川崎宿(六郷橋−子安    地図→ @川崎-鶴見  A鶴見−神奈川新町 

 かねてから懸案であった神奈川県の東海道の最初の部分である六郷川から散策するチャンスができた。2ヶ月ぶりに下丸子へ行ったその足で京急蒲田から六郷土手で下車し、そこをスタート地点とした。
北野神社(止め神社)
 六郷土手駅は、ホームが六郷の土手の端にかかるほどである。第一京浜国道を渡らずに、駅前の郵便局の前の道を川のほうに進むとすぐに、国道の北側、土手のすぐ脇に位置して、北野神社がある。別名「止め天神」といわれており、日本橋から四里半のところである。説明板によれば、北野天神が八代将軍吉宗の乗馬が暴走し、あわやと言うときに将軍の落馬を止めたといわれ、それ以来、人の身にふりかかる悪いことを一切とめてくださる天神様として崇められている、とのこと。

多摩川

六郷橋:止め神社側から上流を望む(鉄橋はJR線)

橋中央から下流方面を望む

六郷橋(川崎側

 国道の南側に、明治天皇六郷渡御碑(明治天皇が田中本陣で昼食後23艘で作られた船橋を渡られた)や、川崎大師の厄除け燈篭、六郷渡しの案内板などがある。




 徳川家康が慶長5年(1600)に六郷大橋を架けたが、元禄元年(1688)洪水で流されたあとは船渡しとなり、明治7年(1874)「左内橋」ができるまで続いた。

 渡船は、当初は江戸の町人らが請負ったが、宝永6年(1709)3月、川崎宿が請負うことになり、これによる渡船収入が川崎宿の財政を大きく支えた、という

万年横丁と川崎大師への分岐点

 国道の南側から、国道(六郷橋)の下をくぐって右側に進むのが旧東海道であり、歩道が他の歩道と区別できるような舗装となっている。

『万年横丁・大師道』という道標がある

この付近に有名な『万年屋』があり、またその岐路には、寛文3年(1663)造立の川崎大師を示した石製道標があった。現在は川崎大師境内の中に移されているが、近世屈指の名品であるという。(川崎大師の項目に写真あり)

川崎宿

 江戸時代の初期から、新興と行楽を兼ねた川崎大師への参詣が盛んで、渡し舟を乗り降りする旅人、川崎大師へ向う参詣客などで大いに賑わった。(当時から日帰り参詣のできる関東屈指の霊場として、広く江戸庶民の人気を集めていた。)

ここの案内板によると、「船を下りて川崎宿に入ると、街道筋はにぎやかな旅籠街。幕末のはやり唄に「川崎宿で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤家、小土呂じゃ小宮・・・」。なかでも万年家とその奈良茶飯は有名だったという。

旧東海道

 旧東海道を示す道標や案内板が、京入口までの各所にたっており、川崎宿の散策はわかりやすい





田中本陣跡

 寛永5年(1628)に設けられた宿内最古の田中本陣のあと。(深瀬小児科のところ)案内板あり。

ここ出身の田中休愚(きゅうぐ)は宿の財政再建に尽力した人物で、当時の財政を論じた『民間省要』の著者としても知られる。

田中休愚(きゅうぐ)(丘隅) 

 寛文2年(1662)武州多摩群平沢村の農家の生まれ、川崎本陣の田中家に認められ養子になり、問屋・名主として川崎宿の復興に腕をふるった。宝永6年(1709)、田中休愚の働きで幕府から六郷川渡船権を得て、それまで財政難で苦しんできた川崎宿は、その収入でようやく安定した。

正徳年間(1711-16)に荻生徂徠・成島道築らの儒者に経世済民の学を学び、享保5年(1720)に上方を旅して見聞を広め、翌年『民間省要』をあらわして民政を論じた。これが8代将軍徳川吉宗の目にとまって抜擢され、荒川・酒匂川の治水などの業績を残した。

(「神奈川県の歴史散歩」より)

 
浄土宗一行寺

 この先に宝暦11年の大火の案内板があり、小土呂から六郷渡しばまで町並みはほぼ全焼したという。

 

一行寺は、田中本陣の先を、京急川崎駅方面に右折する。

寛永8年(1631)に開かれ、「おえんまさま」の名で親しまれたという。本陣火災の際の避難所であった。

 宋三寺

 京急川崎にホームから南側にみえるのが宋三寺であり、町中のため墓地がぎっしりと並んでいるが、その一番奥に、飯盛り女を供養する塔が立っていたり、いろいろな伝えのある供養塔がある




