掛川 - 見付(磐田) 

   地図①日坂~掛川 ②掛川~袋井  ③袋井~三ヶ野
 
④三ヶ野~磐田

 旧東海道の「ど真中」と言われる袋井宿を通る。

西蓮雀交差点から西へ
 掛川駅から西蓮雀交差点まで行き、旧東海道を西に向かう。次の角には清水銀行の建物があり、壁に掛川城主の山内一豊の妻の千代がひそかに蓄えた金で名馬を購入したという逸話にかかわる「浮き彫刻」がある。
円満寺の山門
 しばらく行くと円満寺の山門がある。この門は掛川城の内堀に建てられていた「蕗の門」で、明治5年(1872)廃城後、円満寺が買い付けて、柱の下を2尺5寸切り取って山門にしたという。
←藩主太田田氏の家紋=桔梗紋のある軒瓦

少し先に小さな川があり、十王橋をわたる。
この付近に掛川宿の西番所があったという。

十王堂
 橋を渡った所で、左に行き、最初の角を右折すると十王区公会堂があり裏に十王堂がある。
慶安元年(1648)に時の掛川城主北条氏重が建立したという。本尊は地蔵菩薩で左右に十王が列していたという。
この堂は、大正10年(1921)再建されたもの。


東光寺
 しばらく進み道が大きく右へカーブする所で川沿いの道を右に入る。
説明板のよれば、起源は養老年間(717~23)行基が開基した真言宗の草庵だったが、平将門の乱の後、将門ら19人の首を葬った時に将門寺とし、その後曹洞宗東光寺に改宗した。
本堂右に成田山不動堂がある。

十九首塚
 平将門は承平5年(935)領地をめぐる一族の内紛を契機に、中央政府の出先機関である国府を襲撃し自ら「新皇」と名乗って反乱を企てたが、天慶3年(940)平貞盛、藤原秀郷により鎮圧された。秀郷は19人の首級を持ち掛川の宿まで来て、京からの勅使とこの地で出会い検視を受けた。秀郷は19の首を別々に埋葬し供養した。その後のここにまとめて移された。地名の由来も19の首塚があったということから十九首町と呼ぶようになった。という、詳細な説明板が立っている。

大池橋
 旧東海道は西北に向かい、逆川を越えて国道1号に出て西にむかう。その先の大池橋を越えたところに「大池橋と秋葉街道」の説明板がある。
『大池橋<長さ29間(約52m)の土橋>を渡ると正面に青銅の鳥居と常夜燈が立っており(いずれも倒壊)、秋葉山へ通じる街道の入り口であった。東海道はここから左に向かった。』

       交差点のすぐ先にある秋葉山遙拝所→
 鳥居の前には自然石に彫った「右あきば社・・」という道標がある。

芭蕉天神
 橋から200mほど行った先で左折すると、「芭蕉天満宮」と書かれた説明板がある。
嘉永4年(1851)建立。平成20年新築。
大池村の富士講の人々が浅間大社への帰路、大晦日部落の芭蕉天満宮より勧請し、祀ったという。
 
天竜浜名湖鉄道のガードをくぐった先、数百mの間の両側に神社と寺が並ぶ。

白山神社

宗心寺               津島神社
    

大池一里塚  蓮祐寺
 次の信号のある交差点の角に蓮祐寺があり、門前に大池一里塚跡の標識がある。
昭和25年の建立の題目塔があり、一里塚万霊供養と刻まれている。

 ここからは松並木を過ぎるとゆったりしたカーブを西に進む。途中左側に逆川の土手が迫ってくる。日坂宿の下木戸の出口で渡って以来、ここまでずっと逆川の流れに沿って、同じ方向に歩いてきた訳である。

