金谷 - 掛川 

   地図→ 大井川~菊川  ②菊川~日坂
  日坂~掛川

 金谷からは、石畳の残る金谷坂・菊川坂を通り、その先で、古代から色々な物語の残る「小夜の中山」を進む。旧東海道の興味深いコースの一つである。

長光寺
 金谷駅から一里塚跡まで行き、ガードをくぐって、坂道を上る。
すぐに長光寺がある。正保元年(1644)創建という。
鐘楼の前に芭蕉の句碑が立つ。
野ざらし紀行で、大井川の近くで詠んだといわれ 
  『道のべの 木槿(むくげ)は馬に 
   食われけり』
とある。

不動橋
金谷駅の裏を過ぎるといよいよ坂が始まるが、そこに不動橋がある。江戸時代には「西入口土橋」「金谷大橋」と呼ばれて金谷宿の西の入口となっていた。長さ6間(約10m)、幅2間半(4.5m)の土橋で、3年ごとに修理や架け替えが行われたという。
 すぐ先に右に入る道には説明板が立ち、「最初の有料道路と言われる中山新道がここから
日坂の旧東海道まであった」という。

坂の景色:秋葉山常夜燈
 坂の途中には古い石垣が続き、左側には秋葉山常夜燈があり、その先で国道を横切って東海道石畳入口となる。
 そこから金谷宿方面を振返ると、昔の街道の様子がよくわかる。
遠い先-大井川の先の山裾には東名高速が走る。

石畳(1)
 すぐに石畳が始まる。説明板によれば、金谷峠の坂道を山石を敷き並べたもので、30mを残すのみですべてコンクリートなどで舗装されていたが、平成にはいってから延長約430mの石畳が復元されたという。
東海道には、他に箱根の石畳があるのみ。

鶏頭塚と庚申堂
 すぐさきの右側に小公園があり、延命地蔵尊の隣に鶏頭塚が立っている。江戸時代の俳人 六々庵巴静の句「曙も夕暮ぐれもなし鶏頭華」の句が自然石に刻まれている。金谷の門人が徳を慕って立てたという
奥に小さな庚申堂がある。
昔 日本左衛門が夜の働きに出るときに着替えの場所としたという言い伝えが残っているという。


 脇に、三猿が正面真中に彫られている庚申塔がある。年代不明。

石畳(2)とすべらず地蔵
 さらに上ると、「六角堂」があり、すべらず地蔵尊が祀られている。
平成3年(1991)に、舗装から石畳に復元したのを機に、金谷町民が滑らない石畳にちなんで、寄贈したという。
受験生が多く参拝にくるという。

茶畑
 石畳を上りきる旧東海道は右へ進む.
その前に左手の牧之原台地に広がる、左に行き茶畑を見る。
大政奉還ののち静岡に押し込められた旧幕臣たちの殖産興業の一つとして考え出されたのが牧之原台地の開拓と茶の生産であったという。
 道路わきには、芭蕉の句碑や、馬頭観音が安置されている祠もある。

諏訪原城址
 台地上を西へ進む。集落が並び始めてすぐ右に、民家の間に右へ入る小路があり、奥に大手口の立て札がある。諏訪原城址である。
天正元年(1573)武田勝頼が家臣、馬場氏勝に命じて築城した扇状の形をした山城で、武田氏の守護神である諏訪明神が祀られている。空堀・井戸など9割の遺構が完全な形で残されているという。

菊川坂石畳
 車道を越えると、石畳入口となり、ここからから菊川坂の下りが始まる。この石畳は、発掘調査では江戸時代後期のものと確認され、長さは380間(約690m)あったといわれている。
今は161mが残っている。

菊川の里
 石畳を下った所から、菊川の里が始まる。
菊川の里は吾妻鏡の建久元年(1190)頼朝の上洛の記事に「十三日甲午於遠江国菊河宿・・」の初めて出てくるという。

中納言藤原宗之の墓
 すぐ先に法音寺への小路があり、門の前を過ぎて坂を上り国道の下をくぐって山道を進むと、「宗行卿之塚」の石碑と説明板がある。
承久3年(1221)後鳥羽上皇による承久の乱で鎌倉幕府に捕えられた中納言藤原宗行が鎌倉に送られる途中ここで漢詩を残している。数日後、藍沢原(御殿場)で処刑された。 塚は、文久3年(1863)に中世に築かれたといわれる墳墓の遺構に建立されたものという。

