鎌倉 上の道  
7.西国分寺-所沢   地図: @西国分寺-新小平  A新小平-東村山
                                  B東村山-所沢

 

 西国分寺駅からの「上の道」は、東村山までほぼ北に向かって真っすぐに進んでいる。
新田義貞や畠山重忠の物語が多く残っている旧街道である。

西国分寺駅東側旧街道
 西国分寺駅北口をでて、武蔵野線のガード下から府中街道を横切り細い坂道をさがると、JR中央線で消えた旧街道がある。
南に向けて目を向けるとJR線で途切れた様子がよくわかる。

姿見池への入口
 北に進むと、右に入る小路があり、角に大きな「恋ヶ窪用水」の由来の説明板と向かい側に地蔵の石像が立っている。
明歴3年(1657)に国分寺村・恋ヶ窪村・貫井村の田の灌漑用水に利用するために、玉川上水から分水して、恋ヶ窪村分水と呼ばれる水路ができた、という。
地蔵には元禄16年(1703)の銘がある。

姿見池


東福寺


<傾城墓と傾城墓由来碑>
 この奥に姿見の池がある。姿見の池の由来については、鎌倉街道の宿場町であった頃、遊女たちが自らの姿を映したという言い伝えから来る。または、台地を旅してきた旅人が、この池で喉を潤し、容姿を整えたからともいわれる。
 この宿場に残る伝説として、畠山重忠と遊女夙妻(はやづま)太夫(あさづまと読むのも多い)の悲恋物語がある。

 重忠が平家討伐で源義経の軍に加わって出陣したときに、重忠の恋敵の男が夙妻大夫に重忠は戦死したと偽りを伝え、夙妻大夫はそれを聞いて悲しみ、ついに姿見の池に身を投げて死んだ。里人は夙妻大夫のために松を植えたが、その松は不思議にも一葉(ヒトハ)の松になったという。、『武蔵野話』にあり、江戸時代の創作だろうといわれている。
 旧街道を挟んで反対側にある東福寺境内には、傾城墓と傾城墓由来碑があり詳しく伝えている。 [傾城=けいせい・・遊女/絶世の美女]
                                <三代目の一葉松>
 「傾城墓由来碑」によると、、恋ヶ窪出身の俳人宝雪庵可尊が、墓標をたて傾城の墓としたという。

 その右側には、若い一葉松がある。「三代目植樹記念碑」によれば、二代目の松は、旧名主鈴木家の屋敷に聳え立ち、樹高25mとなり街道の道標となっていたという。
 その後、昭和56年に枯れたため、切り倒されたが、、二代目から枝を植え次いだものが三代目の松として昭和58年に植樹されたとある。
                  

鈴木家
 東福寺の前に「一葉松」という中華店があり、その次の道を東に100mほど行くと、うっそうとした林の囲まれた旧鈴木家がある。奥の裏山に松の木や竹の林があり、以前の一葉松はそこにあったという。
裏山の道を上り、丘陵にでてから北に進むと、熊野神社の裏側に出る道がある。神社の裏から参道をくだると、東福寺から北上する道にでる。
「旧鎌倉街道 探索の道」の芳賀氏によれば、重忠の伝説に出てくる一葉松(鈴木家の)の所を北上するという旧街道は、疑問であるという。
湿地などの地形上の点と、神社の裏になるという点で、旧街道は現在の熊野神社の西側と東福寺を結ぶ直線の道が正しいと指摘している。

熊野神社
 熊野神社の由緒によれば、起源は不詳で、元弘建武の頃(1331)新田義貞が鎌倉勢と戦の時、兵火に焼失したという。
社殿の奥には芭蕉の俳句や地元出身の俳人宝雪庵可尊の句碑がある。
北側には、文明18年(1486)京都聖護院道興准后が、東行の時「廻国雑記」によんだという歌碑が立っている。
  「朽ち果てぬ名のみ残れる恋が窪 今はた問ふもちぎりならずや」

恋ヶ窪用水と川越街道
 神社の交差点北側に、林が続き昔の用水の跡の堀が残っている。
その脇を旧街道は北に進むが、江戸時代には川越街道とよばれていた。
姿見の池から東村山の空堀川までの武蔵野台地約5.7kmの旅は、当時は全く水のない草地の荒野であり、苦労の多い行程であったという。江戸時代玉川上水が開通後、この台地が開拓され、各地の新田が開墾された。
 