松並木

逆川                  曽我鶴
 

善光寺橋
 掛川バイパスの下をくぐり、東名高速のガードをくぐると松並木の名残があり、その先で善光寺橋となる。


少し先に地蔵尊を安置した祠が立ち、その先に石段が続いている。
上ると善光寺と、そのすぐ右に仲道寺が並んで建っている。

善光寺

仲道寺
  延暦9年(790)奥州に向かう坂上田村麻呂が持参した阿弥陀仏を安置したのが善光寺と言い伝えられている。
仲道寺は、享保18年(1733)に堂を建立、京と江戸まで測量した所、ちょうど真ん中にあったため、寺名が付いたという。

原川松並木 と 間の宿原川

<金西寺>
 直ぐ先の椎の木茶屋から松並木が並ぶ。
並木が終わった右側には、自然石の道標が立つ。
「従是北和田岡村」大正4年(1915)和田岡村青年会とある。

 その先には金西寺があり、説明板で本尊の薬師瑠璃光如来の由来が詳細に解説されている。
原川は、掛川宿まで1里18町(約6km)、袋井宿まで33町(約3.3km)の位置にあり、戸数は46軒という記録があり、原川薬師と呼ばれた金西寺への参拝や茶店で賑わっていたという。

 この先で国道1号の下をくぐり、同心橋の左側歩道で橋をわたる。
袋井市に入る。

名栗の立場
クリックして拡大 国道から左に下りると、小公園-花茣蓙(ござ)公園があり、立場の説明板と袋井宿迄の案内図がある。
この付近に、名栗の立場があり、また花茣蓙が名産品として有名だったという。
 北西一帯には、坂尻遺跡があり、このあたりは奈良時代の郡家(郡役所)や駅家が置かれ交通の要所であったという。

袋井松並木
 まもなく松並木が始まる。
説明板がたち、『東海道宿村大概帳』には「掛川宿より袋井宿迄之間往還通並木」と記されている。今は名栗から久津部の間に残されているという。
しばらくの間、両側の根元を土盛りし、、その右側に歩道がある松並木が続く。今までの旧東海道では見られなかった風景である。

富士浅間宮 大鳥居
 右側は工場群が続くが、途中建物が途切れるところで、大きな鳥居が現れる。ここから北約800mの富士浅間宮の赤鳥居である。
神社は大同年間(86~10)坂上田村麻呂が浅間大社より分霊して創建という。本殿は天正18年(1590)の建立という。
本日の行程では往復の時間的余裕がないので、参拝するのはあきらめざるをえなかった。


妙日寺
 松並木が終わると、妙日寺の長いい参道が左に現れる。正慶元年(1332)、日蓮上人の父祖代々の邸宅跡に創建されたと伝えられる。
境内奥には日蓮上人の両親の供養塔が立つ。
正保3年(1646)に柳生但馬守宗則が寄進した五輪塔という。
日蓮の父は貫名(ぬきな)重忠(戒名 妙日尊儀)といい、源平争乱で平家に組し平家滅亡後所領を追われ安房国に移り、日蓮が生まれた。

久津部一里塚
 隣の袋井東小学校の道路側に一里塚の跡に塚ができている。
道路の向かい側には鉄柱が立ち、右の塚は3間(5.5m)奥にあったという
小学校の校門には「東海道五十三次 どまん中東小学校」という大きな表札が掛かっている。

遠州三山への道標
 
 この先数か所の角に、油山寺、法多山、可睡三尺坊道などと刻まれた石柱や自然石の道標がある。
北側に、「医王山 油山寺」、 「萬松山 可睡斎(秋葉総本殿三尺坊大権現)」、 南側に「法多山 尊永寺」があり、遠州の三古刹と呼ばれ、厄除け、眼病治療など参拝者が多く訪れているという。

<油山寺道標> 右側 
   
<法多山道標>左               <可睡三尺坊道>七ツ森神社の先

用行義塾跡
  袋井東小から100mほど先の右に入る広い道の先に、広場と説明板がある。「学制」が発布される1年前の明治5年(1872)民間の有志が共同出資して設立した袋井で最初の近代教育を行う郷学校と言われた学校という。

