・・・・・・・・・・・・・・ 日本橋から下諏訪宿まで 甲州街道の旅 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5.藤野-猿橋 地図: ①藤野-上野原 ②上野原―野田尻 ③野田尻ー鳥沢 ④鳥沢ー猿橋
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藤野駅から、国道20号線の藤野駅前信号を右に曲がり、すぐ先で国道から左に分岐する。 | |||||||||||||||||||||||||||||
道の景色∸関野宿へ |
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相模川を左下に見て進み、右手中央本線の土手に沿っって進んでいくと、急に古道の面影のある道につながる。 朝からいい気分になる。 それもつかの間、すぐ線路わきの道となる。 左側に甲州古道「関野」と書かれた標柱が建つ。この辺りから関野宿だったのだろう。 跨線橋を渡り、国道に出る。 国道右側に加藤製材所の看板があり、その一軒隣の前に「関野宿本陣跡」の説明板が立っている。 |
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関野本陣跡 |
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それによると 「この近辺は奥三保とも桂里とも呼ばれており、関野宿は、この先の諏訪番所を通って甲斐の国に通じる最後の宿場だったため、大変重要視されていた。 道巾が二間あまりで、民家が相対して軒を並べ、本陣・脇本陣を備えた宿場であったが、明治以降の大火でほどんどの建物が消失した。」という。 本陣1,脇本陣1,旅籠3宿場であった。 |
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増珠寺 |
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増珠寺の境内に、数多くの石仏・石塔が並べられている。 近辺の道路工事の際に集められたものだろう。 石段の脇に立つ説明板によると、大相撲の年寄名跡「追手風」のゆかりの寺という。 追手風喜太郎は、寛政11年(1799)関野で生まれ天保2年(1831)大関となった。 江戸末期の文久3年(1863)に この先にある三柱神社に四神を寄進したという。 (青龍・白虎・朱雀・玄武) |
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道の景色ー三柱神社への道 |
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旧甲州街道は藤野町小淵の歩道橋を過ぎて右に分岐する坂を上る。 「甲州古道 坂の上」の標柱が立つ。 さらに100mほど上っていく。 左側に2軒の民家が並んでいる。 その手前を左にはいっていくと、 奥に三柱神社の高い木立が見える。 |
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三柱神社 |
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長い石段の先の杉の大木に囲まれて、神社がある。 創立年代は不明。 秦氏 (仁徳天皇の時代に百済から帰化した)の氏神である唐土明神が現在の地に鎮座し 関野・小渕の鎮守として崇敬されてきたという。 嘉永2年(1849)追手風喜太郎の寄進により本殿を再建、その後明治6年(1873)、3つの神社が合併され、三柱神社と改称したという。 本殿前の2.5mほどの石燈籠は、文政9年(1826)の銘がある。 |
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道の景色-諏訪関跡へ |
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神社から国道へは細い道をたどる。 左へ急カーブしている国道の山側に 「えのき坂」の標柱がたっており、その先の「名越入口」信号で、左へおりていく。(左写真) 下った先に、境川に架かる橋(欄干には境沢とある)を渡る。 相模国から甲斐国に入る。 その先で県道に合流し、急な坂道を上がることに <坂の途中からの相模川> 2000m以上続くつづら折りの急な坂道を登りきる直前に諏訪関跡がある。 |
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諏訪関跡 |
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諏訪番所跡という説明板がある。諏訪番所、境川番所、境川口留番所とも呼ばれ、宝永4年(1707)諏訪神社東より移ってきたという。明治4年(1871)廃止となり、、その後建物は、所有者が代わり、渋沢栄一の別荘となったともいう。 道の反対側に「甲州街道史跡案内図」がある。(クリックすると拡大) これから先の街道の様子が分かりやすく描かれている。 関所跡のカーブを上がっていくと、その先は上野原の台地の平坦な道を進んでいく。 先に 諏訪神社の林が見えてくる。 |
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船守寺 |
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神社の手前に門を構えた船守寺がある。 水難交通の守護で知られていたこの船守寺の近辺出身の、「弥三郎」という人が、故郷を捨て伊豆の伊東に移り住み漁師となっていた。 鎌倉幕府により日蓮上人が伊豆に流された時に(伊豆法難)、上人を助けたことから 「船守」の名を授かったという。 伊東 川奈の屋敷跡に建てられたのが、蓮慶寺で、そこから分骨された、という石碑が建てられている。 鎌倉の妙長寺は、弥三郎の子 日実が開山したといわれる。 (日実は弥三郎本人ともいわれる。) |
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諏訪神社 |
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康治年間(1142~44)に、武州横山党が土着して古郡一族が、氏神として「古郡神社」を創建したのが始まりという。 その後 建長寺開山の一人、大覚禅師がこの地を訪れ諏訪大社の分霊を祀り、「諏訪大明神」と称したという。、 <道の景色> <旧甲州街道の石碑> |
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塚場一里塚 |
