日本橋-立会川    地図→ @日本橋-浜松町  A浜松町-品川 B品川-立会川 

                    C立会川-南蒲田  D南蒲田-六郷土手 

 

 旧東海道の旅を、地元の神奈川(多摩川)からスタートし西に進んだが、東京都内については近くに来る機会をとらえてこまぎれに歩いてきた。今回、改めて日本橋から歩き、品川宿を越して立会川まで進んだ。
そこから先は、以前散策したところであり、今回一緒にまとめた。

 現時点ではすでに旧東海道を駿河まで歩き、蒲原・由比の散策を楽しんできた直後でここで改めて東京を歩くと、
あまりにも大きな都市化の流れ、コンクリートで囲まれた町並みに圧倒された。
ただ、それは品川駅までで、その先は旧東海道の町並みが残されており、旧街道の散策の気分が戻ってきた。

日本橋
 日本橋は、慶長8年(1603)に長さ27間4尺(50.4m)、幅4間3尺(8.3m)の木橋が架けられたのが最初で、江戸時代の五街道の起点であった。
現在の橋は、明治44年(1911)に花崗岩の二蓮アーチの道路橋として完成した。標柱の橋銘は徳川慶喜の揮毫という。
       道路元標
 三越寄りの広場に、橋の中央に大正8年(1919)に建てられた「東京市道路元標」が保存され、その跡に埋められた「日本国道路元標」の複製が置かれている。
 里程標があり、京都市まで503kmとある。
       魚河岸跡
 東側には「日本橋魚市場発祥の地」という石柱があり、詳しい説明がある。ここから江戸橋までの日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」があり、ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まるという。この魚河岸は関東大震災後に現在の築地に移転した。
       高札場跡
 南西側には高札場跡を示す碑がたつ。
ここは、幕府の重要な触書が掲示される大高札場であった。

いよいよここから中央通りを南へ進む。

秤座跡
 日本橋高島屋の2ブロック先を左折すると、ビルの間の植え込みの中に小さい碑が建つ。
江戸幕府の認可を受けて全国の秤の量目の統一を図るため、秤の製造・検査・販売等の権利を独占した秤商人の事業所があった所で、江戸と京都に置かれ、江戸では、守随家が東国三十三カ国を管轄したという。

歌川広重住居跡
 八重洲通りを過ぎて次を左折し、100mほど先を右折すると道路わきに説明板が立つ。
「東海道五十三次」や「名所江戸百景」などを描いた浮世絵師の、安藤(歌川)広重(1797〜1858)が、嘉永2年(1849)からおよそ10年間過ごして住居、という。
近くには、幕府の奥絵師-狩野四家のうち、中橋狩野屋敷があったという。

京橋
 しばらく進むと高速道路の下を通過する。家康の江戸入り後外堀と同時に開削された京橋川が、昭34年(1959)に高速の建設に伴い埋め立てられ、京橋は撤去された。
東側には京橋の名が彫られた明治8年(1875)の石橋の親柱が残されている。(西側には大正時代の親柱も残されている。)
その先には、「煉瓦銀座之碑」とガス灯が建っている。それによると、「明治5年(1872)の火事により銀座は全焼し築地方面にまで延焼した。政府は国費により煉瓦造り2階建てアーケード式洋風建築を完成させた。煉瓦通りと通称された。」という。

江戸歌舞伎発祥の地 と 青物市場跡
 西側には、「江戸歌舞伎発祥之地」の碑が建つ。 寛永元年(1624)に中村座の元祖-猿若(中村)勘三郎が、中橋(日本橋と京橋の中間)の南に猿若座の芝居をあげたのが、江戸歌舞伎の始まりという。
 近くに「京橋大根河岸青物市場蹟」の石碑があり、また京橋川や大根河岸、白魚河岸、薪河岸などの説明板がある。それによると、数寄屋橋寄りにあった大根を中心とする野菜市場が火災に会い水運の便の良い京橋川沿いに移転してきたことから始まったという。

銀座発祥の地
 ティファニー前の歩道上に石碑があり、銀座の簡単な由来が書かれている。
「銀座」は江戸時代の銀貨の鋳造所で勘定奉行の管轄下にあった。慶長6年(1601)伏見に設けられ、のち駿府、京都、大阪、などに置かれた。江戸には駿府から慶長17年(1612)にこの場所に移り新両替町となったが、銀座町と呼称された。
 寛政12年(1800)に全国統一されて日本橋に移転したが、町の呼び名がそのまま残り、明治2年(1869)正式な町名となった。

