坂一帯の人は「坂もの」と呼ばれる大根、人参、さつまいもなどを作っていたが、土地の平井源太郎が、「板もの」の振興のため、生産の共同化、品質の向上に尽力したことを顕彰して建てられたもの。
平井源太郎は、農兵節(ノーエ節)を全国に広めた人物でもある。

石碑には『箱根八里の 馬子唄消えて 今は大根を 造る歌 源水』が刻まれている。
愛宕坂と雲助の墓
東海道は交差点をこえて、右の石畳の道へ入る。愛宕坂の手前の右手に、石仏・石塔が集められている。明和4年(1767年)の三界萬霊塔や、馬頭観音などであるが、なかでも有名なのが右側の白っぽい墓碑で、雲助の親方で、備前繁の墓という。慶応3年(1867年)大名の人足頭に無礼を働いて斬られたという。この下の今井坂にあったが、他のものと一緒にここに移されたという。
今井坂
入口石畳が終わると箱根旧街道図と道標があり、東海道線の踏切をわたる。
右手に真立寺の石段があり、今井坂が始まる。
写真はその先の山田川近くから今井坂を見たところで、当時の石畳が、戦後そのままコンクリート舗装され埋蔵保存されているという。
林光庵の小堂
山田川を渡りその先で県道に合流する。
その手前右側に高札場があったという。
合流地点の正面(左側)に小さなお堂が見える。
江戸時代に林光庵という寺があり、そこで祀られていた小堂という。木彫りの庚申像が祀られているという。
大久保家陣屋跡
東海道はまっすぐ西に向かうが200mほど先の右側に長い塀に囲まれる屋敷があり、大久保家陣屋跡である。
小田原藩の支藩である荻野山中藩が、このあたりの川原ヶ谷一帯を飛び地として知行していたため、徴税、検察などの藩政を行う役所が設けられていた。
新町橋
すぐ先が大場川で、新町橋がある。
橋をわたったところに江戸見附があり、三島宿の入り口であったことから欄干をもつ板橋であったという。











ここで夕暮れとなり、三島大社にも立ち寄らずに、三島駅まで直行した。
 散策日 2008年12月19日    箱根町−三島
 参考   
「あるく・見る 箱根八里」     田代道彌