 「昔は南陽県の菊水下流を汲みて齢を延ぶ
  今は東海道の菊川西岸に宿りて命を失う」

 その後、元弘元年(1331)後醍醐天皇による元弘の変で捕えられ、鎌倉に護送される日野俊基が宗行を想って詠んだ歌が残る。
  「古も かかるためしを 菊河の
   おなじ流れに 身をや しづめん」
道標
 元の道に戻り、すぐ先の橋の手前に左から合流する道があり、その角に道標が立つ。
遠江33ヶ所観音巡りの岩松寺への道標で、上部が補修されている。
その先の橋をわたると、間の宿菊川に入る。金谷宿と次の日坂宿(にっさか)との間は距離は短いが急所・難所が続くため、間の宿「菊川」が設けられた。

秋葉山灯籠
 しばらく行くと鉄製の灯籠がおかれている祠があり、その先の公民館の広場には、間の宿菊川の説明板等がたっている。 

向かいの建物の壁に大きく鍛冶の様子の絵がかかれており、矢の根(やじり)鍛冶の屋敷跡という。

四郡橋(よごおりばし)から青木坂へ
 少し先で、旧東海道は小さな橋を渡った先を左折する。そこには、小さな石柱があり、ここが4つの郡(榛原郡・山名郡・城東郡・佐野郡)の境になっていることを示している。
ここから、車道を越えて、急な青木坂をのぼる。左手の山の斜面には茶畑が広がる。


小夜の中山 歌碑
 坂を上りきる手前に大きな歌碑がある。ここから日坂宿の手前までの道の両側に多くの歌碑が立ち、現代語訳もあり台地上の散策を楽しませてくれる。
十六夜日記にある阿仏尼の歌で、
 「雲かかる さやの中山越えぬとは 都に告げよ有明の月」

・・・・雲のかかる佐夜の中山を越えたと、都の子供らに伝えておくれ、有明の月よ

接待茶屋跡
 坂を上りきると左手に広場があり、接待茶屋跡の石碑がある。。鎌倉時代・永仁年間(1300年頃)から旅人に無料で茶などを接待していたという。 
芭蕉の「馬にねて 残夢月遠し 茶のけむり」の句もこの辺りで詠まれたものであろうとしている。


久延寺
 向かい側には、久延寺がある。、
奈良時代の天平年間、行基の開基と伝わるが、詳細は不明。
境内に夜泣き石が置かれている。説明板には、滝沢馬琴の物語が紹介されている。右奥には、慶長5年(1600)当時の掛川城主の山内一豊が、境内に茶亭を設けて、大阪から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなしたという、茶亭跡の石碑がある。
その後一豊は関ヶ原の合戦後、功績を認められ土佐24万石に栄転することになった。
  <夜泣き石>                <茶亭跡>
 

夜泣石の伝説
クリックすると拡大 久延寺の「夜泣き石」の他に、今回はスキップしたが、ここから北の方向にあたる国道1号線の日坂バイパス沿いの「小泉屋」の裏にも「夜泣き石」がある。
遠州の七不思議といわれ、広重の「日坂・佐代ノ中山」の絵にも描かれており、昔からの伝説が伝わっている。

 「ある日久延寺に安産のお参りに来た帰りに妊婦が丸い石で休んでいたところ、山賊が切りつけ金を奪った。妊婦は殺されたが、赤子は無事で、丸い石が助けを求め泣きだす声に久延寺の僧が気づき、下まで降りて赤子を助けた。 その後、成長して刀の砥師になった時に、一人の侍が依頼に来て、刃こぼれの由来を聞いて母を殺したことが分かり、亡き母を弔ったという話で、別の話では、仇として恨みを晴らしたという伝えもあるという。」

のち滝沢馬琴の「石言遺響(せきげんいきょう)」に仇討の物語となっている。

 坂の途中にあった夜泣石は、明治初めに東京の博覧会に出品された後、小泉屋の現在位置に置かれており、久延寺にあるのは、妊婦を弔うために供養塔として置かれていたものという。

茶屋 末広荘 扇屋
 久延寺の隣に、宝永年間(1704~11)の開業と言われる茶屋で、江戸後期の建物という。周辺には20数軒の茶屋があったが、今はこの一軒のみが残る。
夜泣石の小泉屋も、中山新道開通後ここから峠の下に移転したという。
 左手に50mほど入ると、久延寺の茶亭で接待した時、水を汲んだ井戸が残る。