護(かくご)稲荷大明神
 銀座四丁目の三越の屋上に出世地蔵尊が祀られているというので入った所で張り紙があり、屋上改装中で参拝できずとあった。
その先の松坂屋屋上には護(かくご)稲荷大明神が祀られている。
慶長16年(1611)いとう呉服店として名古屋で創業した松坂屋は明和5年(1768)江戸に進出したが、各地でたびたび火災に会うことから、山城伏見の本宮から稲荷大明神をから江戸根岸の里に勧請、その後松坂屋の守護となった、という。


金春屋敷跡
 上を高速道路が走る銀座八丁目交差点手前を右折すると、最初の道が金春通りで、その入口に金春屋敷跡の説明板がある。
 能楽は、室町時代以後幕府の保護を受けて興隆し、金春・観世・室生・金剛の四座が江戸幕府直属の能役者として知行/配当米・扶持を与えられていた。四座とも銀座・京橋に屋敷があり、金春座はここ銀座八丁目の『山王町』にありその後麹町に移ったという。
 その横には、「イギリス人トーマス・ウォートルスにより設計された銀座煉瓦街の遺構が発見された」という説明板がある。

芝口御門跡
 交差点の手前を西にはいると芝口御門跡の説明板がある。
交差点の上の高速道路ができる昭和39年までは、汐留川が流れ、新橋がかかっていた。
宝永7年(1710)に朝鮮特使の来朝に備え、この橋の北詰に今の外桜田門と同様な城門が建設され、芝口御門と呼ばれたという。
享保9年(1724)の大火により焼失して以後再建されず、城門の桝形を形作っていた石垣も撤去されたという。

新橋の標柱
 汐留川の埋め立てに伴い橋はなくなり、親柱が残されている。
その先に、「銀座柳の碑」が植え込みの中にあり、横に、銀座の柳2世の植えられている。
碑には、西条八十作詞 中山晋平作曲の歌詞が刻まれている。

旧新橋停車場
 その先で昭和通りと交差ししている新橋交差点を渡るが、その西奥に「旧新橋停車場」がある。
 明治5年(1872)10月(太陽暦)に日本初の鉄道が、新橋(後の貨物汐留駅)−横浜(桜木町)で開業した。
国鉄民営化後、旧汐留駅跡地は開発され、旧新橋停車場跡地などが発掘され、国指定史跡に指定された。
平成15年(2003)その上に当時の新橋の駅舎と同じ場所・外観で停車場が再現された。

道景色−第一京浜
 交差点から先は第一京浜国道となり、広い道路が続き、約1km強をひたすら歩く。


 大門の信号のひとつ手前の角を右に入ると突当り正面に芝大神宮がある。
東京タワーが社殿の奥に見える。

芝大神宮
 説明板によると、平安時代中頃の寛弘2年(1005)に伊勢の内外両宮の分霊を祀り創建されたという区内有数の古社という。永年、関東のお伊勢(芝神明)さまとして崇拝されているという。
また明治時代に活躍した力士「金杉藤吉」の名前がある力石が置かれている。

                   みつばつつじ

金杉橋
 大門の交差点から300mほど進むと、上を高速道路が走っている古川に架かる金杉橋となる。
江戸時代、ここから島流しの罪人を乗せた船が出ていたという。何年か後に帰れるものがここから送られ、一生帰れない囚人は、隅田川の永代橋からと決められていたという。
 
この付近に最初の一里塚があったとされるが、元禄3年(1690)の東海道分間絵図などには記載されておらず、当初からなかった可能性も高いという。

薩摩藩邸跡
 しばらく進んで芝五丁目の交差点を北に進むと、NEC本社ビルがあり、その角を左折すると植え込みの中に「薩摩藩邸跡」の石碑がある。
NEC、セレスティンホテル、戸坂女子短大のあたり一帯に薩摩藩江戸屋敷の上屋敷があった。
 慶応3年(1867)、西郷隆盛の江戸での挑発行為の結果この上屋敷が焼き討ちに合い、翌年の鳥羽伏見の戦いで始まった薩長を中心とする討幕軍と、幕府軍との戊辰戦争の引き金になった。
(中屋敷は帝国ホテルあたり、下屋敷は品川駅西のホテルパシフィックあたりにあった。)

