神奈川宿その1(神奈川−青木橋)   地図→ 神奈川新町-保土ヶ谷  

かまくら古道/鎌倉の探索と平行して、天候/時間割りとの関係から、東海道の探索も同時並行で進めることにした。その東海道探策の第一回目として、神奈川新町に神奈川宿場の案内図をベースに探索を開始した。

神奈川新町案内板

 「神奈川宿場歴史の道」とだいして、神奈川の宿場の通りとお寺、旧跡の場所が昔の通りと現在の国道の様子と共にやかりやすく記載されており、どのように歩けばよいかひと目でわかった。

また、それぞれのところに案内板が建てられて、わかりやすく説明されているので、以下できる限り記録した。

地図を頼りに、まず一番東側に位置している長延寺跡(オランダ領事館跡)に向かった。

長延寺跡(オランダ領事館跡)

 案内板から、子安よりに行ったところが神奈川通東公園でこの「歴史の道」の起点である。 寛永8年(1631)から諸和40年までの330年間、長延寺が存在した。長延寺は開港当時、オランダ領事館にあてられたが、区画整理により移転し、いまは「オランダ領事館跡」の石碑がのこるのみ。また、この公園の脇には、江戸時代の宿場町の入口に作られた「土居」 (枡形)の絵と説明版がおかれている。宿場の様子を知る上でためになる絵である。

良泉寺 

案内文より

 良泉寺は海岸山と号し、浄土真宗大谷派に属す。本願寺第八世蓮如上人に帰依した蓮誉(れんよ)が、小机付近の旧街道沿いに草創、慶安元年(1648年)入寂した。 この寺の第四世良念の代に、徳川幕府より境内地の施入を受け、現在地に移転したと伝えられる。開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快しとしないこの寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命令を断ったといわれる。

笠のぎ稲荷神社

 良泉寺のはずれから、京浜急行の線路の向こう側に赤いのぼりが見えてくる。笠のぎ稲荷神社である。

また、横浜市指定有形文化財に指定されている「板碑」もある。

 社伝によると、天慶年間(938947)に稲荷山の中腹に創祀され、元禄2年(1689)に山麓に移されて、霊験ますますあらたかとなり、社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちるということから笠脱稲荷大明神と称された。後に笠のぎ稲荷神社と改称され、明治2年より現在地に移る

板碑(説明版より)

  碑の形態は頭部を三角形とし、その下部には二条に深い切り込みが施され、身部は枠線によって長方形に区画されています。身部の上位には阿弥陀如来をあらわす種子(しゅじ)「くりーく」を、中位には天蓋を配し、その下位中央には、六字名号「南無阿弥陀仏」の梵字が薬研彫りで力強く刻まれています。本板碑は阿弥陀を主尊とする板碑ですが、天蓋を配した六字名号と一対の塔を刻した特異な板碑で、本碑に見られるような変形五輪塔を刻す板碑は極めて少なく、中世の墓制を知るうえで貴重な資料です。

能満寺

案内文より

 正安元年(1299年)内海新四郎光善というこの地の猟師が、海中より霊像を拾い上げ、光善の娘に託していう霊像の言葉にしたがってたてたものがこの寺であるとの伝承がある。本尊は高さ五寸(15センチ)木造坐像の虚空菩薩像で、海中より出現したと伝えられる。かっては、神明宮の別当寺で同一境内地に同社もあったが、神仏分離令で分かれ今日に至っている。

神明神社

案内文より

 神明宮の草創についてはいくつかの伝説があるが定かではない。「新編武蔵風土記稿」は、別当能満寺の草創と同じ正安元年(1299)の勧請としており、この神社と能満寺が草創当初より極めて密接な関係にあった事を伺わせる。かって境内を流れていた上無川に牛頭天王のご神体が現れ、洲崎神社及びこの神社に牛頭天王を祀ったとの伝承もある。また境内にある梅の森稲荷には、若い女旅人にまつわる哀れな話も伝わる。

