鎌倉 上の道  
5.永山-中河原     地図: @野津田-永山  A永山-中河原

 

 町田市の野津田から 永山、関戸を経由して多摩川を越える。
前回訪れた野津田から小野路までのもうひとつのルートを訪れることにする。

芝溝街道からの上り
 町田駅からバスで神学校前で降り、緩やかな坂道を上った。
本来の旧街道は少し先の野津田車庫バス停付近から上るようだ。

                 



                   芝溝街道

道の風景
 左側に学校が見える手前で、右側からの階段がある。旧街道の登りのようだ。
その先に神学校の入り口があり、左折して、野津田高校の端をすすむと、陸上競技場がみえる。           

                   神学校入口

野津田公園-陸上競技場
 このあたり旧街道の面影は全くなく、前回に行った東側のルートにまでひろがる野津田公園として整備されている。15万平方メートルの広さという。

競技場の入口に向かうが、左手の駐車場を過ぎたところに南北にはしる細い道が交差している。旧大山道である。左側角の大きい木の下に塚が盛られて、「おおやまみち小野路一里塚」という石柱が立つ。

小野路の一里塚
 説明板によれば、この一里塚は、元和元年(1617)久能山に埋葬した家康の遺骨を日光東照宮に移した時に街道整備とともに造られたという。
小野路の宿は鎌倉時代からあったが、江戸中期に盛んになった大山詣での道としても、にぎわいをみせ幕末には旅籠が6軒あったという。
東海道の一里塚は五間四方だが、小野路の一里塚は一回り小さいという。
 <今の地図と大山道>        <幕末の小野路の絵図クリックして拡大クリックして拡大
石仏の祠
 西北への下り坂となり、途中に嘉永5年(11)の銘のある石地蔵など石仏数体がある祠が立ち、また道端の小さい石仏にも、花が供えられている。

小野神社の風景
広い自動車道に出て、さらに下ると小野神社がある交差点である。




小野宿-小島家
ここには小島資料館があり、、新撰組・自由民権運動関係資料、近世・近代文書が収められている。開館は、第一・第三日曜日午後ということで残念ながら見学できなかった。
 
 前回、北に丘陵を上った地点よりも100mほど西に行ってから北にのぼり、一本杉公園の端を通って、恵泉女学園まで行った。
道端には、石塔や石仏もあり(石仏は寛延3年(1750)とあり、道祖神か?)、前回の東側にあった上の道の本道の脇の道として古くから使われていたようであった。
   

一本松公園

多摩市から移築された18世紀の住宅

多摩ニュウタウン
 恵泉女学園の裏で、前回通った旧街道と合流する。
多摩ニュウタウンの南端をはしる広い道路を横切り、豊ヶ丘と貝取の中間にあるまっすぐ北に延びている貝取大通りを進む




右手の小高い丘には大福寺がある。

貝取神社
 左手の丘には、貝取神社があり、境内には嘉永5年(1852)の地蔵尊や、龍を模した変わった石仏などがある。  

乞田川
 京王相模原線/小田急多摩線のガードをくぐり、乞田川を渡る。多摩ニュータウン通りを右に進み、乞田交差点にでる
 
 ここから旧街道からかはずれて、小野路の西から北に向かっていた旧官道が通っていたという数百メートル離れた稲荷塚古墳に行く。

稲荷塚古墳
 乞田交差点を北に進み、左手にサミットのある三叉路の手前を左折して200mほど西に入った所にある。
7世紀前半の古墳で、塚の上に恋路稲荷神社がある。

旧官道は、このあたりを経由して北進し、聖跡桜ヶ丘駅付近を通り、府中に向かっていたという

熊野神社
 
 乞田交差点にもどり、自動車道の鎌倉街道の北側に並行している旧街道を進む。多摩市役所を過ぎて間もなく左手に熊野神社がある。

霞ノ関南木戸柵跡


 ここは建暦3年(1213)に鎌倉街道に設けた木柵の関所の、南木戸があった所で、霞ヶ関と呼ばれていた。
熊野神社の参道に沿って木戸と柵跡が発見された。











 熊野神社から乞田川の低地が一望に見渡せるところで、 旧街道の東側でも柵跡が発見されており、旧街道を遮るよう乞田川付近まで柵があったと考えられている。


観音寺への道・・・北木戸柵のあった所
 すぐ先の観音寺への上がり口では細い関戸川が流れて乞田川に注ぎ、ここに、北側の木戸が設けられていた。クリックして拡大

 霞ヶ関は、鎌倉にとって、北の入り口であり、守りでもあった。
町名を関戸といい、小田原北条時代には、関銭を徴収したという。

観音寺
 その坂道の右側に観音寺がある。このあたりは、往時 処刑場であったといい、関所での不審の者が捕えられ処刑されたものという。
左手には、石仏の六観音像がある。

関戸古戦場跡

 その先200mほど行くと左側に地蔵堂があり脇に関戸古戦場跡とかかれた標柱がある。 
 元弘3年(1333)鎌倉幕府は、小手指・久米川の戦いで敗れ、5月15日新田義貞の軍勢を迎え討つべく北条泰家(北条高時の弟)を大将として分倍河原で対峙した。援軍-桜田貞国を得た幕府軍は、新田軍を撃破し、新田軍は狭山まで退却した。(この時国分寺焼失)
翌5月16日新田軍は、未明に幕府軍を急襲し、幕府軍は敗走、関戸の戦いで壊滅的な打撃を負った。泰家は横溝八郎や安保(あぼ)入道道忍の奮戦により無事脱出できた。


横溝八郎の墓
 地蔵堂の脇を丘陵に向かって登ると、右手に民家の庭があり、横溝八郎之墓 延命寺という石碑がみえる。
先ほど通過した観音寺の手前、左手には、小山家があり、その庭には安保(あぼ)入道道忍の墓があるという。

両名とも北条方の武将で、関戸の戦いでここに踏みとどまって北条泰家を守り、戦死した。

延命寺
 そのまま細道を上ると、突き当たりに延命寺の門が見える。
江戸時代に『万葉用字格』の著者 僧 春登が文政6年(18323)に間居した寺として有名とのこと。

天主ヶ台・金比羅神社
 少し戻ってから、この丘陵に登っていくと(住宅が立て込んで分かりにくいが山頂を目指す)、金比羅宮と刻まれた石碑のある神社がある。天主ヶ台と呼ばれる城跡である。
分倍河原で敗れた北条泰家はここで立て直しを図ったが反撃できず、鎌倉に脱出した。

多摩川の対岸-分倍河原方面
城跡の北側をくだり、大栗川沿いに、旧街道にもどる。

多摩川
 今の鎌倉街道の関戸橋で多摩川を渡る。

そのまま直進すると京王線中河原駅である。
散策日  2008年11月21日   町田駅-野津田-中河原

参考
「旧鎌倉街道 探索の道   上道編」 芳賀善次郎著