鎌倉 上の道  
9.狭山-川角   地図: @狭山市-大谷沢  A大谷沢-武蔵高萩
                              B武蔵高萩-市場

 

 狭山から、入間川を渡り丘陵地帯を北西に向かう。
 


新富士見橋・入間川
 
 前回来た時は工事の最中であった狭山市駅は、今は駅舎と二階建ての広場の部分が出来上がり、全く新しい装いとなっていた。
 西に向かい、入間川の渡し(八丁の渡し)のあった付近と思われるところの200mほど南側に架かる新富士見橋を渡る。

奥州道交差点
 橋を渡った先の交差点を北に向かい、信号のあるT字路を西に向かう。渡しのあった付近である。
道は拡張されており、その先で新富士見橋から来る道路に合流するが、そこは奥州道という交差点である。
鎌倉時代には、中道の先が奥州に向かっているが、それ以前に上道を通って北武蔵から奥州に向かう道があったので、奥州という名が残ったものなのか。
 交差点の先、右側に影隠地蔵が立っている。

影隠地蔵
 木曽義仲の子で、頼朝の人質となっていた(娘大姫の婿であった)源義高は、義仲の死後我が身に難が及ぶのを避けるため嵐山町へ向かう途中追手に追いつかれ、一時この地蔵尊に隠れたが、その後斬られたという伝えが吾妻鏡にある。(川の東岸に政子と大姫がその供養のために建てたという清水八幡がある。)
実際には後年村人がこの地蔵を建てたという。

 地蔵の手前には石橋供養碑があり、道標となっている。脇に小さな地蔵もある。安永3年(1774)のもので、「南 江戸道 北 小川道 西八わうじ道」と』刻まれている。もとは道路の西側にあったという。

 この先に「信濃坂」という標柱が立っている。昔信濃の国に通じていたのでこの名がついたといわれている。
狭山市の建てた「歴史の道」という鎌倉街道の説明板がある。

狭山工業団地
 坂の上は平な台地となり、狭山工業団地が広がる。
工業団地のはずれの方に、明治15年コレラで亡くなった人の慰霊碑が立つ。

智光山公園
 団地を過ぎると、右側に智光山公園が広がる。
その先で圏央道をくぐるが、右側一帯には農地や雑木林が残る。

鎌倉街道交差点
 ゴルフ場を過ぎたところに、十字路があり、交差点には鎌倉街道という名前が付いている。
 しばらく進むと低地に下る坂で切り通しの道となり旧街道らしさが出てくる。
下り切ると小川が流れ、その先に田園風景がひろがる。右側に鎌倉街道上道碑と刻まれた大きな石碑が立つ。

上道石碑
 その説明板には、新田義貞の鎌倉攻め、北条時行の信濃での挙兵後の鎌倉入り、その後の足利尊氏と新田義典・義宗の武蔵野合戦、更には足利基氏と芳賀禅可入道の苦林合戦など、鎌倉街道をめぐる伝えが記述されている。
やがて丘陵地帯となりとなるが右側に住宅街が続く。旧街道は二つに分かれていたといい、左側の道を進む。

道標
 霞野神社が右側に見えるところまでくると、五本の道が交差している場所に、小さな道標がある。以前の写真をみると両側が樹木で囲まれている場所であるが、今は住宅が並んでいる。道標は電柱の陰に隠れておりわかりにくい。北向きで、文化8年(1811)、「右 **町* 八王子道  左 入間川 *沢みち」と刻まれている。
 ここで、鎌倉旧街道をたどる前に、女影氏の館があったという西南方面に行ってみる。

女影(おなかげ)氏館方面
 道標から西南に向かう。のどかな田園風景がつづき、約800mほどで、上の条という集落がある。そこに女影氏館があったといわれる民家がある。
近くには板碑が立っているということであるが、見つけられなかった。
 道標まで同じ道を戻る。
                金子家

道標から北への街道
 道標をそのまま過ぎて北に行く道が、もう一本ある旧街道のひとつで、女影の交差点を越えて北に向かう。
今回はここを通らず、霞野神社の東側の旧街道を北に向かうことにする。

