鎌倉 上の道  
10.川角-武蔵嵐山   地図: @市場-今宿  A今宿-笛吹峠
                                  B笛吹峠-武蔵嵐山

 

 
 今回は、長い距離にわたって旧道らしさが残されている道を北上し、更に笛吹峠をこえて武蔵嵐山にある畠山重忠の菅谷館を目指す。


市場神社近くの石塔
 川角駅より市場神社の近くを通り、前回まですすんだ農道風の道まで戻る。
市場神社の脇の道端には小さな石塔と地蔵が立ち、昔からの道を表している。寛政3年(1791)の文字が見える。

                 

 市場神社の森

葛川の先の景色
 バス通りを越え、住宅街を過ぎ葛川を渡る。その先一面には水田や畑が広がり、その先の森の中まで旧道が続いていると思われた。
用水沿いの道を、森の中にある「社会福祉法人育心会」を目指して進むが、森への道が消えてており、やむを得ず右側に大きく迂回する。
「アサクラ」という建物の脇から森に入っていくと、「育心会」から北ぬ進む道…旧道・・・に出会うことができた。
市場を通るバス道から直接「育心会」を目指した方が良かったかもしれない。

旧道風景
 森の中を道を抜けると、畑が広がりその先、県道とぶつかる地点に「鎌倉街道上道 街道遺跡跡」と書かれた大きが掲示板が立っている。

旧道風景
 人家も少なく畑が広がり、更に先の森に入ると道は砂利道でまさに街道遺跡という名にふさわしい景色である。
約500mほど先の越辺川の手前、大類グランドまで続く。

「鎌倉街道遺跡」
 左に養護学校、右に大類グランドが見えるところで、細い道が交差しており、「鎌倉街道遺跡」の標柱が立つ。道の西側に、台地を削り込んだ跡が残っているという。
 右手の林の中にある古墳の上には、大きな庚申塔がひっそりと立っている。延宝4年(1676)造立とある。

旧道と堂山下遺跡
 旧道をこのまま進み、越辺川沿いの広い道路に出るが、出口に「上道」の案内板がある。右手のグランド入口に入ると、右手に堂山下遺跡のくわしい説明板がある。
平成2年に発掘調査が行われ、室町時代に営まれていた集落跡があったことが分かったという。街道に沿って東西に掘建柱の建物や井戸などが並んでいたという。
北に進む前に延慶板碑を見に行く。

延慶板碑と川角古墳群
 広い道路を川沿いに南西方向に300mほど戻ると、右手にはいる細道の奥に大きな板碑がある。
高さ約3m、幅80cmといい 圧倒的な存在感である。延慶3年(1310)の銘がある。
 道路の反対側には、林の中に古墳が所々に並び、川角古墳群と呼ばれている。又その中に崇徳寺跡の標柱も立つ。

越辺(おっぺ)川
 もとに戻り、養護学校の入口近くで川を渡る。
旧街道はここから先、消えているが、リサイクルプラザの大きな建物の脇を通り水田の中を北上する。
右側に「ブック牧場」があり、その先に旧道の続きらしい道が出てくる。
林の前の畑にキジが出てくるのどかな風景である。
水神塔/常夜燈
 川に沿って進むと今宿という町に入り、東西に走る少し広い道突当り、この先の旧道はなくなる。
東側の堤防上に常夜燈が立つ。水上安全 明治9年((1876)とあり、小さな石仏もある。
東に進み、南北に走るバス通りに出る。
越辺川に架かる今川橋の南側は、苦林とよばれる宿場であったという。
橋の北側が今宿といい、近世になってできた宿場という。
 南の苦林方面に足を延ばす。その先には、苦林古戦場跡があるという。

苦林の風景

                「古戦場橋」から苦林古戦場跡方面を見る
 苦林に入る最初の交差点に数体の地蔵尊が祀られた比較的大きな祠がある。衣を着せられており詳細は不明。バス道を進むと右側に田畑が続く手前に「古戦場橋」と名がつけられた橋の名残がある。
苦林古戦場跡碑が立っている場所はまだ随分先のようなので今回はあきらめた。
 貞享4年(1365)、宇都宮氏の家臣、芳賀禅可入道高名は、守護職を免職されたことから、関東管領足利基氏とわたり合いこの地で合戦となったという。その後、足利氏の全盛となった。

円正寺の板碑
 越辺川の今川橋まで戻り、東側に見える円正寺に行く。
山門を入った右側に、大小5基の板碑が並ぶ。中央の大きな板碑には、元享4年(1324)と刻まれている。
寺の説明板によれば、近くの畑から出土した銅製の雲板(食事の合図などに打ち鳴らす仏法具)が保存されているという。応安4年(1371)の銘があるという。