西郷隆盛・勝海舟会見之地
 元の第一京浜に戻り、交差点を過ぎてすぐ左の三菱自動車の角に、丸い石碑と付近の地図と説明がある。
薩摩藩の蔵屋敷(すぐ裏が、海に面した砂浜で、薩摩から送られる米などが荷揚げされていた)があった所で、、慶応4年(1868)幕臣山岡鉄舟の斡旋で、幕府の陸軍総裁勝海舟と新政府参謀の西郷隆盛の会談が行われ、江戸城を無血開城を取り決めた。

鹿嶋神社と本芝公園
 石碑の脇を入ると左に寛永年間(1624〜43)の創建されたという御穂鹿嶋神社がある。
社殿前に嘉永5年(1852)の水鉢がある。
 その先が公園となっているが、芝雑魚場の跡で、沿岸で捕れる小魚、貝類などを扱う問屋があったという。

札の辻
 しばらく進むと札の辻交差点となり、右手-北に向かう道路の奥には東京タワーが見える。
 江戸の初め高札場が設けられていた所で、札の辻とよび、元和2年(1616)には江戸正面入り口として芝口門が建てられた。後に高札場は、南の高輪に移され、芝口門は、新橋北側に立て替えられた。(御門通り)
「元札の辻」と呼ばれていたが、明治維新後 「元」が略された。

元和キリシタン遺跡
 札の辻から100mほど行き、三田ツインビル手前の右側の丘に進むと階段の上にある。元和9年(1623)徳川家光が原主水他イエズス会の神父など50人のキリシタンを処刑したという。
その場所が東海道の入り口にある丘が選ばれたとあり、この地であろうと考えられるという。
寛永15年(1638)にも同じ場所で処刑があった。

御田八幡神社
 先の高輪郵便局の信号の手前の道を右に入る。
説明板によると、創建は古く、和同2年(709)に東国鎮護の神として創建されたという。 延長5年(927)にまとめられた「延喜式神明帳」(当時官社とされていた全国の神社の一覧)の稗田神社であると伝えられている。
のち源頼光の四天王のひとり渡辺綱の産土神として、綱八幡と称されたという。寛永5年(1621)現在地に移ったという。

高輪大木戸
 都営地下鉄泉岳寺駅手前の信号で、東海道線よりの歩道に渡ってから進むと、歩道を遮るように石垣がある。
説明板:高輪大木戸で享保9年(1724)に芝口門から移された。江戸の南の入口として道幅6間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は通行止めとして治安の維持と交通規制の機能を持っていた。天保2年(1831)には札の辻から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常磐橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。

願生寺
 第一京浜を挟んで向かい側にあるので、泉岳寺駅構内の地下道を渡り、泉岳寺信号の一つ前の道を右折すると正面が願生寺である。
 墓地に牛供養塔があり、門前に説明板がある。
江戸時代この辺りは車町といい、俗に牛町ともいい、江戸幕府が江戸城増築などの際の重量物の運搬のために京都から牛屋を招いて常駐させていた。塔の正面には、江戸中期の名僧祐天上人の「南無阿弥陀仏」の書が刻まれ、裏面に文政11年(1828)とあり、中段には慶応2年(1866)と刻まれている。

境内の地蔵堂の前には、石造の羊が1対ある。

泉岳寺
 交差点から西に坂を上って行くと泉岳寺である。
 慶長17年(1612)今川義元の菩提のために外桜田に建立され、その後寛永の大火(1641)により焼失、高輪に「移転してきた。その時、家光は毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じて復興を完成させた。浅野家とのつながりはこの時以来という。
当初より七堂伽藍を完備し、曹洞宗江戸三ヶ寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せてした、という。

高輪神社
 交差点から200mほど南の右手にある。室町中期の明応年間(1492〜1500)の創建という。
境内の狛犬の前に左右一個ずつの力石がある。ひとつは「奉納」『五拾八貫目」「芝伊皿子町 仁右衛門」・・・が刻まれた、長径80cm、短径46cm、厚さ28cmの安山岩という。

高輪海岸の石垣石
 すぐ先の桂坂への道の角に、石垣の石が展示されている。
高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたもので、主に相模湾岸から伊豆半島周辺で採石された安山岩という。
この広場には、高輪・芝車町・芝高輪北町を解説している説明板が立つ。