街道の風景
この先西武国分寺線の踏切を渡り、交通量の多い府中街道を進むことになる。
 街道沿いには一部畑地が残り、遠くに富士山が望めた。
府中街道は東恋ヶ窪五丁目の交差点から、西に曲がって行くが、旧街道はそのまま真っ直ぐ北に向かっている。それは途中ですぐに消えるので、府中街道をそのまま進む。左手の窪東公園を過ぎたあたりに「二つ塚」のバス停が出てくるが、この先の稲荷神社の手前あたりに一対の塚があり、それがこのあたりの地名になったという。

恋ヶ窪交差点手前

交差点北にある弁財天          窪東公園
    

稲荷神社
 五日市街道との交差点を東に曲がり、200mほど行くと北側に細い参道があり、奥に稲荷神社がある。
享保8年(1713)に上鈴木新田を開墾するときに親村である貫井村(現小金井市貫井町)から稲荷神社を勧請したものという。
南側に東西に走る二ツ塚緑道が整備されている。
神社の東側の道を進み、玉川上水の緑地で突当り、右に行くと鎌倉橋がある。

鎌倉橋
 神社の東側の道を進み、玉川上水の緑地で突当り、右に行くと鎌倉橋がある。
この先、新小平駅の西側を過ぎてブリジストン工場で消えるまで真っ直ぐ北に進んでおり、道筋各所に「鎌倉街道」の標識が立っている。

街道風景
 玉上水からの道両側には、住宅が連なっており当時の面影はないが、ただ北にまっすぐに進んでいるということで、鎌倉街道以前の、天平の昔(730年頃)からの官道(東山道武蔵路)として使われていたことが偲ばれる。
青梅街道を横切る手前に街道の説明板が立っている。(右)
この道筋に2つの「まいまいず井戸」があったという。(俗称すりばち井戸ともいい、地面をすり鉢状に深く掘り、渦巻状に底に下ってからその底に井戸を掘るという武蔵野独特の井戸のことをいう。)

九道の辻
 更に北に進むと、ブリジストン工場でさえぎられるので、府中街道に出て北に向かい西武拝島線踏切を越すとまもなく八坂の交差点となる。前に消えた旧街道はこの辻に続いていて、ここからは今の府中街道となっている。ここは各地から9本の道が交差しており、九道の辻といわれた。標柱によれば、旧鎌倉街道のほぼ中間ー鎌倉へ18里、前橋へ18里の地点であり、江戸道、引股道、宮寺道、秩父道、御窪道、清戸道、奥州街道、大山街道、鎌倉街道の九本の道であったという
 元弘3年(1333)5月、新田義貞が鎌倉攻めの際にこの辻で鎌倉への道を見失い、ここに一本の桜を植えて街道の目印にしたという伝説がある。
 東北の隅に、元文5年(1740)の供養塔と明治44年(1911)の馬頭観世音の石塔が立っている。

八坂神社
 八坂駅を過ぎると、府中街道左側に八坂神社がある。
由緒によれば「別当であった正福寺の火災で記録が焼失し、創立年月日は不詳。正福寺が建立された弘安元年(1272)から間もないころか、または国宝正福寺千体地蔵堂が建立された応永14年(1407)以降、間もないころに創立されたと考えられる。」という。

空堀川
 すぐ北を空堀川が流れる。
かっては清流であったが、江戸時代に上流の狭山丘陵の原始林が開拓され、多くの原始林が伐採されたので、水が涸れてしまい、この名がついたという。
八坂神社の前には、今はないが、「まいまいず井戸」が2つあったという。川の水が枯れた時に掘られたものだろうという。

境塚・浅間塚
 西武新宿線の踏切の手前に、平和塔公園があり、小さな塚の上に平和の女神像が立っている。その塚は「境塚」と呼ばれる。狭山丘陵の村々は近世中期にかけて広い秣(まぐさ)場であったが、そのころ幕府はそのころ新田開発を進めるにあたり、数々の規制を打ち出したために幕府役人と自立農民との間に対立が起こったという。延宝・元禄年間(1673〜1704)入会地開墾を巡る対立は頂点に達し、「境目絵図」が作られたり、村々には領地との境界を示すこのような塚が築かれたという。
また向こう側にある塚は、富士信仰による浅間塚と呼ばれている。