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中央高速道を跨ぐ陸橋を渡ると、真っ赤な鳥居と本殿のある疱瘡神社がる。 江戸時代の初め、疱瘡神とゆかりのある越前国湯尾峠から勧請して、万治4年(1661)に建立された。 神社の裏手に小高い塚がある。 塚場一里塚で江戸から18番目という。 |
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上野原宿 | 間もなく国道20道と合流するが、その少し先から上野原宿に入る。 八王子から分かれた陣馬街道との合流地点で、文化年間(1804~18)には250軒もの商家が軒を並べ、物流の拠点として賑わっていた。 本陣-1、脇本陣-2、旅籠20軒 |
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牛倉神社 |
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街道から南の静かな場所に、「幸燈明神」と刻まれた石柱が建つ境内に入る。 創立年代は不祥だが、舒明天皇2年(6330)には祭事が営なまれたという。 <街道景色> |
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脇本陣跡 |
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ホテルルートインが建っている辺りに、脇本陣があったという。 その先の本町一丁目バス停を右奥に入ったところには、本陣があったという。 <上野原消防団の建物の脇を入る> |
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道の景色 |
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歩道橋の架かる三叉路を左に進んでいく。国道20号線と並行して南側を進む。 100m程先の左側(点滅信号機あり)に 廻国供養塔が建っている。 旧甲州街道の標識の先には、古道らしさを伝える、石塔がいくつかならんでいる。 。 緩やか坂道を下っていくと、国道20号をまたぐ歩道橋にでる。 鶴川入口歩道橋から、県道を進む 県道は、大きくカーブして川まで下っていくが、途中でショートカットできる道がある。 途中からは、これから行く、鶴川宿の全体の様子が見渡せる。 |
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鶴川橋 |
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鶴川をわたるには、増水期には、120mほど下流に「渡し」があり川越賃銭をとり、渇水期には仮橋を架けて橋銭をとる仕組みになっていたという。 下流方向→ 中央高速道の高架橋 |
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鶴川宿 |
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すぐに宿の入り口で、説明板がある。 正徳3年(1713)構成された小さな宿で、天保14年(1842)には 本陣1、脇本陣2、旅籠8軒であった。 |
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鶴川神社 |
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左手の小高い丘の上に神社がある。街道から少し入った鳥居の先からの参道は、急な狭い手すりのない石段が伸びており、ここを上がった。 境内の左手に「駒繋ぎ石」が置かれている。 「鶴川宿の「小川家」の庭先にあり、旅人に愛されていたものを、ここに移設した」という。 |
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< 鶴川神社の丘の周りの石塔群> |
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宿の景色 |
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石田屋 | 玄関に「石田屋」という表札のある家屋。 明治・大正の大火で、ほとんどの建物が焼失したというが、宿の面影が残っている建物が多い。 |
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道の景色 |
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家並みがとぎれ、左に大きくカーブして、坂道を上がっていく。 石垣の前に、京側から来る人のための鶴川宿の看板が立つ。 央高速道の脇道にでる。 |
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大椚の一里塚跡 |
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鳶ヶ崎橋を渡り、高速の南側を進む。 整備された広場に真新しい「大椚一里塚跡」の石碑と説明板がある。 実際の場所はここより少し前にあったという。(クリックすると拡大) 左側一帯は、上野原工業団地が広がっているが、、街道筋は、昔から続く昔からのゆったりとした家並みがつづく。 廿三夜塔がある。 <道の景色> > |
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大椚宿発祥の地 |
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小さな祠の前に、「大椚宿発祥の地」と書かれた標識が立ち、そのわきに秋葉神社の常夜燈がある。 ここは、甲州街道の宿場ではなく、、鶴川宿とこの先の野田尻宿の「間の宿」であった。 木の祠のなかには、石祠(?)が 納められており、、隣の常夜燈には、嘉永6年(1853)と刻まれている。 |
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大椚観音堂と吾妻神社 |
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集落ののはずれに観音堂が建ち その奥に、吾妻神社がある。 |
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長峰砦跡 |
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中央高速道に沿った道となり、左手に説明板がある。中世の山城跡で、一説によると、武田信玄の時代に上野原を治めた加藤丹後守影忠が築いたといわれる。 甲斐国の東口を北条の侵略から守るため、この砦で監視したという。 芭蕉の句が刻まれた石碑が立つ。 <長峰砦跡の上空写真> <発掘調査 遺跡の場所> (クリックすると拡大) |
