鎌倉 上の道 6.中河原-西国分寺 地図: @中河原−北府中 A北府中−西国分寺
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中河原駅前 |
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中河原駅前北にに出ると、広い自動車道の今の鎌倉街道が走っており、そこから東北に向かっている自動車道が西回りの新田義貞鎌倉攻めのルートである。 北口の 「ライフ」のビルの脇に真新しい祠が立ち、西向庚申塔がある。真西を向いているのは、希である、という。また鳥居もある。 |
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八幡神社 |
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ビルの裏にまわり、京王線のガードをくぐり、東へ500mほど進むと南町4の信号の右に公園があり、八幡神社がある。 ここからいかにも古道らしい道幅で、北東にすすむ。 |
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三千人塚 |
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中央道の高架下の信号から、東に行き、三千人塚を見に行く。 下河原緑道通り過ぎた先の信号で、左折し50mほど北に行くと一本の高い木があり、根元に塚があって、板碑が立っている。康元元年(1256)という。 江戸時代の「武蔵名勝図絵」などにも紹介されている由緒ある塚で、分倍河原の合戦でなくなった3000人の戦死者を埋葬したものという伝承があったという。 調査の結果は、江戸時代の火葬者を埋葬した墓地であることが分かったという説明板がある。 |
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下河原緑道 |
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高架下を通り、旧街道までもどり、さらに北東に進む。旧街道は中河原駅と府中本町駅を結ぶ道路にでる。三小前信号である。 その東に南北にまっすぐ通る下河原緑道がる。 旧国鉄下川原線の跡地を利用して整備された歩行者自転車専用道路である。 |
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坪宮神社 |
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すぐ東側の細い道を北にいくと、小さな林に中に小さな社がある。 「大国魂神社 摂社 坪宮」とある。 以前は、坪宮神社であったという。 芳賀氏によれば、大国魂神社の祭礼時、全神輿が御旅所に揃うと、その旨をこの神社に奉告することになっているというから、重要な神社であった、という。 元の道に戻り、府中本町駅北側の南武線を越えて、大国魂神社に行く。 |
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善明寺 | |||
府中街道に出る前に善明寺がある。 ここには、国重文の建長7年(1253)鋳造の阿弥陀鉄仏坐像とその胎内にあった阿弥陀鉄仏立像があるという。 |
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大国魂(おおくにたま)神社 |
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由緒によると、第12代景行天皇の時代に大国魂大神の託宣によって創立された、という。 大化の改新の時に、武蔵の国府をこの場所に置くようになり(*)武蔵国の六社をここに勧請・祭祀し、武蔵総社または六所社と称した。(それまでは、国府の国司は領内の神社を巡拝することになっていたが、国司の手数を省くため、国司の所在地近くに領内各地の神社を合祀した・・古代の祭・政一致の姿) 明治4年、「大國魂神社」に改名。 今の本殿は、寛文7年(1667)のもので、境内にある鼓楼は嘉永7年(1854)に再建されたもの。 境内のケヤキと、鳥居から北に続く馬場大門のケヤキ並木は、康平5年(1062)、前九年合戦平定の際源頼義・義家親子が、ケヤキを奉納したことに由来する。 *神社の境内と東側一帯で発掘調査が行われ、武蔵国の国衙があったことが分かった。 |
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高札場 |
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神社前(旧甲州街道)から西の府中街道との交差点にある。 「甲州街道と鎌倉街道の交叉するところ、大国魂神社御旅所の柵内にあり、屋根を有する札懸けで、これに6枚ぐらいの高札が掛けれれていた」という。 その前に、慶安の頃(1648-52)開設された甲州街道の説明のある標柱がたている。 創業1860年の中久本店の古い建物 (向かい側) |
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鹿島坂 |
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旧甲州街道を西に向かうと、下河原緑道がある。この左の坂は、鹿島坂といい、説明板によると、「大国魂神社の5月の例大祭の『国造代奉幣式』の行事で、使いが神馬に乗って坪宮神社に行った後、この坂を上り神社へ奉幣したというもので、その役を担っていた鹿島田家のちなんでつけられた」という。 | |||
高安寺 |
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すぐ先の左が高安寺で、平将門の乱の時に、藤原秀郷の居館があった所という。その後、足利尊氏が以前の見性寺を安国寺として再興し、尊(高)氏の一字をとって高安寺とした。二階建ての大きな山門で、広い境内を持つ。東側には18世紀前半の特色ある観音堂が建っている 南や西の方は崖や谷で、、旧街道にも面しており歴史上しばしば戦略基地になったという。 |