東村山駅
 まもなく左側に東村山駅入口となり、旧街道は今の府中街道から左に分かれて北に向かう。
一方、芳賀氏によれば、九道の辻から別れて北北西に向かい正福寺を経由して八国山方面にすすむ旧街道があったという。
今回は、その街道は辿らずに、東村山駅の西側に位置する正福寺と千体地蔵堂を訪れることにする。
そこで、東村山駅構内を横切り、駅西口交差点から西に向かう。

正福寺地蔵堂



 信号のある交差点を北に向かうと、十字路になり、そこを左に進むと、八坂神社の鳥居がある。
その左側と奥に、正福寺がある。
 北条時宗またはその父の時頼が開基で、開山は南宋の石渓心月仏梅と云い伝えられる。
 説明板によれば「時宗が鷹狩の際病気になり、夢の中で地蔵菩薩からもらった丸薬で病が治ったことから地蔵堂を建立したといわれている。
 仏殿である地蔵堂は、応永14年(1407)建立の典型的な禅宗様建築で、都内唯一の国宝建造物である。千体地蔵堂と呼ばれ、多くの小地蔵尊が奉納され,それらは正徳4年(1714)から享保14年(1729)のが多いという。
 同じ時代の国宝に指定されている鎌倉の円覚寺舎利殿が、特別拝観日歯科参拝できないのに比べて、ここは間近で見ることができ、大いに感激した次第である。
 境内には小さな祠があり、その中に都内最大といわれる板碑が納められている。
高さ285cm幅55cmで、承和5年(1349)のもので、承和の板碑とよばれる。
 府中街道まで戻り、旧街道ををすすむ。駅東口入口の信号のすぐ先の信号を過ぎてまもなく、東北方向に進む府中街道から別れて、北にまっすぐ進む。旧街道らしい細い道が続き、野球場を過ぎてまもなく左手に白山神社がある。

白山神社
神社の境内には、牛頭天王像が祀られているが、説明板によれば、高さ67cmで胸に「信心社 当病除」とあり、台石に「村内安全」の文字と文政2年(1819)と刻まれている。
芳賀氏によると、このあたりに鎌倉時代に久米川宿南関所があったという。
この先の旧街道は西武線開通で消滅し、次の踏切の所から西武線の西側の道に続いていたという。

立川家
 そこで神社の前の道を北上して、T字路を西に向かいで西武線の踏切を横切ることになる。
 その突当りの所に、古い格式のある民家がある。鎌倉時代から続く「立川家」という。
 文永8年(1271)、日蓮が瀧ノ口法難ののち、佐渡に配流される途中、本町田の宏善寺で休息した後、久米川宿まで弟子が見送ってきた。その時にこの立川家で手厚く迎え入れられて泊ったという。

熊野神社
 西武線の踏切の手前に北に行く小道を200mほどすすむと、熊野神社がある。
創建年月は不明であるが、説明文によると、ここに元弘年間(1331〜34)、久米川の合戦で新田義貞が後詰を置いた としている。

 元に戻り踏切を渡るとすぐに、北に進む道がある。
旧街道は消えているが、ほぼ近い所を通っているようで、この道に沿ったあたり・・西武線の西・・・が久米川宿であったと思われる。

悲田処跡(推定地-その1)
 北に行かずにそのまま西しに向かい、元弘の板碑で有名な徳蔵寺に向かう。途中右側に諏訪町自治会館ヶあり、その先の民家のところに、稲荷神社と朱塗りの鳥居が見える。
このあたりが「武蔵悲田処跡」だろうという説がある。
 「悲田処」とは、平安時代初期天長10年(833)、武蔵国の多摩郡と入間郡の境に設けられた飢えや病気にくるしむ旅人用の一時救護・宿泊施設であり、武蔵国府の役人により建てられたという。その場所は特定できず何ヶ所かの説がある。

元弘の板碑/徳蔵寺
 その先に徳蔵寺がある。開山は元和年間(1615〜23)といわれ、もとは、鎌倉時代の地頭の板倉氏の屋敷があったという。
境内に板碑や石塔など多数が収納されている保存館がある。

元弘の板碑は新田義貞が鎌倉攻めの時部下の戦死者を供養したもので、もとは八国山にあったものである。この碑により、分倍河原の戦いの年月や進路などが判明した。
また、比翼碑とよばれる2基で一対となる板碑…延文4年(1359)造・・などもある。。