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野田尻宿 |
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約200mほど先の新栗原橋で中央高速道を渡る。高速の北側の台地を西にすすむ。数百mで野田尻宿となる。 明治の大火でほとんど焼失したというが、街道の両側の家並みなど、往時の趣を残しているたたずまいである。 |
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本陣跡 |
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宿の西側近く、右側に「明治天皇御休憩所址」碑が建つ。 後ろは空き地となっている。 向かい側には、野田尻宿の大きな石柱が立てられ、脇に、「野田尻宿の案内板」が 近隣も含め分かりやすく説明している。 <クリックすると案内板拡大> <犬嶋神社> <道の景色> 宿をでると、街道は左に大きく曲がり、坂道を上がっていく。 中央高速道の斜面に石碑が建っている。 |
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「お玉ヶ井」石碑 |
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お玉ヶ井にまつわる伝説; その昔、旅籠「恵比寿屋」で働く美しい女中「お玉」にまつわる恋物語で、念願の恋が実った御礼にと、水不足に悩む野田尻の一角に、澄んだ水を湧き出させたという。お玉の正体は「竜」で、長峰の池の主「竜神」と結ばれたといわれる。 |
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西光寺 |
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正面に雄大な威容を誇る西光寺がある。天長元年(824)真言宗として創建され、鎌倉時代に臨済宗に転宗した由緒ある寺院である。 | |||||||||||||||||||||||||||||
道の景色 |
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西光寺の手前に標識がたち、 甲州街道は右へ進む。 急な坂道をあがると、右手に庚申塔などの石塔がある。 高速道に架かる橋を渡ると、その先はほんの少しの間だけ、昔の街道らしい道を進むが、すぐに国道20号にぶつかる。 |
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荻野一里塚跡 |
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尾根沿いの自動車道を右に曲がったところに、荻野一里塚跡の説明板が立っている。 (写真は、振り返ったところで、この付近の両側にあったという。 数百m進み、矢坪橋で高速を渡る。 すぐ先のカーブミラーの脇に、自然石の廻国供養塔がある。文化10年(1813)。 。 |
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矢坪坂古戦場跡 |
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すぐ先の右への坂道を上がると、古戦場跡の説明板が立つ。 それによると、「享禄3年(1530)甲斐国の郡内領主であった小山田信有の軍勢が、相模国の北条氏綱の軍勢を矢坪坂で迎え撃ち、激戦のすえ、小山田勢は敗れ、多数の死者が出た」という。 「この先にある矢坪の「武甕槌神社(軍勢神社)や新田の丹勢神社はこの戦いの際に祀られたといわれている。」 甲州街道のルート→クリックすると拡大 |
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道の景色 |
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山沿いの細道を進む。 南側には 談合坂SAが見える。 |
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武甕槌(たけみかづち)神社 |
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石段が山の上まで続くので上らず。 神社庁の由緒には、「古くは軍勢権現として、『産神なり 除地五畝拾歩』と甲斐国志にあり。 明治維新に際し御祭り神命を神社名として今日に至っている」 とある。 その先で、民家の庭先のような所を過ぎて林の中に入っていく。 |
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道の景色 |
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林を抜けると、苔のついた傘をもつ庚申塔がある。天和3年(1681)の青面金剛の庚申塔である。 左側は、崖で、県道3号線が真下に見える。 斜面側に 「矢坪金比羅神社参道」の石柱が立っている。さらにこの山の上にあるのだろうか? |
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座頭転がし |
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木立の中、金網でガードされた道に「座頭転がし」の立て札が立つ。 昔、目の見えない座頭が、崖から転がり落ちたという。 |
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道の景色 |
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ようやく急な崖のある斜面の道からぬけでる。斜面には、地蔵菩薩像が2体たたずむ。 道端には文字庚申塔、上野原デマンドタクシー停留所の立て札がある。 |
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県道30号線に合流。 是より犬目宿の標識が立つ。 |
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県道30号線の緩やかな坂道をあがっていく。 左手の小さい丘に登る細道がある、その先に、「甲州一揆」の首謀者の一人、犬目兵助の墓がある。 |
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犬目宿 |
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犬目宿の石碑と大きな説明板がある。 正徳2年(1712)ここより600mばかり下の斜面にあった部落が、そのまま今の場所に移住し、宿場として創設されたという。 本陣2,旅籠15,総戸数56戸の小さな宿場だった。 犬目宿の案内図→ (クリックすると拡大) |