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旧街道は、高安寺の東側を善明寺との間を通って北に向かい、府中街道と合流して国分寺方面に進んでいる。 今回は西側のルートも見るため、まず距離的には少し戻ることになるが、高安寺の東側を南にくだることにした。 分倍河原の駅前ある新田義貞の騎馬武者姿を見ながら、分倍河原の古戦場の碑まで行く。 |
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分倍河原古戦場碑 |
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一旦、旧街道の光明橋(分梅駐在所信号)まで行き、そこを左折=東に向かい、京王線のガードまで、以前の石碑が建っていた場所を探しにいった。芳賀氏の地図には、現在地に移る前の場所がマークされていたので、まだ何か痕跡があることを期待したのであるが、何も見つからなかった。 分梅駐在所信号まで戻り、南に進み、中央道を過ぎた左側に新田川緑道への入り口がある。そこに分倍河原古戦場の石碑が建つ。(記念碑は新田氏の子孫で元男爵新田義美の筆によるという。昭和10年に建てられ、昭和63年にこの地に移転したという。) |
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元弘年(1333)久米川合戦で勝った新田軍は、5月15日、この地に進出して合戦となったが、北条軍にあらたに大群が加わったため、敗れて埼玉県の堀兼まで敗走した。翌16日、坂東八平氏や武蔵七党が新田陣営に参加し、双方10万の大軍が入り乱れての決戦で、ついに北条軍を破り、鎌倉まで攻め込んでいった。 |
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光明院坂 |
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このあたりから、北に向かうのが旧街道のもう一つのルートである。 もと来た光明橋の交差点には、分梅の由来の説明板や、西北のコーナーに、光明院坂の石柱と説明板が建つ。 光明橋の石柱→ |
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光明院 |
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坂の右側には、光明院があり、境内左の池には竪琴を持った弁財天像がある。 | |||
高倉塚古墳 |
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少し進んだ踏切の右手前に、サインがあり50mほど中に進むと高倉塚古墳がある。 6世紀前半の土師器杯が出土し、このあたりに25基の古墳群が確認されているという。 踏切を渡ると、この旧街道が陣街道と呼ばれた由来を書いた石柱が立っている。 |
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八雲神社と元応の板碑 |
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踏切を過ぎるとすぐ左に八雲神社がある。説明板によると、天王宮として祀られていたが、明治以降八雲神社と改称した分梅(分倍)地域の鎮守である。 境内右の道の脇には、元応3年(1319)に建てられた板碑(樫の木に食い込むように立っていたので「抱き板碑」とよばれる)がある。 表面は風化しているが、大蔵近之なる人物が泣き父親の「道仏」の十七年忌の供養のために建てたものと解釈されているという説明がある。 |
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浅間神社と屋敷分の庚申塔 |
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すぐ先左に浅間神社があり、その前の道路わきに、屋敷分村の由来の説明板があり、また、鳥居の右手には、庚申塔がたっている。 きれいに整備されている立派な延宝2年(1674)建立の笠付庚申塔である。 |
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東芝への道 |
府中インテリジェントパーク方面 |
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旧甲州街道、甲州街道を横切り、さらに府中四中を回って北に向かうが、すでに住宅街が出来上がって旧街道ははっきりしなくなる。東芝府中事業所にぶつかってから、東にすすみ府中街道に出る。 武蔵野線の陸橋から見た南方面はビル化している。 |
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府中街道-北府中駅前 | 府中刑務所 | ||
府中街道を北に進み、府中刑務所角の信号を左折し、ガードをくぐったさき100mほどで北に向かう。 東芝で途切れた旧街道の続きという。 |
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武蔵国分尼寺跡 |
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広い自動車道を信号のある場所でわたり、さらに北に進む。 黒鐘公園があり、手前に国分尼寺跡がある。 国府(今の府中市)から真北に延びる東山道武蔵道を挟んで東に国分寺、西に国分尼寺が造られた。 中門跡、金堂跡、尼坊跡などが発掘されているが、全体の配置ははっきりしていない 金堂跡→ |
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旧街道 | |||
国分尼寺跡の北側に200m弱ではあるが、当時の姿を残す道がある。途中左側の一段高くなったところに、祥応寺跡と伝わる鎌倉時代末頃の建物跡があり、切通しを挟んで反対側には中世のものと思われる塚がある。 この先、旧街道は武蔵野線で途切れる。 伝 祥応寺跡 |
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西国分寺駅へ |
