鎌倉 上の道  
3の別ルート  瀬谷-南町田-町田     地図: @瀬谷-中屋敷   
                                   A中屋敷-南町田 B南町田-町田

 

 前回、瀬谷の南にある全通院から境川に沿って南町田に向かったが、今回はもう一つのルートである相沢川沿いのルートを散策することにする。

 南町田から北に向かうルートも二つあり、本道(と思われる)の成瀬から恩田川沿いに北に向かうルートと、境川に沿って町田経由で北に向かうルートがあるが、今回は、南町田から境川に沿って町田まで進むことにする。

 瀬谷駅の南口に降りて、東に向かう複雑な細い道をくだって相沢川を渡る。全通院からここまでの道はスキップし、ここを今回の出発地とする。川に沿って南北に通っている道が、全通院方面からの旧街道であり、そこを左折して相鉄線のガードをくぐる。

長天寺
 瀬谷柏尾道路に出て左に向かうと長天寺である。
創建は応永元年(1394)。
、明治22年(1889)市町村制の公布にもとづいて、瀬谷村、二ツ橋村、宮沢村が合併し、瀬谷村となり、初めての村役場をこの長天寺の客殿に置き、大正5年(1916)に新しい村役場が建設されるまで使用された、という。
 寺の北側には、飛鳥・白鳳時代(604−708)頃の横穴古墳跡がある。


                横穴古墳跡

諏訪神社
 旧街道に戻り、北へ行くと、右側に瀬谷の鎮守、諏訪神社がある。
説明板によると
「言い伝えでは、治承4年(1180)石橋山で挙兵した頼朝は、房総から武蔵を経て相模入りした時、治10月6日、この神社に一泊した。
翌日、郷士相辺沢六郎義氏(相沢六郎)相辺沢七郎義村(相沢七郎)の先導で、隣村の飯田家義と共に、俣野村で俣野五郎景久、大庭景親をやぶり鎌倉入りした」という。

道の風景−石塔
 神社から300m弱でT字路となり、左に向かい相沢川をわたり、西の台地に向かう。十字路に石塔がある。
すり減っており、不明。

道の風景
 途中二手に分かれる道を北西に向かう。台地常は一部畑や梅林が残るが、急速に住宅地として開けているところである。
やがて南北に一直線の伸びている広い道路があり、そこを越えていく。
 
(この道路は海軍道路と呼ばれ、瀬谷中学校から北の16号線まで南北に3kmに渡っており、桜が植えられている。)

道の風景
越えた道は下り坂となり、大門川とぶつかる。旧街道はここから川に沿って進んだようであるが、わからないため、直進して坂をあがる。バス道に出て、北に向かう。

中屋敷
 バス道を北に進み、中屋敷にはいる。両側が開発中であり信号機ができたばかりの交差点(右に進むと地域ケアプラザ)を越えて次の道を右にはいる。
台地上をすすむみちで、上瀬谷小学校を目指して進む。
途中の角に、明治10年代の馬頭観音が立つ。

五輪塔
上瀬谷小学校の西側で、細い道を左にはいり、竹林をある方向に進む。(わかりづらい)
奥まった所の左側に、2基の五輪塔が立つ。 また、墓地の隅には板碑もたつ。
芳賀氏によれば、境川流域に、五輪塔や板碑があるのは珍しい。近くに妙光寺があることからで、また鎌倉街道があったことの証明である。という     
牢場坂
 大門川あたりで消えた旧街道は、台地を越えて墓地とこの牢場坂あたりに来ていたという。上瀬谷小学校まで戻ると、北角に信号があり、左折する。切り通しで、左側に説明板が立っている。
「宝暦年間(1449-51)頃、小田原北条早雲の家臣で、相州東部の守りにつき、深見城に威勢を張っていた藤原朝臣伊賀入道経光が設けた牢場が、鎌倉道沿いに置かれていたために、この地名がついた」という。




牢場坂を下った交差点が、前回たどった妙光寺の前の道となる。
交差点の北へ100mほどすすみ、右に坂道を上る。
ここから南町田までは、つくし野→成瀬を通る本道となる。

丘の上の道
 丘の上を南北に通る広い道を北に進む。
その先のリサイクリングセンターの所をまっす100m行くと、東名高速の歩道橋である。 
すぐに八王子街道で、信号を渡りまっすぐに北に進む。 工場街をこえると、住宅街が続く。
旧厚木街道にでる。      