小夜の中山公園
 すぐ先にある公園に大きな歌碑があり、西行の歌が掲げられている。   「年たけて
          また越ゆべしとおもひきや
              命なりけり さやの中山」
「文治元年(1186)西行が69歳の時、重源上人の依頼により東大寺の砂金勧進のため奥州の藤原秀平を訪れる途中、人生二度目の中山越えに、人生の感慨をしみじみと歌ったものである。」という。
         

経塚
 
 公園脇の坂を上がると、久延寺の経塚、五輪塔などがあり、頂上には新しいモニュメントがあって、眺望がすばらしい。

佐夜鹿(さよしか)一里塚
 緩い下り坂となりしばらく行くと左に一里塚の跡が整備されている。
説明板によると、元禄3年(1690)の「東海道分間絵図」絵図では、日坂宿まで52里30町で、ここは52里に相当するが、天保14年(1843)の記録では日坂宿まで54里26町、小夜の中山まで54里2町なので、54里に相当するという。

神明神社
 しばらく行くと、左側に鳥居がたち、奥に小さなひっそりとたたずむ神明神社がある。そこから、小夜の公園方向を眺める。
茶畑の奥に、頂上近くに建つNTTの塔がそびえ、ここだけが現代を感じさせる。

鎧塚
 両側に茶畑が続き、所々に小さな林が点在する。左側の林の前に鎧塚の標識が立ち、数段上がると、塚と小さな石柱がある。
建武2年(1335)、鎌倉幕府を再建しようとした北条時行が起こした「中先代の乱」のおり、時行の一族、名越太郎邦時が京へ上ろうとして、この地で足利一族に今川頼国と戦い討ち死にした。頼国は名越邦時の武勇をたたえ、ここに塚を造って葬ったという。

白山神社と道の風景
 その先には小さな祠の白山神社がある。



 この先にある馬頭観音の石塔と妊婦の墓にちなんで、夜泣石伝説のもとになったという代表的な話が、次の月小夜姫・小石姫のものである。

 「小夜の中山の怪鳥・蛇身鳥を退治に来た藤原良政が、この地で月小夜姫と出会い、二人に間に小石姫が生まれた。小石姫は家臣とひそかに婚約していたが果たされずに、悲嘆に暮れて自害した。姫の霊がその場に立つ松に宿り、旅人に悲しみを語ったことから夜泣松と呼ばれた。のちに松の皮をいぶした煙が子供の夜泣きに効果があると伝えられ、松は枯れてしまった。人々は松のあった場所に丸い石を置き、孕み石と呼んだ。
東海道の路上にあった丸い石が、孕み石と夜泣き松の伝承と結び付いて、夜泣石の伝説が生まれたともいわれる。」

馬頭観世音

妊婦の墓
 左側にある馬頭観世音は、蛇身鳥退治に京の都から来た良政が乗って来た愛馬を葬った所とされている。
 すぐ先の10mほど茶畑の中に入った所には、妊婦の墓と説明板がある・・・・松の根元で自害した妊婦小石姫を葬ったところで、墓碑に「往古懐妊女夜泣松三界万霊・・・旧跡」と刻してある。

夜泣石跡
 緩やかな坂を下っていくと、左の奥まった所に石碑がひっそりと立っている。
妊婦の霊魂が移り泣いたという石-夜泣石-が明治元年までこの道の中央にあったが、明治天皇東幸の折り、道端に寄せられたという場所である。
その後、明治初め東京の博覧会に出品されたがここに戻されることはなく、久延寺の近くにあった小泉屋が引き取り、現在の地に安置したという。
 
しばらく行くと、急な坂道を下る。 急なカーブで、「二の曲り」といわれ「沓掛」という地名になったという、説明板が立つ。途中には「日乃坂神社」があり、更に坂を下っていく。
    

秋葉山常夜燈
 右に進んで国道一号線バイパスの高架下をくぐる。すぐに広い車道を横切るが、金谷宿の西からできた中山新道の終点という。
 すぐに秋葉常夜燈がある。安政5年(1856)の建立であったが、老朽化したため平成10年に復元したものという。日坂宿には合計3基の常夜燈が立っていたという。横に日坂宿の大きな説明板が立つ。
延慶3年(1310)には「日坂宿」の記述があるという。

天保14年(1843)の記録では、家数168軒、人口750人で、本陣1、脇本陣1、旅籠屋33軒という。
本陣跡 扇屋
クリックすると拡大 宿場の東西は6町半(約700m)といい、町並みはいまもあまり変わっていないという。
本陣の敷地は約350坪、建坪220坪といい、嘉永5年(1852)の日坂宿の大火で全焼したという。
街道の民家には当時の屋号を記した木札が架けられている。

