・・・・・・・・・・・・・・ 日本橋から下諏訪宿まで 甲州街道の旅 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4.小仏-藤野 地図: ①小仏―相模湖駅 ②相模湖駅―藤野駅
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高尾駅のバス停は、ハイキング姿の乗客ででj混雑、臨時に追加された2番目のバスで、小仏バス停まで、15分弱であった。 |
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宝珠寺 |
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バス停から小仏川沿い 200m、左側の崖の上に宝珠寺の屋根がわずかに見える。
参道の石段の途中に大きなカゴノキが聳え立っている。 高さ約23m、幹回り4、3m という東京都指定の天然記念物で、関東でも有数の大樹という。
宝珠寺は、開基は行基といわれ、応永年間(1394〜1428)に中興された。 室町末期まで景信山の麓にあったが、焼失、現在地に移ってきた。本尊は釈迦如来で、小さい本尊であったことから、小仏の地名が付いたと言われる。 小仏断食道場として知られていたという。 境内には青面金剛の庚申塔がある。
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小仏峠 登り口 |
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駐車場の奥から、整備された登り口となる。 このああたりに 一里塚があったという。
急な坂道を一気に登る。
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小仏峠 |
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峠は広い平坦地で、高尾山ー景信山、陣馬山へのハイキングコースの道標がある。 標高560m。 朽ちた茶屋跡がのこり、明治天皇小休止跡の石柱と三条実美の歌碑があり、甲州街道道の峠らしさがある。
庚申塔、地蔵など立ち、寛政7年(1795)の高尾山道標がある。 |
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峠からの下り道 |
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峠からの下りは、V字形のあるきやすい道が続くが、そのうち急な坂道となり、ようやく約1.8kmの下りで、車道に出る。 、そのさきで、高い中央高速のあ橋げたの下をくぐる。 |
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照手姫物語 |
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三叉路の正面に、「照手姫物語」の案内板と共に、「右方向 底沢・美女谷への甲州古道」という立て札がたっている。 説明板によれば、浄瑠璃や歌舞伎で知られている「小栗判官と照手姫」の物語に出てくる照手姫は 、小仏峠の麓の美女谷の生まれと伝えられて、ここの地名の由来になったといわれる。 |
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板橋 馬頭観音 |
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中央高速道の高い橋脚の下には、大きな自然石の上に「馬頭観世音」と刻まれた石塔が建っている。 明治16年(1883)と読める。 近くには、甲州古道「板橋」の木柱が建っている。 急な坂道を下っていくと、JR中央線のガード下をくぐる。 |
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小原一里塚 |
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ガードの出口に、甲州道中「長久保」の木柱とともに、「一里塚はこの上にあり、今は中央高速道の下で、跡はない」と書かれた 小原一里塚の立て札がある。 国道20号線に合流。 |
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小原宿 小原の里(資料館) |
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小原宿は、当時は2町半(273m)の中に 本陣、脇本陣と7軒の旅籠があり、29件の家が並んでいた。 明治28年(1895)の大火で、本陣を含む東側4軒を残して、全焼したという。 |
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本陣 |
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神奈川県には、東海道、甲州街道合わせて26の本陣があったが現存するのは、小原宿本陣だけという。 現在の建物は、江戸時代後期の18世紀末から19世紀初期の建築という。 |
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旅籠小松屋 / 家並み |
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小松屋のサインがある。。 西のはずれの土手に、と南無阿弥陀仏碑がある。 |
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道の景色 右へ分岐 |
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バス停「平野」の先から右手に分岐して、坂を上っていく。 <←坂道から東方向を望む> <土手に納まる石仏 > |
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道の景色 坂を下り与瀬宿へ |
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竹藪の手前に、階段を降りる旨の標識がたっており、おりていくろ、右手に中央線が走っている。 道なりに進むと、与瀬下宿のサインがあり、、国道に合流し、与瀬宿に入る 、 |
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道の景色 |
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<相模湖駅方面> |
<通りの景色> |
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与瀬宿 本陣跡 |
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駅前を過ぎて数分、右手の石垣を数段上がった先に石の門があり、奥に建物がある。与瀬宿の本陣の跡という。 石段の左側には「明治天皇輿瀬御小休所阯」と刻まれた石碑が建っている。 |
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輿瀬神社 |