霞野神社
 道標から、神社の南を進み、東側の旧街道に向かう。
霞野神社の鳥居を通り長い参道を進むと江戸時代末の建築といわれる本殿がある。
その奥に、女影ヶ原古戦場跡の石碑が建っている。
 鎌倉幕府の最後の執権北条高時の遺児・時行が、建武2年(1335)に信濃で挙兵し、ここ女影ヶ原で足利尊氏の弟直義が派遣した軍勢を破り、その後、小手指ヶ原、分倍河原でも破り、更には自ら出陣した直義をも町田井出ノ沢でも破り一時鎌倉を支配した。(中先代の乱)
神社の東側一帯が戦場跡というが、今は住宅地となっている。

稲荷大明神の祠
 
 東に行き、100mほど先の住宅街の十字路でもう一つの旧道(丘陵地帯から右側に続いてきた道)と出会う。
北に向かい、下小畔川で道はなくなるが、対岸にまわり、更に北に向かう。
バス道を越えると、住宅街の一角に稲荷大明神と刻まれた小さな石塔が石の祠に囲われてひっそりと立っている。
更に北に進み、川越線武蔵高萩駅の西側の踏切を越える。

石塔群
 道は一時北西に向きを変え、その後ほぼ北に進むが、住宅がまばらになったあたり左側に網で囲まれた石塔群がある。その一つには文化8年(1811)と刻まれている。
この先は道なりに進み、茶畑や小学校、中学校などが点在する中をひたすら歩き続ける。
途中、少し大きな工場を過ぎると道が二又となるが、右側に進む。
住宅地が始まる所で細い川を渡り川沿いの道を、東武 越生(おごせ)線西大家駅に向かう。

道の景色
 

國渭地祇(くにいちぎ)神社
 西大家駅前のバス道北側に、國渭地祇神社がある。
延喜式内社(平安時代にすでに官社として認定されていた神社)であり、この土地の古社という。
國渭地祇という名前から、この土地から流れ出る水を利用して農耕を営んでいた人たちが祀った神社であるという。
説明板によると、毎年10月に行われる「森戸の獅子舞」は坂戸市の無形民俗文化財となっているという。

万葉の碑
 神社の西の道を北に進む。
左手に東京国際大総合グランドがあり、その手前の道を左に入った先に、万葉遺跡大家が原歌碑が建っている。
万葉集 巻14 
  『入間道の大家が原のいはゐづら 
      ひかねばぬるぬる吾にな絶えそね』
とあり、ここでいう大家郷が現在の越生から大家付近と推定されているという。鎌倉街道以前は、武蔵と上野の国府を結ぶ官道であったという。(いはゐづら・・・ジュンサイまたはスベリヒユという)

高麗川
  もとに戻り、グランドを迂回している道をすすみ、森戸橋で高麗川(こま)を渡る。
その先はのどかな風景が続く。

馬頭観音
 その先の丘陵を登る手前の畑の脇に、馬頭観音の石塔が立っている。
寛政7年(1795)入間郡 市場 森戸 と刻まれている。
道路は広く舗装されてはいるが、古道の風情の残る道である。
旧道の景色

 右手の小公園をすぎ坂を上り始めると、正面の高い石垣の所で二又に分かれるが、左手のまっすぐ細い道を進む。

右手墓地への階段に馬頭観音と刻まれた石塔が二つ立つ。



 左に行くとと、市場神社に行く道であるが、真っ直ぐ進むと舗装されていない農道として使われているような道を進むことになる
 旧道であったかどうかは分からないが、地形的には、北にあるバス道まで真っ直ぐに北西に進んでおり、古道の趣が残る楽しい道である。

市場神社
 バス道を越えた先は、旧街道の面影の多く残る毛呂山町にむかうが、次回の楽しみに回し、今回の散策はここで終了とした。。

もとに戻って市場神社を経て川角駅まで戻った。
 散策日  2010年4月30日  狭山市-川角(東武越生線)


 参考
「旧鎌倉街道 探索の道   上道編」

「鎌倉街道夢紀行 上道コース
 芳賀善次郎著

 テレビ埼玉/編