七ツ森神社
 再び松並木が現れ、右側に神社がある。
創建不詳、昔は郡辺神社といわれ、延喜式神明帳にも記載のある神社。
説明板には、七つの塚(森)の伝えとして、日坂宿の怪鳥を退治する武士の伝説が記されている。
 
 参道入り口の木柱に本殿裏から戦国時代の城跡、久野城がきれいに見えるとあったが、住宅と高架道路のためよく見えず。

秋葉山常夜灯
 新屋の交差点で広い車道と合流後直ぐに南西に向かう。
右側に木造の常夜灯がたつ。
市内には石で造られた灯籠形と、木造の屋形の常夜灯が合計14基現存しているという。ここの常夜灯は保存状態が大変よく、見事な彫刻が施されている。

袋井宿入口
 まもなく市役所の前の道に突当り、左折して次の十字路を右折する。石柱や説明板がある。直ぐ先が天橋(あまばし)で、袋井宿の東の入り口に架かっていた土橋であった。東海道は慶長6年(1601)にほとんどの宿駅が設置されたが、袋井宿は比較的距離のあった掛川と見付の中間の宿駅として、元和2年(1616)に開かれた。
天保14年(1843)のデータでは、町並みは5町15間(約570m)、本陣3、旅籠50、人口843という。
 天橋を渡ると小公園の中に茶店風の観光案内所がある。旧東海道はその先を右に行く。

白髪神社
 200mほど先右側に鳥居があり、参道奥の道路を越えて、社殿がある。
創建不詳。正徳5年(1715)現在地に移転、嘉永元年(1848)本殿建立という。(一間社流造り)

東本陣跡
 直ぐ先に東本陣跡が公園として整備されている。
代々八郎左衛門を名乗る田代家が営み、問屋場の最高責任者も勤めていた。敷地1,068坪、建坪288坪という。
宿場開設2年後から17年間の宿帳が残り、その利用状況の説明や当時の利用手続きや、経営について記されている説明板があり、非常に興味深いものであった。
 この先に、中本陣、西本陣、問屋場跡などが書かれている鉄柱がそれぞれ立っている。

高札場跡 (西側の御幸橋から高札場跡、宿場の町並みを振り返ったところ)
 川の手前右に高札場があったというが、今は左手の公園に高札場風の説明板として復元され、石垣で補強された土手の内側に桝形(宿の警護所)があったといい、土塁が一部復元されている。
散歩の人が古い常夜灯があると教えてくれた。川沿い南に行くと、柵で囲まれた寛政12年(1800)のもので、標柱もある。

寺澤家長屋門  
 橋の先は川井地区となり、信号のある交差点の手前に明治天皇小休所跡の碑があり、すぐ先に川井地区史蹟一覧と案内板が立っている。先に進むと、右側に明治元年(1868)の築の寺澤家長屋門がある。
 川井交差点で広い車道に合流し、しばらく進んで松橋を過ぎたところで、右折する。西一里塚へという新しい標識が立つ。

木原一里塚
 二つ目の四辻の手前60mの右側の民家の脇に、文字が薄くなった鉄柱が立ち、木原一里塚跡とようやく読める。ここが本来の塚の場所で、その先四辻の角に、復元された一里塚がある。

 塚の反対側に、木原畷古戦場400mという標識があり、寄り道をする。
元亀3年(1572)鷲巣の久野城を攻めた武田信玄は、ここ木原に陣をはり、浜松城を守る徳川家康と衝突した。信玄側が勝利したが翌年信玄が没し、天正3年(1575)長篠の戦い後、家康方が優勢となった。

木原畷古戦場跡と笹田源吾の墓
 その後、天正6年(1578)頃には、武田方は高天神城だけとなり、武田勝頼は笹田源吾を偵察に出したが、 この地で村人に討ち取られた。
その後村人たちに疫病や災害が続いたため、地蔵が建てられたという。

許禰神社(こね)