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歩道橋を渡って府中街道に下りるが、その手前に旧街道からの合流点がある。 西国分寺駅のあるJR中央線までは両側に高層住宅が立ち並んでいる。 今回、時間の関係で行けなかった武蔵国分寺には、翌週出かけた。 |
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武蔵国分寺の散策 |
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東山道の遺構 |
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国分寺駅からまず国分寺公園にいき、公園の西にある高層アパートとの間にある「東山道」の遺構とその説明板を見に行った。 大化改新後の中央集権国家の成立と共に、、都と国府を結ぶ道路として東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の七道が整備された。 そのうち上野国-武蔵国-下野国を結ぶ往還路は、東山道武蔵道と呼ばれ、650-675年ごろ完成し11世紀中頃まで使われていたという。 実際の遺構は約1mの地表下に保存されている。 |
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国分寺付近の地図 | |||
奈良時代中頃、天平13年(741)聖武天皇の詔によって、鎮護国家のために日本全国に僧寺と尼寺が造られたが、武蔵国分寺の創建は、750年代末から760年代初と推測されている。 武蔵国の国府(現府中市)の北の広大な平地と、東西につらなる丘の麓には、豊かな湧水をもつことで、この地が選ばれたという。 寺の敷地は僧寺、尼寺あわせて東西8町(約900m)南北5町(約550m)と推測され、また僧寺の中心伽藍だけでも一辺3町半(約360m)ということで、ほかの国分寺が2町四方というのと比較して広大なものであった。 |
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薬師堂 |
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広い国分寺公園を南にいき、薬師堂にはいる。分倍河原の合戦で国分寺が焼失した後、建武2年(1335)新田義貞の寄進により、今の金堂跡付近に建立されたものと伝えられている。 宝暦年間(1751-63)に、現在地に再建された。 |
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仁王門 |
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薬師堂と同じころ、 宝暦年間(1751-63)に建立された。 使用されている建築材は、旧薬師堂に使用されていたものを再利用したと伝えられている。 門の左右には、阿(あ-口を開いている) 吽(うん-口を閉じている) 二体の仁王像が安置されている。享保3年(1718)造立。 |
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国分寺 と 万葉植物園 |
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今の国分寺は、享保18年(1733)に本堂が建立された。 境内には、「万葉集」の当時の歌人が好んで歌の題材にした植物が集められている。 名前、歌、作者等の説明がつけられており、約160種の植物があるという。 |
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国分寺 楼門 |
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この門は、前沢村(現東久留米市)の米津寺(べいしんじ)の楼門を、明治28年(1895)に移築したもので、江戸時代の建築様式をよくとどめているという。 | |||
真姿の池湧水群 |
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門の東側の、「お鷹の道」とよばれる遊歩道の先にある。 お鷹の道・・・寛延元年(1748)から慶応3年(1867)まで、国分寺の村々は尾張徳川家の御鷹場に指定された。ここの崖線下の湧水を集めて流れる川沿いの道を、お鷹の道と呼んだ 国分寺崖線・・・国分寺から小金井を経て世田谷の等々力渓谷までの標高差が15mほどの崖の連なりのことをいう 真姿の池の由来は説明板によれば 『嘉祥元年(848) 不治の病に苦しんだ玉造小町が、病気平癒祈願のため国分寺を21日間参詣すると、一人の童子が現れ、この池に案内され、水で体を清めるようにいわれた。すると病は癒え元の美しい姿に戻ったことから、人々は「真姿の池」と呼ばれるようになったという伝説からきている』という。 |
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武蔵国分寺跡 |
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国分寺楼門の南側に広い範囲にわたって僧坊跡が残されていおり、発掘調査結果の説明板や位置を示す石柱などがたっている。 北に講堂、南に金堂、その中間左右に僧坊があり、その南、中心線上に中門があり、また東南の方向には七重塔跡がある。 金堂跡 七重塔跡 |
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南大門の跡はまだ明らかになっていないというが、金堂から南大門を通って南の国府(府中市)に行く道は、一直線に続いており、薬師道といわれているという。 |
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ここから府中街道=旧街道にでて西国分寺駅に向かった。 | |||
散策日 | 2009年10月9日 2009年10月16日 |
中河原-西国分寺 国分寺−西国分寺 |
参考 |
「旧鎌倉街道 探索の道 上道編」 | 芳賀善次郎著 |