旧道の名残-八坂神社と 地蔵尊・石塔
 バス道に戻り今宿の交差点に進むが、その西側100mほどの南北の道に八坂神社がある。
今宿の交差点の西側には、道路と川の間に、地蔵を祀った祠と3基の石塔がある。
石塔のひとつには、延宝6年(1673)の文字が見える。

赤沼供養塔
 交差点から緩やかな坂が続き、500mほど行くと右に分岐する道が旧街道である。その先の十字路角に3基の石塔と道標がある。
中央に立つ「日本廻国四国七遍供養塔」の右側に、安永8年(1779)の文字とその下に次の文字が刻まれている。
 『北 ひきの岩殿道 中 すがや野原道 西 小がわちち婦道』
(『すがや野原道』が鎌倉街道に当たるという。)
右側の小さな道標には、川越道、小川道と刻まれている。

旧道の名残-街道杉があったといわれるところ
 先でバス道と合流するが、旧道はその手前で北に向かっていたという。バス道を進み、左側の保健センターの向かいの道に入る。 北側の畑の先に小さな墓地がみえるが、そこに街道杉と呼ばれる大きな杉の木があったという。切株や石の祠が残っている。
 旧道はここから北に鳩山中の校舎が建つ所に続いていたというが、跡は全くない。

 近くで、古代も瓦を焼いた窯の跡が見れるというので、バス道を北上せずに東を流れる鳩川・大橋川の東側を北上した。道が二又に分かれる斜面に案内図がある。

赤沼古代瓦窯跡

 手前に1号窯跡があり、その100mほど先の斜面に、建物で保護された窯跡がある。
説明板によれば当初は武蔵国分の瓦を焼いた窯跡と考えられていたが、7世紀後半から8世紀初期ごろの窯跡で、瓦専用窯ではなく、須恵器窯としても使われたという。
白鳳寺院として武蔵国最大と言われる勝呂廃寺(坂戸市)の創建期の軒先を飾った瓦もあるという。

大橋
 西に進んでバス道に戻り、北に向かう。泉井川という小さな川の手前に大橋家という民家があり、北側の墓地に板碑がある。旧道はこの辺りに続いていたという。川に架かる小さい橋には大橋という名前が付いており、鎌倉時代には堅固な橋だったようである。
      大橋から見た北西の風景→

金沢寺(こんたくじ)の板碑
 橋の北西の山裾に金沢寺があり、石段の途中左横に板碑と風化した宝篋印塔が並ぶ。
 更にここには、「十三仏板碑」が残されていると説明板にある。
嘉慶2年(1388)の造立という最も古い十三仏板碑で貴重な資料という。

新橋の石塔群
 大橋から先も、広いバス道が続く。
次の信号のある新橋のT字路のバス停前に、庚申塔や六角石柱に彫られた石仏などが並んでいる。
橋を渡り北に進むところに鎌倉街道の大きな案内板が建っている。

道の景色
 右側が丘陵地帯で左側が広々とした田園地帯という風景である。いよいよ笛吹峠への道である。
案内板から500mほど進むと、左に入る道路があり、「笛吹通り」という標識が立っている

羽黒堂
 しばらくして右手からの道が合流するところに羽黒堂があり中に地蔵尊が立つ。
お羽黒をつけた大将の首を埋めたとか、家来にはぐれた大将の首を埋めたとかの説があるといわれる。

笛吹峠への道

緩やかな上り坂できれいに舗装された広い道路が続く。
    

笛吹峠


 峠は、背の高い雑木林に囲まれたなだらかな山の頂という感じで、「史蹟笛吹峠」という大きな石碑や説明板があり休憩場所がある。
 正平7年/文和元年(1352)、新田義貞の子、義宗と宗良親王などの南朝方の軍勢と足利尊氏などの北朝方の軍勢が戦った。(いわゆる武蔵野合戦) 新田義宗はこの峠に最後の陣をはったが、新田軍は入間河原、小手指河原で足利軍に敗れ、義宗は越後に落ち延びた。
 この時、宗良親王は月明かりに誘われて笛を吹いたという伝承があるという。
背景:
 観応元年/正平5年(1350)足利尊氏と直義兄弟が対立し、足利勢が分裂し戦いを繰り返した(観応の擾乱)。
この機に南朝の北畠親房が京都・鎌倉の奪還を図った。
正平7年/文和元年(1352)新田義宗・義興兄弟は上野国で挙兵(→武蔵野合戦)、北条時行は伊豆で挙兵し一時鎌倉に入り、北畠・楠の南朝軍も京都に入った。
しかしひと月も持たずに鎌倉は足利尊氏に、京都は足利義詮に奪回された。 北条時行は文和2年(1353)捕えられ処刑、北条得宗家は断絶した。