 もとに戻って直ぐ先に許禰(こね)神社がある。
大宝2年(702)熊野権現を勧請し、延喜式神明帳にも記されており、木原権現ともよばれた。境内入口付近に家康腰掛石があり、関ヶ原の戦いの勝利祈願のため訪れた折り、腰かけた石という。

長命寺
 左に長命寺があり、天文元年(1532)開創といい、笹田源吾の供養塔がある。
享保17年(1732)建立された六道地蔵尊がある。→

この先で直ぐ広い車道と合流する。

三ヶ野

まもなく三ヶ野のバス停を過ぎるが、この辺りに高札場があったという。その先、三ヶ野橋で大田川を渡る。
    

三ヶ野坂を上り、台地へ・・・七つの道

 三ヶ野橋を過ぎてから広い車道は袋井バイパスに合流するが、旧東海道は左に分かれる。
松並木を過ぎ、西に広がる磐田原台地に上って行く。
坂道が始まると、最初に「大正の道」が右に分かれる。そのまま進むと左に「明治の道」の石碑が立つ。
その先で「江戸の古道」が左へ急な坂となって上る。
坂をのぼると、三叉路となり、頂上の大日堂へ向かう道があり、また、東方面から「鎌倉の古道」が上って来ている。
松並木 江戸の古道                 鎌倉の古道
   

大日堂
 少し行くと大日山の頂上(標高38m)で堂や石仏がある。元亀3年(1572)の木原畷の戦いのとき、家康方の本多平八郎忠勝はこの高台から武田軍の様子をうかがったという。

      三ヶ野橋・大田川方面の眺め→

道標
 三叉路から西に向かう。右から明治の道が上ってくる十字路があり、角に、道標と「車井戸之跡」の石碑が立つ。
道標は「従是鎌田山薬師道」とあり鎌田山醫王寺への道で、弘化4年(1847)建立。井戸跡の石碑は新しいが、ここでは昔は井戸がなかったため、弘化4年(1847)醫王寺によって井戸が掘られ、滑車で汲み上げたため車井戸と呼ばれたという。

立場茶屋跡
 西に向かうと、右の民家の前に「三ヶ野立場」と書かれた小さな木札がある。
台地上をしばらく行き、その後は下り坂となる。

磐田原松並木と遠州鈴ケ森
 その先で緩い上り坂となり、松並木となる。国道1号と合流し、歩道橋を渡ると、「遠州鈴ヶ森」の白いサインが右の高台に見える。
江戸鈴ヶ森と同じ刑場であったという。
「妙法無縁之萬霊」と刻まれた題目塔が立つのみである。

三本松橋
 すぐ先で国道1号から右へ分岐し、国道と平行して西に向かう。その先で左に小さな川と橋があり、「三本松橋、別名なみだ橋」の標識が立つ。江戸の鈴ヶ森の浜川橋と同じく処刑されるものを見送った場所という。
 200mほど進むと道は下り坂となる。右手の路地の先に「元門と元天神道」の説明板がある。江戸時代、東海道から見付天神社に通じる表参道であったという。

阿多古山一里塚 と 東木戸跡
 下り坂の途中右手のアパートの間から、小山と石柱がわずかに見える。阿多古山一里塚である。
坂を下り広い車道と合流する手前に、東木戸跡クリックすると拡大の立て札がある。
左の方向には、木戸風のモニュメントが立ち、そこに案内板(=見付の文化財)が立っている。

見付宿・・・愛宕神社からの景色
 左側の小山に愛宕神社があり、石段の途中から宿の様子がよく眺められる。
見付宿は、京から東へ下る旅人はここで初めて富士を仰いだという「見つける」からと言われる。奈良時代には遠江国府が置かれ、江戸時代 宿駅となり、また南に位置する中泉には幕府の直轄地として代官所が置かれるなど、遠江国の中心として発展した。
天保14年(1843)のデータでは、本陣2、脇本陣1、旅籠56、人口3,935であった。
 明治22年(1889)東海道線の駅が中泉にでき、昭和17年(1942)、見付と中泉が合併、23年に磐田市となった。