東光寺

案内文より

 この寺の本尊はもと大田道灌の守護仏であったが、道灌の小田原城攻略後、平尾内膳がこの仏を賜りこの寺をを草創下といわれる。また道灌は内膳に本尊を与えるに際し、[海山をへだつ東のお国より、放つ光はここもかわらじ]との歌を読んだといわれ、この歌が東光寺の名称の由来だとも伝えられる。[金川砂子]には街道に面して山門を開く様子が描かれている。(案内板より)

金蔵院





  JR東神奈川駅入口に向かう道路を横切ってさらに進むと、右側に立派な山門の金蔵院がある。

案内文より

 金蔵院は京都醍醐寺三宝院の開祖勝覚僧正により平安末期に創られた古刹である。その後、徳川家康から十万の朱印地を許された。「神奈川砂子」のこの図には江戸後期の様子が描かれている。参道は街道まで延び、金蔵院・熊野神社が境内に並びたっている。本堂前には徳川家康の「御手折祈祷」と称された梅の古木が描かれている。かっては毎年一月に党院の住職がこの梅の一枝をたずさえて登城するのがならわしであったという。(案内板より)

 境内にあるしだれ桜が満開であった。

熊野神社

  神奈川郷の総鎮守として寛治元年(1087) 神奈川権現山(現幸ヶ谷山上)に創立され、熊野三社大権現と号した。

その後、正徳二年(1712)、別当金蔵院の境内に移った。

高札場




 高札場は、幕府の法度や掟などを庶民に徹底させるために設けれたもので、宿場の施設としては重要なものであった。神奈川宿の高札場は、瀧の橋の北より(いまの神奈川警察署西側付近)にあったが、これは、地区センターの前に当時の規模(間口約5m、高さ3.5m、奥行き1.5m)で、復原されているもの。

高札場があるこのあたりの道は、当時の雰囲気を出すように整備されている。・・地区センター前の通りである。

成仏寺

案内文より

 成仏寺は、鎌倉時代の創建と伝えられる浄土宗の寺である。徳川三代将軍家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため寺地が現在地に移された。安政六年(1859)の開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎につかわれ、ヘボンは本堂に、ブラウンは庫裡に住んだという。ヘボンはヘボン式ローマ字で知られ、日本最初の和英辞典を完成した。またブラウンは聖書や賛美歌の邦訳に尽力した。

慶運寺


瀧の川にそった道路を来たに向かい京浜急行のガードをくぐる。

JR京浜東北線での通勤時、東神奈川駅の南側海よりに墓地がみえそこのお地蔵さんの赤い袈裟が印象に残っていたが、この慶運寺がそれであった。


案内文より

 慶運寺は、室町時代に芝増上寺第三世音誉聖観(おんよしょうかん)によって開かれた。京の連歌師谷宗牧は、[東国紀行]の天文十四年(1944)三月三日の条に「ほどなくかな川につきたり、此所へもこづくへ(小机)の城主へいひつけられ、旅宿慶運寺にかまへたり」と書いている。開港当初はフランス領事館に使われた。また浦島寺ともよばれている。浦島太郎が竜宮城より持ち帰ったという観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっている。

浄龍寺

案内文より

 文応元年(1260)妙湖尼は、当時の政治の中心地であった鎌倉に向かう途中に当地に立寄った日蓮上人と遭った。法尼は聖人の人格に打たれ、法華経の話を聞いてたちまち弟子となり、自分の庵を法華経の道場とした。聖人が「立正安国論」を著作し、鎌倉幕府に献策した年でもある。また開港当時は、イギリス領事館に充てられた。

本陣の跡・・・・瀧の橋付近

 

瀧の川(上流)


この瀧の橋をはさんで、東の神奈川町、西の青木町に本陣ができ、神奈川は石井家、青木は鈴木家が任命された。



青木本陣方向

神奈川本陣跡の場所(小野モーターズあたり)

案内文より

図は「金川砂子」に描かれた江戸後期の金川宿の風景である。現在と同じ場所にあった瀧の橋を中心に、江戸側には神奈川本陣、反対側に青木本陣が置かれていた。(本陣とは、大名や公家などが宿泊したり、休憩するための幕府公認の宿である。