笛吹峠から先の風景
 右に迂回して川を直角に横切る       西側にある旧道らしい道
  

将軍沢
 将軍沢の集落に入る。
右手に庚申塔と彫られた石塔がある。
 笛吹峠方面を振返る

日吉神社/将軍神社
 集落のはずれに、大きな杉の並木のある長い参道の日吉神社がある。参道の突当りには征夷大将軍坂上田村麻呂を祀った将軍神社がある。東北地方遠征の時に一夜を過ごし、その時陣営を示す旗を立てた塚に、この神社を祀ったという。
 また神社の手前、反対側の墓地の前に、板碑や石塔がまとめられて立っている。

縁切橋
 集落を過ぎて坂を下りたところからいよいよ「嵐山町大蔵」に入る。すぐに縁切橋と書かれた案内板が立ち、少し離れて説明板がある。
坂上田村麻呂を訪ねてきた将軍の奥方に、「大命を受けて派遣されてきたのに何事か、今より縁を切る、立ち去れ」と宣言したという話が伝えられているという。

安養寺
 しばらく進むと左手の畑の奥に安養寺が見える。
すぐ先右手に火の見櫓の鉄塔が建っているが、その角の道を東に行くと、畑の中に鳥居が在り、細い道がある。
その先の民家の裏手に当たる所に、源義賢の墓と説明板などがある。

源義賢の墓
 源義賢は、源為義の二男で平治の乱で平氏に敗れた源義朝の弟である。京都に上って東宮帯刀(たてわき)の長を務めたので、帯刀先生(せんじょう)と称された。その後ここ大蔵の地に移住してきた。北武蔵の豪族秩父氏と組んで勢力を伸ばしていたが、久寿2年(1155)義朝の子、義平に殺害された。
木曽義仲は、義賢の子で、入間川で殺害された義高は義仲の子で、この地で育った。
 屋根に覆われた中に五輪塔が立つ。上から「空・風・火・水・地」を表しているが、火輪部と水輪部のみ残存しており、空輪部、地輪部は後から補われ、風輪部は欠損している。このかたちは「古式五輪塔」と呼ばれ、県内最古の例という。
この墓は義賢夫人の墓だろうという説もある。

大蔵館跡
 十字路でバス道を西にいくと、義賢の住んだ大蔵館跡がある。
館跡には大蔵神社が建っている。
館の規模は、東西170〜200m、南北220mで、跡の四隅には土塁、空堀が残っているという。
 義賢の子、当時2才の駒王丸は畠山重能に助けられ、斎藤別当実盛により木曽の中原兼遠に預けられた。

向徳寺
 十字路に戻り北に進むと左奥に向徳寺がある。藤沢の清浄光寺(遊行寺)の末寺で鎌倉時代の創建という。山門の横に、墓地と本堂内の板碑がまとめられて納められている。最も古いものは1250年頃の写真右奥の板碑である。

都幾川
 下り坂で左にカーブして学校橋で都幾川を渡る。上流右岸の森の中に茶色のビルが見えるが、その左側奥に畠山重信の菅谷館がある。
橋を渡った先の交差点を西に向かい国立女性教育会館の前で左に入り更に西に向かうと、広大な菅谷館跡がある。


菅谷館跡の石碑
 菅谷館は、はじめ畠山重忠が築いた城といわれ、最初は規模は小さかったが、クリックすると拡大室町・戦国時代を経て次第に拡張されてきたという。
都幾川を南の守りにして、郭・土塁・空堀など戦国の城の構造が良く残されている。
この北方にある川本村の生家からいつここに移ってきたかははっきりしていないという。
畠山重忠像
 中ほどにある土塁の上に重忠像が立っている。
 元久2年(1205)、北条氏の策略により鎌倉におびき出され、その途中の鶴ヶ峰で待ち伏せしていた北条軍により全員殺害された。典型的な鎌倉武士で、名誉を重んじての死であった。42歳という。
  重忠の屋敷があったという本廓
 
 北側に「県立嵐山史跡の博物館」があるが、時間の関係で入ることができず、またの機会とする。
ここから、菅谷中学校の脇を通り、武蔵嵐山駅に向かった。
 散策日  2010年5月14日   東武東上線川角武蔵嵐山


 参考
「旧鎌倉街道 探索の道   上道編」

「鎌倉街道夢紀行 上道コース
 芳賀善次郎著

 テレビ埼玉/編