旧東海道の問屋場跡:砂子(いさご)一丁目交差点

  この交差点)に『川崎歴史ガイド』として、東海道および大師道の地図と説明をわかりやすく描いている大きな案内図がある。





問屋場跡

 この案内図の向かい側(近畿日本ツーリスト)のところが、問屋場跡で案内板がある。

問屋場跡の向かい側の奥が「中の本陣」があった

砂子交差点

 この先の市役所通りを横切るところが、砂子交差点である。この部分の東海道は『いさご通り』と名前がつけられているが、この交差点から西側の川崎駅方面と東側の市役所方面とをくらべると、道路面が若干高くなっている。これは、川崎宿のもともと低地で多摩川の氾濫のときに冠水することが多く、それを防ぐために東海道が通るところは盛土がされたことからきているという。

佐藤本陣

 砂子交差点をわたった左側コーナーが、川崎信用金庫もビルであり、その入口に佐藤惣之助の碑が立っている。

川崎宿には、問屋場と高札場を挟んで上手の田中本陣と下手の佐藤本陣の二つの本陣があったが、この碑が立っている北側が、佐藤本陣であった。

 詩人佐藤惣之助は明治23年に生まれ、昭和17年5月15日に52歳で世を去った。生家は川崎宿の上本陣佐藤家で現在位置の北隣の砂子2丁目4番地がその旧地である。惣之助は大正、昭和初期の詩壇に雄飛して数多くの珠玉の名篇を世に出し、不滅の地歩を築き,また「詩の家」を主宰して詩友と交わると共に多くの後進の指導要請にあたった。さらに、俳句・歌謡・小説・随筆にすぐれた業績を残し、釣・義太夫・演劇・民謡研究・郷土研究・沖縄風物の紹介など、趣味の世界における多方面の活躍も驚くべきものがある。

歌謡作詞では「赤城の子守唄」「人生劇場」「新妻鏡」「男の純情」「青い背広で」「湖畔の宿」「人生の並木路」「すみだ川」など、人々の胸をうち、心に通う歌詞の故に今もなお愛唱されている不朽の作品が多い。(佐藤惣之助の碑より)


小土呂橋

 次の信号が小土呂橋交差点であるが、ここは東海道が幅5mほどの新川掘を横切る地点で、ここに、小土呂橋という石の橋がかけられていた。その親柱が、この交差点の角に立っている。

また、近くの市役所の西側にある稲毛神社には、ほかの小土呂橋遺構がのこされている。



教安寺

 そこから3ブロックすぎて右手に向かったところが教安寺である。

 

 江戸時代後期に入って、新興の庶民信仰の「富士講」が爆発的に流行した。 山門左手には、 川崎宿内の富士講中が「宿内安全」「天下泰平」を祈願して天保11年(1840)に建立した大きな燈篭が立つ。

また、境内には浄土宗の高僧で生き仏と崇められた徳本(とくほん)上人の石碑が建立されている。(別項の入江崎公園に、その石碑で一番大きなものがある)

川崎宿京入口

 教安寺から東海道にもどった直ぐのところが、川崎宿入口である。

宿場の入口には切石を積んだ土居があり、これを出るといわゆる八丁畷の一本道であった。文久2年(1862)外国人遊歩区域となり、土居付近に外人警護のため第一関門が設けられた。


八丁畷までの一本道

 川崎宿を過ぎてから隣の市場村へいたる区間は八丁(約870メートル)あり、畷といって、道が田畑の中をまっすぐにのびていたので、八丁畷と呼ぶようになったという。





芭蕉句碑

 八丁畷の駅の手前右側に、芭蕉の句碑が、整理された区画の中で屋根にカバーされて建てられている。 もともとは、京入口付近に、文政13年(1830)、俳人 一種によって建立されたもので、後年、この場所に移された。

 

芭蕉は、元禄7年(1694)5月、江戸深川の庵をたち、郷里 
伊賀への帰途、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの別れを
惜しんで、  刈り込み詩 麦のにおいや 宿の内  
      麦畑や  出ぬけても猶  麦の中      

         浦風や  むらがる蝿の  はなれぎは 

の返句として詠んだのが、この碑にある句である。

  『麦の穂をたよりにつかむ 別れかな』

 丁度タイミングがよく、俳句の内容にぴったりと、春の花とともに麦が植えられており、その穂がきれいにのびていた。




無縁塚

 八丁畷の駅手前の踏切を越えて、東海道はすすむ。

その左側に、無縁塚が建てられている。

 