 品川駅前を過ぎた西側に、ビルに囲まれた高山神社がある。その先で第一京浜から左に分かれ、八ツ山橋で東海道線を渡る。
その先京浜急行の踏切手前に「東海道品川宿 まち歩きマップ」が掲示されており、ここから立会川までの街道の地図と見どころなど写真を入れて詳しい説明がある。

高山神社
  
 八ツ山橋(高輪方面を望む)      品川宿 マップ
   

品川宿
 踏切を渡るとすぐに旧東海道らしい道幅で町並みが続く。今までの景色が突然変わる。第一京浜は京浜急行の西を走り、海岸沿いには別の自動車道が走っているため, 車の往来も非常に少なく旧東海道の散策を楽しめる区間である。

 
 日本橋に最も近い宿場町で、甲州街道の内藤新宿、中山道の板橋宿、日光街道の千住宿と共に、江戸四宿(ししゅく)と呼ばれた。飯盛女という名目で遊女を置いてから、吉原の北国に対し、南国と呼ばれるほどの賑わいになったといわれる。当初、北宿:一心寺〜目黒川、南宿:目黒川〜天妙国寺)の二つだっだのが、八ツ山〜一心寺までの新町に新宿ができてから、旅籠の数は最盛期180軒に及んだという。(天保14年:本陣-1、脇本陣-1、旅籠-93、人口-6,890)

問答河岸跡
 商店街に入ってすぐ左角に石柱が立つ。
 3代将軍家光が東海寺(目黒川沿い・新馬場駅の西)を訪れ、この近くの河岸から帰る時に、沢庵和尚に「海近くしてとう(東)海寺とはこれいかに」と問い、「大軍のみを率いてもしょう(小)軍というがごとし」と答えたという。
この故事にちなんで問答河岸と呼ぶようになった。

旅籠:土蔵相模跡
 その先の4階建アパートの前に「歩行(かち)新宿」という石柱が立ち、その少し先に木札が立っている。
木札には、ここが旅籠屋を営む相模屋であり、外壁が土蔵のようななまこ壁だったので土蔵相模と呼ばれた、という説明がある。
「文久2年(1862)品川御殿山への英国公使館建設に際し、攘夷論者の高杉晋作や久坂玄端らは、この土蔵相模で密議をこらし、焼き討ちを実行した」という。

善福寺
 右に入る小道があり突
当りの山門をくぐると善福寺の本堂が現れる。
墓地には、万治元年(1657)造立の「念仏供養塔」がある。笠塔婆型の塔で、『南無阿弥陀佛』の六字名号が刻まれている。
説明文によると「都内外の数ある供養塔の中で、万治頃に造立された念仏講供養塔は数少ない」という。

一里塚跡
 左側の小公園の前に「品川宿 日本橋より二里 川崎宿へ二里半」という石柱が立っている。
一里塚があったというが、江戸中期にはすでになくなっていたという。

法禅寺
クリックすると拡大 右に入る小道があり突当りの山門をくぐると、至徳元年(1384)創建の善福寺の本堂がある。
 明治4年(1871)に建てられた流民叢塚碑が納骨堂の上に置かれている。天保4年(1833)も始まった飢饉でこの付近で891人がなくなり法禅寺には500人余りが埋葬されたという。
 隣の堂の中には、品川台場の築造の折りに御殿山から五輪塔・宝篋印塔とともに出土した板碑が置かれている。「最も古いのは徳治3年(1308)、最も新しいのは延徳2年(1490)の銘が確認される」という。
                         板碑の説明→

一心寺
 100mほど先の街道脇に一心寺の山門が立つ。
安政2年(1855)に井伊直弼が鎮護日本、開国条約、宿場町民の繁栄安泰を願って建立したと伝えられるという。
昭和になって成田山分身の不動明王を本尊とするようになり「品川の不動さま」として親しまれる。


養願寺
 向かいの細道の先に養願寺がある。正安元年(1299)の創建で、品川の虚空蔵様として親しまれている。
本堂には銅造阿弥陀如来立像が安置されており、善光寺本尊の模作のひとつであるが、鎌倉時代の制作と推定されるという。