滝の橋のすぐ脇には高札場が見える。

神奈川の大井戸

案内文より

  この井戸は、江戸時代には東海道中の名井戸に教えられ、当時は宋興寺を「大井戸寺」と呼ぶほどであったといわれている。江戸初期には神奈川御殿に宿泊する徳川将軍のお茶の水に充てられたと伝えられ、また、開港後には宋興寺に滞在したアメリカ人宣教医シモンズやヘボンもこの井戸水を使用している。

また、この井戸の水量の増減によって翌日の天気をしることができるといわれ、その為「お天気井戸」とも呼ばれた。

  

 宋興寺

案内文より

  開港当時、アメリカ人宣教師で医者であったヘボン博士がここに診療所を開いた。これを記念する石碑が境内に建てられている。ヘボン博士は、ヘボン式ローマ字でよく知られ、日本で最初の和英辞典を完成し、聖書の翻訳などもおこなった。後に、明治学院を創設するなど、わが国の教育にも尽力した人である。


「ヘボン博士診療所跡」の石碑より
 安政6年(1859)へボンの来日後まもなくアメリカ宣教師シモンズが来日、当宋興寺を宿舎とした。シモンズはその後明治初年になって横浜市立大学の前身,十全病院で多数の外科手術を行い、子弟を教育した。また虫下しセメン円でも有名である。シモンズが去ったあと、文久元年(1861)4月から9月まで宋興寺はヘボンの診療所となった。ヘボンは成仏寺からここへ通い、多数の患者を無料で診察し、入院患者もあった。

権現山(幸ヶ谷公園)

案内文より

 かってこのあたりは権現山と呼ばれ,本覚寺のある高島台と尾根伝いに繋がる急峻な山であった。戦国時代、当時の関東の支配者上杉氏の家臣上田蔵人は、北条早雲に味方して謀反を起こし、この山上に砦を築いてたてこもった。合戦は上杉方の勝利に終わったが、その後上杉氏の力が弱まり北条氏による関東支配がはじまった。

  この権現山は、安政4年(1857年)の黒船来航で、国内警備のため勝海舟設計により大砲14門を備えた砲台として1859年に作られた神奈川台場の工事用土として削られ、また鉄道用地の埋立てにつかわれ、現在のようにひくくなった。

州崎神社


 洲崎大神は、建久二年(1191)、源頼朝が安房国 一宮の安房神社の霊を移して祀ったことに始まると伝えられている。


案内文より
 江戸名所図会」の様子は、今も石鳥居や周囲の地形に偲ぶことができる。神社前から海に向かって延びる参道が、第一京浜に突き当たるあたりがかっての船着場である。横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場とよばれる海陸の警護にあたる陣屋も造られた。

宮前商店街

 洲崎神社前から京急神奈川のある青木橋まで、商店街が続き、山側にはイギリス人士官宿舎跡の普門寺や、フランス公使館跡の甚行寺がならぶ。

普門寺

案内文より

 普門寺は、洲崎山と号し、真言宗智山派に属す。山号の洲崎は洲崎大神の別当寺であったことより起こった。また寺号の普門は洲崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したことより、観世音菩薩が多くの人々に救いの門を開いているとの意味で普門とされたと伝えられている。江戸後期には、本堂・客殿・不動堂などの建物を持ち、開港当時はイギリス士官の宿舎に充てられた。

甚行寺

案内文より

 甚行寺は、真色山と号し、浄土真宗高田派に属す。明暦二年(1656)第一世意園上人が本山専修寺の第十四世尭秀上人を招いて、この寺を創建したと伝えられる。 開港当時、本堂は土蔵造りであったが、改造を加えてフランス公使館に充てられたといわれている。大正十二年の関東大震災には全ての建物を倒壊焼失之、さらに昭和二十年の横浜大空襲にも再度全焼した。その後、昭和四十六年に本堂・客殿を鉄筋コンクリート造で再建に現在に至っている。

青木橋からの風景

 宮前商店街を抜けると、京浜急行の仲木戸駅であり、下をJR東海道線が走っている青木橋が目の前で、車の通行が激しい通りである。これは青木橋からみた権現山−幸ヶ谷公園であるが、江戸時代は本覚寺のある左側の丘から続いていた。

散策日 2006年3月20日 神奈川新町−天王町
2006年4月7日 瀧の川(2回目)−帷子川