江戸時代に災害でなくなった身元不明の人々を埋葬した場所と推定される場所。


市場村

さらに進むと、市場銀座の商店街となる。左側に入ると、京急鶴見市場駅である。

熊野神社沿革によると「此(この)地方は往古からの海辺で漁・塩の利が共に豊富であって、天文の頃には魚介の市を開設して利を獲た者が多く、遂に村名とした」という。

熊野神社

 この商店街の右手に、熊野神社がある。弘仁の時代(810〜824)の勧請されたといわれ、旧市場村の通称八本松のところにあったが、昭和5年東海道線の施設のためこの地に遷されたという。





 専念寺

 市場通りを左に折れて、鶴見市場駅直ぐ前に浄土宗 専念寺がある。

 

ここの、十一面千手観音菩薩は、紫式部の念持仏といわれ、近江国の石山寺より来た愚蔵坊昭西が東国へ奉持し、この専念寺を建立して、安置したという。その後、毎月17日を縁日として市が立ち、これをボロ市と称した。これが市場村の名称の由来という。江戸時代多くの参詣人でにぎわった。富士山から飛んできたという「夜光石」や「お乳石」も有名。

市場一里塚

 旧東海道に戻りしばらく西に向かうと左手に一里塚跡がある。

江戸より五番目の塚に当たり、かっては両側にあったものが、明治9年(1877)の地租改正に払い下げられ、左側の塚のみ残る。

 

一里塚:慶長9年(1604)徳川幕府が江戸から京都までの街道を整備し、里程の目標と人馬の休憩のための目安として、日本橋から一里(4km)ごとに街道の両側に建造した塚。塚は五間四方(9m四方)で、塚の上には榎が植えられた。

鶴見川橋



 鶴見川橋は徳川家康が東海道を整備した慶長6年(1601)ごろに架けられ、長さ25間、幅3間といわれていた。

 

橋の周辺は視界が開け、橋上から大山や箱根連山が見えたという風光明媚な場所であったという。

平成8年アーチ橋として生まれ変わった。

鶴見橋関門旧跡




 鶴見川橋を渡ると直ぐ左手に、鶴見関門の跡がある。

案内板より

 安政6年(1859)6月、横浜開港とともに神奈川奉行は、外国人に危害を加えることを防ぐため、横浜への主要道路筋の要所に関門や番所を設けて、横浜に入るものを厳しく取り締まった。

鶴見橋関門は、万延元年(1860)に設けられ、橋際のところに往還幅四間(約7m)を除き左右へ杉材の角柱を立て、大貫を通して黒渋で塗られた。 文久2年(1862)8月、生麦事件の発生により、その後の警備のために川崎宿から保土ヶ谷宿の間に20ヶ所の見張番所が設けられた。鶴見村には第五番の番所が鶴見橋際に、その出張所が信楽茶屋向かいに、第六番が今の京浜急行鶴見駅前に設けられた。明治に入り世情もようやく安定してきたので、明治4年(1871)各関門は廃止された。なお第五番・第六番は慶応3年(1867)に廃止されている。

鶴見旧東海道の案内板

 この先右手の鯉ヶ渕公園の入口には、「鶴見東口駅前通・旧東海道」と題して大きな地図と説明版がつくられており、鶴見の旧東海道の絵と現在の地図が対比され、わかりやすい説明となっている。

 

それによれば、東海道の街道筋は、徳川家康により伝馬の制が定められてから賑わいを増した。鶴見村、生麦村は、海浜に面して景色が優れていたため茶屋町として繁盛したという

寺尾稲荷道

 この案内板の手前、公園の角に「寺尾稲荷道」の道標が立っておりその脇に説明版がたてられている。こ鶴見の史跡の個別説明がここから、始まっている。

 

鶴見区域内にあった道路で代表的なものに小杉道と寺尾道があった。


 鶴見神社

 鶴見川流域に多い杉山神社の一つで、創建は推古天皇の時代といわれる。 毎年4月29日にその年の豊作を祈る「田祭り」が行われるという

 鶴見神社から東海道に戻ったところに案内板があり、それによれば、旧東海道から鶴見神社に入る参道は、身録道(みろくみち)と呼ばれ、その道標が入口に立っていたという

 またその向かいに鶴見村の中でも最も大きな茶店の「信楽茶屋」の絵と説明版がある。

 旧東海道は、京急鶴見のガードをくぐってそのまま商店街をぬける。

右手、JRの線路の向こうに、総持寺の屋根がみえてくる。

東海道から離れて総持寺を訪れた。

総持寺

 福井県の永平寺とならぶ曹洞宗大本山で、境内は約10万坪におよぶ。もとは石川県にあった総持寺が、明治31年(1898)の火災により横浜市鶴見の現在地に移転したもの。