東名高速東名高速

庚申塔
 大ヶ谷戸バス停があり、道路を越えた右側コーナーに真新しい灯籠とともに、正面に庚申塔と刻まれた塔がある。
文久三年鶴間宿


 道はさらにまっすぐ北に向かうが、246号線で途切れる

大塚
 ゆったりとスペースをとった歩道橋で、246号線を渡って、北に進むと、右側ビルの隣に樹木の生えている大塚と呼ばれる高さ4mほどの塚がある。
頂上には、御獄神社と刻まれた真新しい祠が立っている。

 旧街道は、このまままっすぐ北に進み田園都市線を越えて、町田街道の小川原の交差点にいく。

今回は、境川沿いに北上して町田に行くルートをたどる。

熊野神社
 南町田の駅前を抜けて鶴間公園の北西端まで行き、北にすすみ、大和バイパスのガード下をくぐると、今まで広かった道幅も狭くなり旧街道の様相となる。右側高台に熊野神社が見える。
 本殿は新しい。
創建年代は不詳だが、熊野本宮大社を勧請している。享保11年(1726)本殿造立し、その後何度か再建、という。

町谷八坂神社
 その先右側の坂の途中に小さな八坂神社があり、手前道端には、2基の庚申塔が立っている。

北に進み、東西にはしる自動車道と交差する。(町谷の十字路)
旧街道は、ここから北/北西に進む。

浅間神社
 北に進む前に、西の境川をわたり、浅間神社にいく。
鶴間橋をわたり、150mほど行くと左側にある。「公所浅間神社」という説明板があり、
「創立年代は不詳であるが、源頼朝が創建したといわれる。亀神名録に鶴間神社と登載され、相模八十一社の巡拝所の一つとして、また鶴間郷の総鎮守として古くから崇敬されてきた」という。
大和バイパスの新設のため、西のつきみ野から、昭和50年ここに移転した。

<義経の財宝伝説>

 義経が腰越から京に追い返される時、下鶴間を通った。浅間神社境内で一休みしながら空を見上げると、一羽の鶴が鎌倉目指して飛んで行くのを見た。それを見た義経は、頼朝に土産として持ってきた財宝を境内に埋めて立ち去ったという。


常楽寺
 町谷の十字路まで戻り、北に100mほど行くと、左側に常楽寺がある。
芳賀氏の本に書かれている「薬師堂」を探したが、見つからず、土地の人にいろいろあたった所、この常楽寺が、新たに立て直したものということである。
また、少し北には地蔵堂があった。

杉山神社
 ここから杉山神社まで、旧街道は消えている。
常楽寺の前を西に行くと、南北に幅の広い新しい道路ができており、横切って、入り組んだ道を北西方向にいく。
大きいイチョウの木を目安に、杉山神社を探した。
入口には、元禄11年(1698)の庚申塔がたっており、境内・本殿とも、こじんまりしている。
西側に旧街道があり、北に向かっている。
古道の趣そのものである。

道の風景
 北にほぼまっすぐ進み、町谷十字路の西から北に向かっている広い自動車道と合流する。切り通しや、庚申塔は拡張工事でなくなっている。
金森天神山市民の森が右側にあり天満宮がある。
入口に「江戸時代、には、この付近を小名名『時宗久保』と呼ばれていた(金森文化遺産保存会)」と書かれた杭が立っている。

杉山神社
 大規模な都営町田金森アパートが両側にならび、その先で自動車道は右折して町田街道に突き当たるが、旧街道はそのまま細い道となって北へ進む。200mほど先、左手奥に杉山神社がある。
天和3年(1683)創立という。
境内には近隣にあった地神塔や、庚申塔、日待塔、道祖神など多く集められており、説明板にはそれぞれに名前や意味が書かれており、とても分かりやすい説明となっている。
町田天満宮
 先でJR横浜線にぶつかり、旧街道は消えるが、少し先に町田天満宮がある。
天正10年(1582)頃の創立で、本町田菅原神社、南大谷天神社と共に町田三天神と呼ばれる。

旧街道はここから、町田第一小学校、町田第一中学校の所を通って、菅原神社に向かっていたという。

散策日 2008年2月29日 瀬谷−町田

参考
「旧鎌倉街道 探索の道   上道編」 芳賀善次郎著