門前から南に行くと新馬場北口通りで、4月7日の大祭のあとで、通りには品川 虚空菩薩ののぼりが数多く並んでいた。
 

品川神社
 北口通りから京浜急行の新馬場駅を過ぎて第一京浜を横切り、品川神社に行く。源頼朝が文治3年(1187)に海上安全の守護神として安房国の洲崎明神(館山市)の天比理乃当スを勧請して創建。寛永14年(1637)家光により東海寺が建立され、品川神社がその鎮守となった
 金網で覆われた文政13年(1830)の銘のある陶器の狛犬や、北品川宿の富士講により造られた明治2年(1869)の富士塚がある。
本陣跡
もとの街道にもどり、山手通りの手前左側に「品川宿 本陣跡(聖蹟公園)」の木札が立つ。
小道の奥に聖蹟公園があり、本陣があった所である。


品川橋
 山手通りを過ぎると、まもなく目黒川に架かる品川橋となる。
江戸時代には境橋とも呼ばれ、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境となっていた。
もとの目黒川の位置は今より北側を流れており(荏原神社の北)、橋から川の右側に見える荏原神社は、南品川宿の鎮守であるが、今の住所は北品川になっている。

荏原神社

 橋の西側に荏原神社がある。
品川神社は「北の天王様」といわれ、南品川の鎮守である荏原神社は「南の天王様」と言われたという。
和同2年(709)に藤原伊勢人が丹生川上神社(奈良県吉野)の分霊を迎えたのが始まりという。
康平5年(1062)源頼義・義家の父子は、奥州安倍貞任・宗任征伐に際し荏原神社に参詣し戦勝を祈願したという。
南品川宿
 南品川宿にはいり、宿の説明板(木札)が立つ。
ここから先の信号のある四つ角の左角に問屋場があったという。
先の右手には、「品川宿の松」がある。浜松市から寄贈された樹齢80年の黒松という。
同じように各地から寄贈された松が、街道沿いに植えられている。、

長徳寺 閻魔堂
 その先の小道を右に入ると、常行寺があり山門前に明治7年城南小学校発祥の地という石柱が立つ。

もう一本先の道を入ると長徳寺がある。寛正4年(1463)の創建という。本堂の隣に閻魔堂がある。木造の閻魔坐像が祀られている。

天妙国寺
 弘安8年(1285) 日蓮の直弟子 天目上人により創建され、室町時代には七堂伽藍を持ち、家康の江戸入りの際にここに宿泊したという。
江戸湊の船が目印にしたという五重塔は、慶長19年(1614)の台風で倒壊したという。
 墓地には剣術師 伊藤一刀斎の墓があるという。

釜屋跡
 信号のある四辻を過ぎ100mほど進むと品川寺の入口が見えてくる。その向かい側の手前のビルの前に「釜屋 跡」という小さな説明板が立っている。
 釜屋は南品川にあった建場(=立場)茶屋で、旅籠を兼ねていた。慶応3年(1867)の頃は幕末の世情を反映して幕府関係者が連日のように休んだり宿泊していたという。慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いに敗れた土方歳三をはじめとする新撰組隊士も一時滞在したという。

品川寺(ほんせんじ)
 釜屋跡の斜め向かいにあり、大同年間(806〜810)に開創されたとされるが詳細は不明。承応元年(1652)に弘尊上人が中興開山したという。
 
境内の大イチョウの前に、約2mの高さの自然石の台座に三猿が彫りこまれた庚申塔、その隣に寛政7年(1795)の庚申塔がある。
 



また山門前に大きな銅像地蔵菩薩像が安置されている。高さ2.75mで宝永5年(1708)に建てられ、街道を守る『江戸六地蔵』のひとつである。

<江戸六地蔵>
      1.品川寺 品川区南品川 東海道筋  宝永5年(1708)
      2.東禅寺 台東区浅草  奥州街道筋 宝永7年(1710)
      3.太宗寺 新宿区新宿  甲州街道筋 正徳2年(1712)
      4.眞性寺 豊島区巣鴨  中山街道筋 正徳4年(1714)
      5.霊厳寺 江東区白河  千葉街道筋 享保2年(1717)
      6.永代寺 江東区     消滅      享保5年(1720)

海雲寺
 品川寺の南側に、建長3年(1251)創建の海雲寺がある。
本堂の左側に、千体荒神王を祀る荒神堂がある。
 千体荒神王は火と水の神として、また台所の神として有名で、堂内には信徒の奉納による全部で27面の扁額が架けられいる。 
 