宿場の風景
  問屋場跡 池田屋                     脇本陣「黒田屋」跡
   
  商家「藤文」:最後の問屋役    萬屋:安政年間(1854~59)に再建、 庶民が利用した旅籠  
  

旅籠 川坂屋
 萬屋の斜め向かい、宿の西のはずれにある。寛政年間(1789~1800)の創業といわれ、日坂の大火後に再建され、床の間付きの「上段の間」があり、身分の高い武士や公家なども利用した格の高い旅籠屋であった。土曜日だったため、内部を案内してもらった。
細かな格子、精巧な木組みで、山岡鉄舟の襖の書などがあり、また葛布を使用した襖が興味深い。**


明治元年(1868)に掛川城主から拝領した「元掛川 偕楽園茶室」が、母屋の北側に復元されている

←上段の間

 
    偕楽園茶室→

秋葉山常夜燈
 **葛布(くずふ・かっぷ)
・・・葛のつるからとった繊維で織りあげた布で、鎌倉時代から武士の乗馬袴地に用いられ、江戸時代には掛川の特産品として裃地や道中合羽などに珍重されたという。明治に入ってからは襖地として好評を得たという。
 

川坂屋の斜め向かいに相伝寺があり、観音堂への入口に秋葉常夜燈が立つ。天保10年(1839)の建立。

下木戸高札場
 その西に、復元された天保年間の高札八枚が掲示されている高札場がある。日坂宿は幕領であったため公儀御法度(幕府法)が中心であったという。説明板によると、正徳元年(1711)に設けられてこの時の高札5枚(親子・切支丹・火付・伝馬・毒薬)は幕末まで続いた。
慶応4年(1868)太政官布告により、新たな高札(五傍の掲示)が掲げられた。その後明治6年(1873)撤去された。

下木戸跡
 すぐ先に逆川(さかがわ)が流れ、そこに架かる古宮橋の手前に、西の入り口である「下木戸」があった。その先左には、書家 成瀬大域の生家がある。更に進むと、右から合流してくる道に入ったところに、若宮神社の鳥居があり、脇に秋葉常夜燈が立つ。
弘化2年(1845)建立で日坂宿で3基目の常夜燈である。


事任八幡宮(ことのまま)
 しばらく進むと県道415号に合流し、歩道橋を渡ると、、広い境内の事任八幡宮がある。創立は不詳、大同2年(807)坂上田村麻呂東征の際、北側にある旧社地から現地に移転したという。延喜式(927)神名帳には佐野郡己等乃麻知(ことのまち)神社とある。
康平5年(1062)源頼義が石清水八幡宮を勧請し八幡宮と称した、という。拝殿右には樹齢1000年といわれる大杉がある。

道標
 そこからは、南に向けてひたすら歩く。掛川バイパスの高架をくぐると国道1号線となり、すぐに、旧東海道は国道から左へ分岐する。
約300mほど進むと、伊達方萩田食品店前のバス停手前の道の角に道標が立つ。
「福天権現本(道)」とあり、寛保2年(1742)と刻まれており、ここから南約2kmの龍雲寺の境内ある福天権現への道標という。

伊達方一里塚跡
 すぐ先の右側に伊達方一里塚が復元されている。当時塚の大きさは直径7間(12.7m)高さ3間(5.5m)の小山で一里山と言われ、明治33年(1900)ごろ取り壊されたという。
その先には、歌人石川依平出生地の石柱があり、また寛政7年(1795)銘、安政3年(1856)再建と刻まれた秋葉山常夜燈が立つ。

諏訪神社
 100mほど先で、国道1号と合流に、諏訪神社の所で左に分岐する。300mほど進むと再び国道1号に合流する。
その後は、広く整備された国道をひたすら西に向かう。

鞍骨の池
 数百m先の千羽交差点から、東海道を離れ300mほど南に寄り道する。
信号の先に説明板があるが、昔はこの2倍ほどあったという「鞍骨の池」で、蓮が池一面を覆っている。文明6年(1474)遠江今川氏6代今川貞延は、駿河今川氏の今川義忠と共に横地氏・勝間田氏を攻めたが貞延は牛頭村で討たれこの池の畔に埋められた、という。

馬頭観音
 元の交差点に戻り、国道1号の歩道を西にすすむと、逆川と接する交差点となり、旧東海道はここから左に分岐する。道路わきに馬頭観音を納めた祠が立っている。
ここから先は国道1号が北側を並行して走っているため、交通量は少なく快適な道のりである。
 