もとの場所は総持寺祖院と呼ばれている。


山門

向唐門

仏殿(大雄宝殿

本堂(大祖堂

国道駅

 もと来た道を戻り、東海道をくだる。そのまま第一京浜国道をよこぎり、JR鶴見線のガードをくぐる。(この旧東海道と国道の間に、「国道駅」があり駅の下がドーム状の通路となっている。)

・・・・生麦側から鶴見線を振り返る




生麦魚河岸通り

 ここから生麦となり、街道は生麦魚河岸通りとよばれる






道念稲荷神社

 魚河岸通りの右手(生麦4丁目)に道念稲荷神社がある。また、その先の信号(大黒町方面行きの産業道路)を過ぎて右側に神明社がある。ここに伝わる「蛇も蚊も」の行事は、横浜市の無形民俗文化財に指定されている。

 

 横浜市の広報によれば「もとは端午の節句の行事でしたが、近年は6月の第一日曜日に、生麦の原、本宮両地区で行われており、原地区は神明社、本宮地区は道念稲荷神社で、かやの長大な蛇体を作り、この蛇体を若者・子どもがかつぎ、「蛇も蚊も出たけ、日和の雨け」のかけ声で町内を回り、大漁豊じょう、疫病退散を祈願し、夕方神社に戻った蛇体は、境内で燃やす。」という

 

←「蛇も蚊も発祥の地」の石碑

 蛇も蚊も出たけ、ひよりの雨け 


道念稲荷神社(生麦4丁目)







神明社(生麦3丁目)

生麦事件の碑

 生麦事件の碑が立っているところから、生麦通り側をみたところ。右側にキリンビールの工場がある。

 朝廷は幕府に攘夷敢行を求め、江戸に赴く大原勅使の護衛として島津久光が同行し、その帰途、文久2年8月21日(1862年9月14日)行列が生麦村を通行中、馬に乗ったまま行列を横切ろうとした外国人4人が、薩摩藩士に殺傷された事件で、薩英戦争の契機となった。



遍照院

 生麦事件の石碑の地点で旧東海道は第一京浜国道と一体となる。

子安駅の手前、右側に遍照院があるが、その参道には、踏切があり京浜急行の線路を横切る形となっている。

1458年に祐等法師によって創建され、ご本尊は不動明王という。



 相応寺

 JRの線路をくぐったところが大口商店街である。その目の前に立派なお寺があった。

 

ここは子育地蔵が有名で、山門の左側に地蔵がならんでいる。



蓮法寺

 相応寺前を神奈川新町方面へ数分歩き、国道一号線と合流する。 その国道を東京方向に行った左側の石段を登ったところが蓮法寺である。

山門左手、境内の外に、浦島太郎伝説に関連する供養塔や亀型の墓石がある。通称「うらしまでら」と呼ばれていた観福寿寺は明治5年に廃寺になり、その資料が、この蓮法寺と、あとで訪れる東神奈川の慶運寺にのこるという。

亀型の墓石  浦島という名前が町名、小学校などいたるところにのこる




浦島太郎伝説関係資料  蓮法寺案内版より

 

 横浜市神奈川区に伝わる浦島太郎伝説は、観福寿寺に伝えられていた縁起書に由来すると考ええられますが,同寺は慶応四年(1867)に焼失したため、縁起の詳細については確認できません。しかし「江戸名所図会」「金川砂子」などの文献には縁起に関する記述がみられます。それらによると、相州三浦の住人浦島太夫が丹後国(現在の京都府北部)に移住した後、太郎が生まれた。太郎が20歳余りの頃、澄の江の浦から龍宮にいたり、そこで暮らすこととなった。3年の後、澄の江の浦から帰ってみると、里人に知る人も無く、やむなく本国の相州へ下り父母を訪ねたところ、300余年前に死去しており、武蔵国白幡の峯に葬られたことを知る。これに落胆した太郎は、神奈川の浜辺より亀に乗って龍宮へ戻り、再び帰ることはなかった。そこで人々は神体をつくり浦島大明神として祀った、という内容です。

 この浦島伝説が伝わっていた観福寿寺の資料は、同寺とゆかりの深い慶運寺(神奈川本町)と、大正末期に観福寿寺が所在した地に移転してきた蓮法寺(本寺)に残されています。

蓮法寺の供養塔3基は、若干の欠損と近年にいたって手の入った形跡が認められますが、浦島伝説を今日に伝えるものです。

散策日 2006年4月26日 多摩川−川崎大師
2006年5月4日 川崎大師−新子安