鎌倉 上の道  
8.所沢-狭山   地図: @所沢-岩岡  A岩岡-狭山市
                              B狭山市-大谷沢

 

 
 多摩川を越えてから真北に進んできた「上の道」は、所沢からは向きを北西に変えて、ほぼ直線的に入間川(狭山市)まですすむ。

街道風景
 所沢駅から道路拡張工事中の中を真西に向かい、南小学校から続く旧街道にいく。そこから真っ直ぐの旧道らしい道幅の通りをすすむ。
 NTTのビルを越えた先に「鎌倉街道」という大きな説明板が立ち、上・中・下道の説明をしている。
「所沢は、上の道のほぼ中心にあり、太平記、廻国雑記などで特に有名であり、『野遊びのさなかに山の芋そえてほり求めたる野老(ところ)沢かな』の歌がある。」という。(廻国雑記-文明18年(1486)道興准后)

実蔵院
 バス道路への出口右側に実蔵院がある。
正平7年(1352)新田義興により創建されたと伝えられる。
出口右角に鎌倉街道の石柱が立っている。

 旧街道はバス道を越えてまっすぐ進むが、その前に弘法の三ツ井戸を見に行く。

所沢宿について
 旧鎌倉街道に沿った南北の宿場は、久米川の宿が近いので5〜6軒だけだったろうという。
江戸時代に、東西に並ぶ新しい宿場として、すなわち、秩父飯能方面から江戸に向かう江戸街道の、西は扇屋町または入間川宿、東は旧田無の間、各2里ほどの間の宿場として発達したという。また近隣の村との物資の交換場所として重要な位置であったという。(芳賀氏)
 バス道を西に行く商店街の景色には、こうした家が出てくる。

弘法の三ツ井戸
 五叉路を北に行くと東川に架かる弘法橋があり、井戸が残る
弘法大師が諸国遍歴の折り、水に難儀している村人を救おうと3ヶ所の水の出る場所を教えた。教えられた場所を掘ると、清水が得られたといい、東川にそって50m間隔にあって、ここに残る井戸は東端のものという。

近くに弘法の湯の煙突がそびえる。

新光寺
 もとの旧道に戻り北に行き東川を渡ると、新光寺がある。
 「寺伝によれば、遊石山観音院と号し、本尊の聖観世音菩薩は行基作という。建久4年(1193)頼朝が那須野に鷹狩に行く途中ここで昼食をとり、その時の幕舎の地を寄進したという。元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉攻めの時必勝を祈願し、北条平定後立ち寄って、以前かすめ取られた土地を寄進したといわれる。」
 冒頭の鎌倉街道の説明文にある、「野老(ところ)沢の歌」は、この観音院でよまれたという。

薬王寺
 新光寺前で旧道は消える。バス道にでて、さらに神明社の脇を東に300mほど行くと薬王寺がある。
 正平7年(1352)新田義宗は兄義興とともに武蔵野合戦で足利尊氏と戦って敗れ、越後に退いたとされているが、寺の縁起によれば再起を図ってこの地に隠れ住んだといわれている。境内に「新田義宗終焉之地」の石碑がたつ。

所澤神明社
 バス道に戻る途中北側に、樹木の多く茂り広い境内をもつ神明社がある。神社の由緒によれば、大和武尊が東夷征伐の折りこの地に立寄り、天照大神をまつり勝利を祈願したことから始まるという。
 境内に明治17年(1984)の建立の「富士講記念碑」がある。
所沢の富士講は江戸時代後期のころ成立したという。

堀兼への道
 神明社の西側の参道からバス道路に出て坂をのぼり、峰の坂交差点を過ぎて旧街道は台地を真っ直ぐに進む。次の信号を100mほど過ぎたところで右に分岐する道がある。
鎌倉街道の支道で堀兼道といわれ、その先に堀兼の井戸がある。もとは鎌倉街道以前の古代道であるとの可能性もあるという。
 
 これから先の入曽までは、自動車道の歩道をひたすら歩き続ける。岩岡町に入り、西武新宿線を右に見るところあたりから、畑地帯が増え、遠方に雑木林も見える。踏切を越えてしばらくすると住宅が増え、入曽駅が近くなる。
  

金剛院
 駅入口の交差点の先に金剛院がある。
建久年間(1190〜97)の創立と伝えられる。
南に位置する四脚門は、天明2年(1782)建立という。
裏門側には、文久2年(1862)の庚申塔が立つ。
 
 今回は堀兼道に行くことができなかったが、ここで時間に余裕があるので、東の堀兼神社に行きそこの堀兼井戸だけでも見に行くことにした。

化け地蔵
 金剛院の北側のバス道を北東に700mほど行くと、東水野のバス停があり、手前の南から来る道に入ると山王塚市民緑地があり、その角に小さな堂が立っている。
この地蔵尊は、水野村開拓後の貞享2年(1685)に45人の村人により祀られたといい、通称「化け地蔵」「夜泣き地蔵」などといわれる。名前の由来は諸説あるという。

堀兼の井
        堀兼道
 地蔵の前の道を進み、山王小学校の前を過ぎて変電所の塔を右奥に見ながら右・左にまがりながら、更に東に行くと堀兼道にぶつかる。
少し南に行くと左に林が見え、堀兼神社がある。(地蔵堂から約1.2kmほどある)


                途中の景色→
       堀兼神社
 神社は古くから小高い塚の上に建てられた浅間神社で、慶安3年(1650)川越城主の松平信綱が家臣に命じて社殿を再建させたという。 