見付天神社
 延喜式神明帳に記されている古社で、正歴4年(993)菅原道真を合祀したとの記録があるという。
裸祭りが有名。
 参道に悉平(しっぺい)太郎の銅像がある。.
正和年間(1312~17)旅の僧が、毎年人身御供を要求する妖怪の「信濃の悉平太郎に知らせるな」という話を聞き、駒ケ根市光前寺から悉平太郎という名犬を借り受けて、妖怪を退治したという伝説が残されている。

中川橋から

                        問屋場跡
 通りの右側に 悉平太郎伝説にかかわる梅塚があり、中川橋を渡るとその先は、脇本陣跡や問屋場跡などが続く。

御朱印屋敷 冷酒清兵衛

 家康が見付を訪れた時に酒を造り献上したところ気に入り冷酒清兵衛と呼ばれるようになったという。本名:植村清兵衛。

 通りは「見付宿場通り」といい、駅からは遠いが、結構人通りもある。
ジュビロ磐田の旗が賑わいを添えている。

淡海國玉(おうみくにたま)神社
 交差点を過ぎると右に鳥居が見える。入口に高札場跡之跡の札も立つ。
創立年は不詳。延喜式神明帳に記載され、遠江国の総社であった。
拝殿は文久年間(1861~64)の再建という。

旧見付学校
 神社の左に、5階建ての格調高い建物がある。
明治8年(1875)に建てられた日本最古の木造擬洋風小学校で、国の史跡に指定されている。

すぐ先に脇本陣三河屋の門が移築されている。

玄妙寺
 通りの右に入る路地の先の玄妙寺では、御会講が行われていた。
元中2年(1385)日汁上人により開創された。毎年11月12日に営まれている。
 
 寺の脇の道には、土蔵がある。
西の方にもある。明治初期から半ばに建てられたという。

姫街道
 旧東海道は見付宿場通りから次の交差点で南に向かう。
真っ直ぐに行く細い道を姫街道と言った。昔の東海道の道であったが、南に中泉御殿、代官所ができて、南に行くルートになったという。
女改めに厳しい新居関所を避けて旅する女性が主に通ったため呼び名が付いたといわれる。

西木戸跡
 交差点を南に向かうと、右側に西木戸跡の看板が立つ。

西光寺 表門
 加茂川橋を渡ると、右奥に広い境内をもつ西光寺で、手前に存在感のある表門がある。
家康の中泉御殿の表門を移築したもので、総ケヤキ造りの薬医門。
西光寺は、文永2年(1265)の創建で、のち一遍を開山とした。
山門を兼ねた鐘楼堂は、寛政元年(1789)建立という。

遠江国分寺跡
 国道1号を過ぎ、少し行って左に分岐して元に戻る。
先に遠江国分寺跡がある。
天平13年(741)聖武天皇の詔で、全国に建立された。
遠江国分寺の範囲は東西180m、南北250mに達し、金堂・講堂・七重の塔のあとには礎石がのこり、説明版がたっている。

府八幡宮

楼門                       拝殿/本殿








 道を挟んだ向かい側に広大な敷地を持つが府八幡宮ある。
遠江国史の桜井王が天平年間(729~48)に建立したとされる。
鳥居を入ると、長い参道があり、左に寛永12年(1635)建立の楼門がある。拝殿は寛永12年(1635)建立・正徳4年(1714)再建という。(
本殿は元和3年(1617)の建立)
神宮寺跡
 社務所の左に古い土塀が残っている。手前に神宮寺跡の石碑が立つ。
明治の廃仏毀釈までは、ここに神宮寺が立っていたという。



周囲が暗くなりこれ以上の散策は無理なので、磐田駅近くでの宿泊とした。
 散策日 2010年11月12日    掛川駅-磐田駅
 参考
 「東海道五十三次を歩く」3     児玉幸多 監修