久米川古戦場跡
 西北に向かい、前川と北川を渡り八国山のふもとにある「久米川古戦場跡」に行く。
このあたりは、上野国と鎌倉を結ぶ重要な交通路であって、久米川宿は、鎌倉街道上の道に中でも主要なすく駅であったという。
 元弘3年(1333)5月8日、上野国新田庄生品明神で鎌倉幕府打倒の兵をあげた新田義貞は鎌倉街道を南下し、入間川を渡り5月11日小手指原の戦いで、幕府軍を撃破した。12日、幕府軍は久米川の南で迎撃したが、新田軍は、八国山に陣を張り攻撃を開始、幕府軍は多摩川の分倍河原まで後退した。
 その後も建武2年(1335)の中先代の乱や、応永23-24年(1416-17)の上杉禅秀の乱など、たびたび戦場となった。

勝陣場橋
 古戦場跡から東に向かい旧街道/西武線の西側に向かう。途中北川を「勝陣場橋」で渡るが、芳賀氏によると、このあたりは新田軍の戦勝を記念してつけられた「勝陣村」という地名があり、もとは「精進場」だったという。
旧街道に出て、北に進むが、このあたりは「久米川宿」の北端であり「北関所跡があったというが、痕跡は何もない。その先で広い自動車道と合流したあと、柳瀬川を渡る。

            柳瀬川(久米川)

勢揃橋

八国山
 旧街道から離れて少し遠回りになるが柳瀬川(久米川)上流にむかい、勢揃橋を渡ってから、八国山に行く。
鎌倉攻めの時に新田義貞が軍を勢揃いさせたと伝えられる。このような勢揃いの地点と伝えられるところは、各所にある。
南に向かうと 八国山が見えてくる。

将軍塚
 八国山は 駿河・甲斐・相模・安房・常陸・上野・下野・信濃の八つの国が眺められたことからつけられたという(説明板は安房の代わりに伊豆となっているが)。東端から、200m弱上ると頂上付近に「将軍塚」の石碑が立つ。
鎌倉攻めの時ここに一時逗留し、塚に旗を立てたことから呼ばれるようになったという。
その手前には、徳蔵寺に保管されている「元弘に板碑」のあった場所を示す「元弘青石塔婆所在地」の石碑が立っている。もと八国山中腹にあった永春庵の境内で、永春庵が廃寺となって徳蔵寺に移り板碑も移されたという。

悲田処跡
 将軍塚から100mほど西に進み、山を北側に下りるとすぐに住宅街となる。
この道も、南の正福寺の近くを通って北へ進む旧街道の一つである。、下る途中の斜面に公園があり、武蔵国悲田処跡の標柱が立っている。
所沢市教育委員会が建てたもので、何ヶ所かあるその場所の候補地の一つである。

吾妻橋
 道ははっきりしないがこの悲田処跡から北に進み、吾妻橋で柳瀬川をわたり、さらに北に向かうのが旧街道のひとつである。
先に進むと緩やかな坂道を上ると、左側の南陵中学校の脇に推定『東山道武蔵路』という説明板がある。東の上遺跡の調査で7世紀半ばから後半にかけてつくられた道路跡が発見されたという。
この道は、西部池袋線の踏切をこえて、南小学校の西側で、東南方面から来るもうひとつの旧街道と合流する。
吾妻橋までもどり、そこから東に進んで長久寺にいく。

長久寺前の旧街道
 長久寺の前で、勢揃橋の北側から西北方面に進んできた旧街道にぶつかる。久米川宿の北を進んで、柳瀬川(久米川)を渡ってくるもうひとつの旧街道が、ここに続いているのである。東側の豊川稲荷の鳥居と長久寺の参道の入り口の間に「旧鎌倉街道」という石柱が立つ。


長久寺
 説明板によると長久寺の開山は、玖阿弥陀仏(玖阿上人)で、元弘3年(1333)前後という。
玖阿弥陀仏は、徳蔵寺に所蔵されている「元弘の板碑」を立てたといわれている。

長久寺西側の旧街道
 長久寺から西北に向かう旧街道は、古い街道の雰囲気を残して緩い坂道となって丘陵を上り、西武池袋線で途切れる。
その先、南小学校の西側で南から来たもう一方の旧街道と合流する。
 この先旧街道はまっすぐ進むが、広い道路を越えたあたりは、再開発中で道路の整備が大々的に行われていた。
工事中の道を東に進み、所沢駅にいく。
散策日  2009年11月9日  西国分寺 - 所沢

参考
「旧鎌倉街道 探索の道   上道編」 芳賀善次郎著