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宿の景色 |
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<明治天皇御小休所址の碑> |
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犬目兵助の生家跡 |
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天保7年(1836)犬目宿で旅籠を営む兵助は、下和田村(大月市)の武七とともに、天保の大飢饉と商人の米買い占めで苦しむ村人たちを救うため、百姓一揆を起こした。 (甲州一揆といわれる。) |
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宝勝寺 | |||||||||||||||||||||||||||||
白馬不動尊 |
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鳥居の右側に不動明王らしい石像 |
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恋塚一里塚 |
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原形をよく残している。 直径約12m、高さ約5mの円丘。 |
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右側に分岐 |
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坂を下っていくと、右側に山住神社の鳥居、左側に聖徳太子と刻まれた石碑がある。 そこを右に分岐して旧道に入る。 短い集落の先に、石畳の道が残っている。 |
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道の景色 |
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県道からそれて、細道を行く。 県道にでると、楽しい人形が出迎えてくれる。 その先で再び脇道∸草道-をくだる。 |
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石塔、石仏群 |
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中央高速道ををくぐり、国道20号線の手前に、石塔群があつめられている。 | |||||||||||||||||||||||||||||
下鳥沢宿 |
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国道に合流してから下鳥沢宿となる。 本陣1脇本陣2、旅籠11軒 この西に上鳥沢宿があり、宿業務は半月交代で行っていたという。 |
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一里塚跡 鳥沢 |
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鳥沢駅入口の信号の手前、右側の「浜田屋」(食事処)の手前に 「一里塚跡 鳥沢」の標柱が立っている。(少し奥まっているので、わかりづらい。) |
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上鳥沢宿 |
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本陣1脇本陣2、旅籠11軒 <旅籠.叶屋跡> <明治天皇駐驛地碑> |
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道の景色 |
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右へ大きくカーブする箇所に 「三栄工業」の看板がある。そこを右に入っていくのが旧道で、緩やかなの道を下っていくと、まもなく国道に合流する。 500mほどすすむと、右側に谷がひろがり、道路中央の分離帯上宮谷橋の標識が見えてくる。 旧道は、この手前1~200mのところを、右手に入っていくようであるが、見落とした。(先にはつながっていない) |
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宮谷橋 |
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右手に入った旧道は、この下の「宮谷の精進場」を通っていたとのこと。 右手の谷には、発電所の水路の施設が見える。 国道20号線の南側を流れる桂川に架かる桂川大橋が遠くに見えるあたりで、旧道は右へ分岐していく。 100mほどで、猿橋に到着する。 |
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猿橋 |
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<街道からから橋を見下ろす> | 橋は一段低いところにかけれれており、階段で橋の袂まで下りていく。階段脇に北都留郡役所跡の案内板がある。 芭蕉句碑が建つ。 うき我を 淋しがらせよ 閑古鳥 橋の長さ:30.9m、幅3.3m、水際まで30m |
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景色 猿橋 |
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刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。猿橋では、斜めに出た刎ね木や横の柱の上に屋根を付けて雨による腐食から保護した。 』 |
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猿橋宿 |
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猿橋から南に向かい、国道20号線に合流する。 このあたり新猿橋西交差点の所に、本陣があったという。 本陣1、脇本陣2,旅籠10. 猿橋駅の入り口に三嶋大明神がある。創立年など詳細不明。 神社庁のHPによると、納められている神鏡に、応永19年(1412)の銘があるという。、 |
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