本堂前には、二体の地蔵が立ち、右側が平蔵地蔵で由来を記した石碑がある。
それによると 「江戸の末1860年頃、鈴ヶ森刑場の番人をしている乞食の平蔵が、ある日、多額の金を拾ったが、落とし主に返しお礼も断った。
他の二人の乞食が恨み、平蔵を小屋から追い出し凍死させてしまった。落とし主の侍はその場所に地蔵を建て供養した。その後、そこに電車が開通することになり、海雲寺の住職が引き取り境内に移し回向した」という。
 
 海雲寺の西側は京浜急行の青物横丁駅で、旧街道に戻り真っ直ぐ南下していくと約500m弱で鮫洲駅入口となる。商店街が途切れた先左側に 「花街道入口」という石柱があり左折して立ち寄った。勝島運河がある。 立会川駅に近くなると商店街では「若き日の龍馬がゆく 浜川砲台」」と書かれたバナーを掲げている。


  

立会川
  
 立会川に架かる橋が浜川橋で、ここから立会川の河口にかけて(今は勝島運河となっている)土佐藩の鮫洲抱屋敷があった。
この屋敷内には浜川砲台が築かれ、ペリーの2度目の来航の際には19才の龍馬も砲台要員として配置されていたという。

 浜川橋の手前を西に向かうと右側に小公園があり、坂本龍馬の銅像が立っている。
その脇にはには「坂本龍馬としながわ歴史マップ」という大きな掲示版が掲げられている。


 
 すぐ先が京浜急行の立会川駅で、本日の散策はここで終了とした。

 (以下は、2008年3月散策の記録である。)

浜川橋
 勝島運河に流れる立会川にかかる浜川橋を渡る。
慶安4年(1651)に鈴ヶ森刑場ができ、江戸から裸馬に乗せられて護送されてきた罪人を、その親族らがひそかに見送りにきてこの橋で涙を流しながら別れたということから、泪橋と名付けらたという。

天祖諏訪神社
 橋を渡ると鳥居がある。そこには天祖神社の名前があるが、昭和40年(1965)に立会川を挟んで南浜川の鎮守の天祖神社と北浜川鎮守の諏訪神社が合祀されたという。天祖神社は江戸時代以前は神明社と称し、すでに、建久年間(1190〜99)の『大井郷之図』にはその名が見えるという。
諏訪神社は寛永8年(1631)以前の創建という。

浜川神社
 その先の旧街道は両脇に住宅街となり、その東側奥には、しながわ区民公園がひろがっている。
  しばらく進むと右側にビルの2階に社の屋根が見えてくる。
天明の頃(1781〜89)に修験道寺院として厄神大権現を祀ったことからはじまり、明治維新後浜川神社と称したという。

鈴ヶ森刑場跡 と 大経寺
 しばらく行くと第一京浜に合流する手前の三角地帯に、大経寺と、その先に鈴ヶ森刑場跡がある。慶安4年(1651)に開設され、明治4年(1871)に廃止されるまで数多くの罪人が処刑され、南千住の小塚原、板橋とともに江戸時代の3大刑場といわれた。江戸への入り口といえる場所が選ばれたという。
 最初の処刑者は慶安事件の首謀者のひとり丸橋忠弥で(もう一人の首謀者:由比正雪は小塚原で処刑)、その後も平(白)井権八、天一坊、八百屋お七などが処刑された。
大経寺は、刑場が開設されてから堂宇が出来ていたらしく、その後文久2年(1862)から処刑者の供養を行うようになったのが始めという。

      
 
 実際に使われていた磔台や火炙台、首洗い井戸が今でも残されている。また、歌舞伎の舞台にも登場する「南無妙法蓮華経」の約3.2mの高さの題目碑など、多くの供養塔が立っている。題目碑の裏面には、「元文6年(1741)池上(本門寺)25世 日 」と上部に刻印され、真中には「元禄11年(1698)」と刻印されており、日の記した題目と思われるが、建てられた年は、元禄11年か元文6年か の意味が不明である。日(1681〜1753)を主体に考えると元文6年か?