しばらくいくと、JA掛川西山口支所の右前に、柵に囲われた道標が立っている。

道標
 「大頭龍大権現」と「福天大権現」「従是川崎道行程六里」と刻まれている。
先ほど見た伊達方一里塚の近くにあった「福天大権現への道標」が寛保2年(111)と刻まれているので、ほぼ同年代のものと思われるという。
大頭龍大権現は瑞雲寺よりさらに南にある大頭龍神社のことである。
元の位置は10mほど東寄りで、川崎街道の起点となっている。

葛川一里塚
 馬喰橋で逆川を渡る。江戸時代は土橋で長さ23間(41.8m)であったという。
左の小公園に葛川一里塚跡がある。「江戸より56里3丁余」「京都より69里1丁余」と刻まれている石柱が立つ。 横に掛川市内案内図があり、これから進む「七曲り」が確認できる。
向かいには、街道の茶店だったという「もちや」がある。 

七曲りへ
 橋から300m弱で東伝寺入口バス停があり、(その先で道は緩やかに右にカーブしており、この辺りは拡張工事中)すぐ先を左に入るのが、東海道の七曲りの入り口である。
 100mほどで右折し、東伝寺の参道前を過ぎると、昭和3年(1928)の秋葉常夜燈があり、そこを左折する。

←東伝寺

塩の道
 突当りを右折するとすぐに、南-JRの線路-に行く細道があり、クリックして拡大角に「秋葉道・塩の道」のプレートがある。そのまま西に向かって100mほど進み、右折すると、大きく「塩の道」と書かれた新しい道標がある。
御前崎のすぐ北の相良の塩を信州まで運ぶ道として、古くから使われていたという。
また秋葉街道とも呼ばれ、秋葉神社への信仰の道としても栄えたたという。

東番所跡
 直ぐ先に東番所跡と七曲りの説明板がある。
この付近に東町口の番所と木戸が置かれたという。
掛川宿は、天保14年(1843)のデータでは、本陣2、旅籠30、人口3,443という。
角を曲がると、東伝寺入口バス停から続く広い道に出て、左折し100mほど進んで右折し、その先で左折していく。
片側アーケードのある街並みとなる。

天然寺
 少し寄り道して仁藤町の交差点を北に向かと天然寺がある。塀の西側に、オランダ人で江戸使節団の一員で寛政10年(1798)に掛川宿でなくなったケイスベルト・ヘンミィの墓がある。蒲鉾型の石碑を伏せた型である。
(オランダ商館の将軍拝謁は、寛永10年(1633)から毎年、寛政2年(1790)から4年に一回行われてきた。)

大手門と番所
 元に戻り、商店街を進んで次の交差点を右折すると次の交差点奥に復元された掛川城大手門がある。
その内側に番所がある。嘉永7年(1854)の大地震後、安政6年(1859)に再建されたもので、大手門復元時、ここに移築されたという。

その裏に 三光稲荷がある。山内一豊が伏見桃山城の築城に加わった延で、伏見稲荷を勧請したという。

←稲荷からみた逆川と掛川城
         本陣跡→
 東海道の通る交差点に戻り、商店街を少し行くと、右側パーキングの隅に本陣跡の説明板がある。

掛川城 <天主閣>

 <二の丸御殿>

 蓮雀西交差点を右折し、掛川城公園に入る。
掛川城は、文明年間(1469~86)頃、今川氏の家臣が掛川古城を築いたのが始まりで、永正10年(1513)現在地に移り今川氏の遠江支配の拠点となった。永禄12年(1569)徳川家康が立て籠る今川氏真を攻め、和睦により開城させた。天正18年(1590)の全国平定後、掛川城には山内一豊が入った。一豊は城の整備と天守閣を造り、その後、松平、大田など徳川譜代の大名が続いた。嘉永7年(1854)の大地震により天守格は倒壊、明治2年(1869)廃城となった。天守閣は平成6年(1994)再建された。
                   霧吹き井戸→


 ←二の丸御殿
大地震後、安政2年(1855)から文久元年(1861)にかけて再建され、現存する城郭御殿としては二条城など全国でも4か所しかないという。

蓮雀西交差点
 交差点から西に続く旧東海道街並み。

まだ少し時間が早かったが、これから先 袋井までは距離がありすぎるためここまでとし、、ここから約300m南の掛川駅まで行った。
 掛川駅の北口は、1940年建築の木造駅舎で、新幹線停車駅では木造を持つ唯一の駅という。
 散策日 2010年10月16日    金谷駅-掛川駅
 参考
 「東海道五十三次を歩く」3     児玉幸多 監修