社殿入口の隋身門は、江戸時代後期のもので、屋根は当初草葺きだったという。内部には矢大神と左大神と呼ばれている二神像がある。
       堀兼の井
 境内の北側に、堀兼の井がある。石柱で囲まれた口径は約8mで、それほど深くはなく、底には石組がある。
 「堀兼の井」は、まいまいず井戸とか七曲井とも呼ばれ、水の乏しい武蔵野の地に幾つもあったという。ここの堀兼の井が古くから歌(*)に詠まれている「堀兼の井」かどうか明確でないが、宝永5年(1708)の石碑などが立っており、ここの井戸が江戸時代から史跡として知られていたことは確かという。
                           堀兼井之蹟の碑→

* 紀貫之  はるばると思ひこそやれ武蔵野の
           ほりかねの井に野寺あるてふ

 西行    汲みてしるひともありけんおのずから
           堀兼の井のそこのこころを
                         

入間野神社
 入曽の交差点まで戻り、街道を北に行く。左に広い境内を持つ神社で、建久2年(1191)の創建と伝えられ、石造りの御神体には天正6年(1578)の年号が刻まれているという。
この神社と南にある金剛院の「入曽獅子舞」は有名で、10月14日と15日に奉納されるといい、県の無形文化財になっている。説明板に詳しい内容がある。宝暦8年(1758)と書かれた獅子舞を描いた懸額が神社に現存しているという。(説明板)


境内の道よりに埼玉県内の「鎌倉街道『上道』のみちすじ」の説明板が掲示されている。
クリックすると拡大

七曲井(ななまがりのい)
        観音堂
 神社の北側を不老川が流れ、その脇に観音堂があり、裏に七曲井がある。
観音堂の創立は建仁2年(1202)という。
不老川は、昔は毎年冬季になると必ず水が涸れてしまい、年をとらないという縁起を担いで名付けられたという。
        七曲井
クリックすると拡大 最近整備されたようで、見学個所や、手すり、説明板など充分行き届いている。
直径26m、周囲70m余り、深さ11.5mという大規模な漏斗状の井戸である。井戸に降りる道は上部で階段状で、中央部では曲がり道、底近くでは回り道になっており、このみちの形状が名前の由来となっているという。井戸は、建仁2年(1202)に掘られたという説と、平安時代の古道沿いにあるため平安中期に、武蔵国府の手で掘られたと考えられるという。
この井戸が、前掲の歌にある「堀兼の井」であるともいわれている。

野々宮神社

 道路を挟んで向かいの道を東に行くと野々宮神社がある。
伝承によれば奈良時代の創立と伝えられる。
この神社に伝わる「入曽ばやし」は文政年間(1818〜30)にこの地域出身の国学者-田口保明(やすあき)が中心となって江戸徳丸(今の板橋)の芸人から伝承されたのがはじまりという。

 もとに戻り、県道50号(つつじ通り)を西北に、狭山市駅手前まで進む。

白山神社
 駅の前でカーブする手前に白山神社がある。、創立は不詳だが、新編武蔵国風土記稿に「村持の社」との記載があり、江戸時代以前の創建は確かである。説明板では、鎌倉時代初期からあったという。

そこから先は旧道は消えている。そこで神社の手前の道を西に進み、西武線の踏切を越える。

庚申塔
 越えたところに、祠があり、「庚申塔」と大きく刻まれた石塔がある。
寛政11年(1799)の銘があるが、説明板によると、近くに建立されていたものが、西武線開通の折りここに移されたという。

狭山市駅
 狭山市駅西口駅前をとおり西北に向かうが、駅前と道路が大規模開発中であった。
東口手前で消えた旧道は、図書館前に続いているようだがはっきりしないという。
図書館の前の坂を下り、最初の道を右折し、徳林寺に向かう。

徳林寺
 徳林寺の創立ははっきりしないが、永正〜享禄年間(1504〜32)頃の創立と考えられるという。
ここに移る以前の場所にあった頃、新田義貞が鎌倉攻めの時に帯陣した場所と伝えられ、また一説には足利基氏の入間川御所の伝承地にもなっているという。(狭山市HPより)

八幡神社
 徳林寺への道を戻りそのまま南に行くと丘の上にある。
旧入間川村の総鎮守で、神社の縁起によると元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉攻めの際、戦勝祈願に参拝したという。

清水八幡
 入間川の渡しの場所に行く前に、川の南側に位置する清水八幡神社に行く。八幡神社前に道を西に向かい、新富士見橋と16号線との交差点から、16号線を南に下ると、約200先の右側にある。
清水八幡には源義高(清水冠者義高)が祀られている。義高は木曽義仲の嫡子で、人質として鎌倉に送られ、頼朝と政子の娘、大姫の婿になっていた。義仲が頼朝に討たれたので、義高は大蔵館や菅谷館がある今の嵐山町目指して逃げてきたが、ここ入間河原で討たれた。
政子と大姫は義高の霊を祀るため神社を建て供養した。(当時の社の場所は川の氾濫によりはっきりしていない。)
鎌倉常楽寺の裏山に木曽義高の霊をまつった木曽塚がある。

入間川-八丁の渡しに近いところ
 16号線を北に行き、サティを越えた先に旧道の続きらしい道がある。(右)

その先が、八丁渡しがあった場所であろうか?


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 参考
「旧鎌倉街道 探索の道   上道編」

「鎌倉街道夢紀行 上道コース
 芳賀善次郎著

 テレビ埼玉/編
 散策日  2010年1月29日  
  所沢
狭山市