第一京浜と合流
 鈴ヶ森刑場を過ぎて第一京浜国道と合流し当分の間交通量の多い道路わきを歩くことになる。

 大森海岸駅前の交差点を過ぎると、右側に磐井神社がある。

磐井神社
 
 説明板によると 「三大実録」(平安時代の歴史書で、901年成立。六国史の第六にあたるもの)によれば、貞観元年(859)当社を武州の八幡社の総社に定めたといわれる。また「延喜式神明帳」にも記載されている古社という。徳川の将軍家も参詣したという。
 打つと鈴のような音がするという『鈴石』や、烏の模様が浮き出た自然石である『烏石』が保管されているという。
境内には松下烏石の門人の寄進した江戸文人石碑群がある。
 
旧東海道は、平和島口の交差点から左に分岐する。ミハラ通りという名前でレンガ敷きで旧東海道の道幅が残されて、約1kmほど続き、ふたたび第一京浜と合流する。

大森神社
 大森神社は第一京浜の西側にあるので、ミハラ通りには入らずにそのまま南下する。
天正年間(1573-93)の創建という。この辺りは海で、黄金に輝く像が流れつき村人は畏れて沖へ3度流したが元の場所に戻ってきたので、社を建ててこの像を祀ったという。寄来明神と称したが、のち大森神社になったという。

ミハラ通り
 ミハラ通りに戻ってしばらく商店街を進む。旧東海道が残っているのは、大田区内ではこの通りと、六郷神社から先の一部だけとなった。

内川橋
 環七通りを過ぎてしばらく行くと内川橋となる。橋を越えると羽田方面へ進む「羽田道」の出発点で、歌舞伎にも出てくる「駿河屋」という旅籠があったので「するが通り」という名前が残されている。
 ・・・・お尋ねものの平井権八に幡隋院長兵衛が声をかける場面で、長兵衛は駿河屋の提灯を持っている。

 この付近には、3番目の一里塚があったとされる。元禄3年(1690)の東海道分間絵図に記録されている。

貴船(貴菅)神社
 旧東海道は、大森警察署前で第一京浜と合流する。
西側にわたり500mほどすすむと、小さい神社がある。
創建年代不詳。江戸時代、大森村のうち東海道に面した本宿の鎮守であったという。そのご、東海道を挟んだ菅原神社を合祀して、貴菅(きすが)神社と通称したという。

梅屋敷
 梅屋敷は、説明板によると、「北蒲田村の山本忠左衛門が和中散(道中の常備薬)の売薬所を開いた敷地内に、その子久三郎が文政の頃(1818〜29)梅の木数百本をはじめ花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたことに始まるという。12代徳川家慶が鷹狩の休み所にしたほどで、東海道の名所になったという。
 復元された里程標 『距日本橋三里十八丁 蒲田村 山本屋』がある。
 
 
 梅屋敷から国道をひたすら歩く。 
呑川を渡り、箱根駅伝で有名な京浜急行羽田線の踏切を過ぎ、環状八号線を越え、真っ直ぐに歩き続ける。
ようやく六郷神社の西から入る参道に到着する。

六郷神社


 西の参道には大きな六郷神社の説明板がある。
「天喜5年(1057)源頼義・義家親子がこの地の大杉に源氏の白旗を掲げて軍勢を募り、石清水八幡宮に武運長久を祈ったところ、士気大いにふるい前9年の役に勝利を収めたので、その分霊を勧請したのが六郷神社の始まりという。文治5年(1189)頼朝奥州平定の折り戦勝を祈り、梶原景時に命じて社殿を造営。天正19年(1591)家康は18石の朱印地を寄進、鷹狩の途中にも参詣したという。
 狛犬は、貞享2年(1685)奉納された区内で最も古い狛犬で一般の狛犬と異なり、胴体ずんぐり、扁平な鼻、尾は小さく上向きなど、ユーモラスで興味深い作品である。

旧東海道と一里塚
 六郷神社を過ぎると左側歩道が第一京浜と分岐しており、元和元年(1623)以降の東海道である。この辺りの少し先に4番目の一里塚が造られていたという。天保7年(1836)の江戸名所図会には神社南門前からの道と交差する付近に描かれている。

宝珠院
 一部残っている旧街道の反対側にある。
六郷神社別当寺であったが、明治の神仏分離令で分離した。

六郷土手
 第一京浜の北側、六郷土手の手前に北野天神があり、すでに訪れたところである。


 これで、当初六郷土手からスタートした東海道の散策が、日本橋からの旅とようやくつながったこととなった。
 
散策日  2010年4月9日
 日本橋-立会川
 2008年3月12日  立会川-六郷土手