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本陣跡の隣の道を、国道から離れて北に進む。 大きな鳥居と長い石段があり、背景の権現山とともそびえている。 石段を上りきると、慈眼寺である。 神社は、左手の大きな木の鳥居をさらに進んだ所にある。 神社庁のHPによれば、「相模川の北岸にあった社を、この地にお祀りしたもので、昔から虫封祈祷が名高く『よせのごんげんさま』 と呼ばれていた。」 という。 <慈眼寺> <石段からの眺め> |
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与瀬一里塚 への道 |
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鳥居から西に向かい、中央高速の下をくぐり、国道に合流する。すぐに右に向かい、山のほうに進むのが本来の道であるが、その先で消滅している。 そこで国道をすすみ、中央高速をくぐったあとすぐを、斜め右に入る坂を、100mほど上がっていくと、三叉路があり、右側から来た旧街道と合流する。 甲州道中「横道」と書かれた標柱が建っている場所の少し手前である。 |
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与瀬一里塚 |
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合流地点から 東へ100ほどたどっていくと、空き地がひろがり、左端に一里塚跡の標柱が建っている。 |
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道景色 「横道」から「橋沢」へ |
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三叉路まで戻り、西に向かう。すぐ先右側に甲州古道 「横道」 の標柱がある。 南側に相模湖の雄大な景色が広がる。 山沿いの道には、石地蔵菩薩、供養佛、庚申塚などがある。 甲州古道「橋沢」の標柱あり。 約200mで、四叉路となり、旧街道はそこから南に下っていく。 |
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甲州道中 藤野 案内図 |
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(クリックすると拡大) |
南への角の建物とガードレールの間に、甲州道中「「子の入」の標柱がある。 そこからは、南に真っすぐにくだっていくが、観音寺の付近で、道を間違え少し迷った。 帰ってから改めてNetで調べたら詳しい案内図が見つかった。 案内図ー❶ |
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甲州道中「赤坂」 |
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坂を下り、中央高速の架かる橋を渡る。 林の中を過ぎると、右側の斜面が開けてくる。左右に分岐する道を右へ下る。 右手に自治会の案内板と共に甲州道中「赤坂」の標柱がある。案内図ー❷ 案内図によると、ここから、右斜めに下る小道があるようだ。 それを見過ごして、そのまま進んでしまった。 右手に観音寺の屋根が見えてくる。 |
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甲州道中「矢部」 |
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観音寺の南側を迂回し西側に下る道を探した。 寺への石段の近くに、向かい側に、甲州道中「矢部」の標柱があった。 案内図ー❺ 急坂を下り、沢を渡る。 |
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甲州道中「椚戸(くぐど)」 |
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小さな橋をわたり、坂を上がっていくと、甲州道中「椚戸」の標柱が立っている。案内図ー❻ | |||||||||||||||||||||||||||||
高札場跡 |
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坂をくだり、中央高速の出口に架かる橋をわたり、急坂を下ると、高札場の標柱がある。案内図ー❼ すぐ下で国道20号線に合流する。 |
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吉野宿家並み |
吉野宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒の小さな宿場 | ||||||||||||||||||||||||||||
国道を右に曲がると、吉野宿。 吉野宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒の小さな宿場だった。 明治20年(1887)の大火でほとんど焼失したという。 大火後建てられた旅籠「ふじや」が資料館として使われている。 |
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吉野宿本陣跡 |
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資料館の向かい側が、本陣跡。 広い敷地に土蔵だけが今も残されている。 説明版によれば、吉野家の由緒は、弘安年間に遡り、承久の乱(1221)の時、一族は天皇方に従い、宇治の戦に敗れ、故郷を去りこの地にすみ着いた、という。 「聖跡」と刻まれた大きな石柱が建つ。 |
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吉野神社 |
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吉野神社に寄る。 街道筋から100mほど北に向かったところ。 典型的飾らない小さな宿の神社である。 街道に戻るとと、すぐに相模川の支流に架かる吉野橋である。 |
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小猿橋と石塔群 |
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吉野橋の手前左側に、自然石に刻まれた廿三夜塔や半分に欠けた百万遍供養塔?が残されている。そのわきに古猿橋の説明板がある。 それによると現在の吉野橋よりやや南寄りに、子猿橋という欄干付きの板橋が、架けられていた。 長さ14間(約25m)、幅2間(約3.6m)、高さ5丈8尺(約25m)という。 この先にある猿橋と工法も形も同じで、その規模が少しちいさいことから、「小猿橋」と呼んだという。 <小猿橋の絵> 説明板にその絵が描かれているが、不明瞭なため、「新編相模国風土記」のHPより、引用した。 (クリックすると拡大) |
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吉野橋の先、藤野変電所の前から、右に分岐して、なだらかな坂を進む。 藤野駅で 今回は完了する。 |
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