鎌倉 上の道  
3.上飯田-南町田     地図: @上飯田-瀬谷   A瀬谷-上瀬谷
                                    B上瀬谷−南町田

 

 いずみ中央駅から西に行き、上飯田団地入口の交差点を北に進む。無量寺を右に見て数百メートル進むと、右側に飯田神社がある。

飯田神社
 祭神は左馬頭(さばのかみ)源義朝で、境内に立つ石碑に刻まれている由緒によれば、
 「勧請年代は定かではないが、社伝に『延応元年(1239)に飯田三郎能信、当郷の地頭に復するや厚き奉幣の儀あり、(さら後北条時代の))知行平山源太郎の崇敬特に深かりし社なり』と伝え…中略・・・新編相模風土記稿に『飯田明神社、鯖明神とも唱ふ、村の鎮守なり、稲荷、山王を合祀す、村持』とある如く 境川添いに祀られている往古からの相模七鯖の一社で境川の神としての幾多の伝承も残されている」という。

鳥居前には、数基の庚申塔や道祖神、地蔵像などが建っている。庚申塔の一部は、享保9年(1724)、宝暦9年(1759)、明和3年(1766)と刻まれており、また左側の庚申塔は「北 八王子道  南 藤沢」とある。


バス道からわかれる 
 飯田神社脇を通るバス道路から分かれていちょう団地の方向へはいる細い道があり、古い石柱が建つ。ここが旧街道であろうか?
  
その先で団地と並行して北に向かう道となる。。       

道祖神
 新しく「せせらぎ緑道」として整備されている道の東側の細い道が古道の面影がある。その先いちょう小学校の東側を進んでいくと、道祖神と二十三夜塔が立っている。

本興寺
 その先の右手の坂を上がると本興寺がある。立派な仁王門があり、広い境内できれいに整備されている。
本興寺は、日蓮の門弟の一人天目が延元元年(1336)鎌倉に建立し、のちに江戸幕府の弾圧にあったことから日蓮ゆかりの地であった飯田村に万治3年(1660)に移転したといわれる。(鎌倉の本興寺は廃寺となったがその後再興された)
仁王門は、天明5年(1785)建立という。

道の風景
 もとの旧街道に戻り、新幹線のガードクリックすると拡大をくぐると、しばらくは古道の雰囲気のある道が続く。右側に羽太郷土資料館があり(休みだった)、道の脇に「江戸柳明(やなみょう)古地図」と書かれた掲示板がある。
道の風景
旧街道から外れて右側の台地に上る途中に、2基の道祖神がある。

柳明神社

 坂を上がりきると柳明(やなみょう)神社がある。村境の伊勢山に祀られていた神明社を、もとこの場所にあった大石寺が廃寺になったため、社殿を新築し移したという。
境内には、大石寺の本尊であった行基作と伝えられる十一面観音菩薩を安置した観音堂がある。
前に六地蔵とともに、「当寺本尊十一面観世音」大石寺と刻まれた宝暦10年(1760)の石塔が建っている。

道標

 神社の北側の十字路には、地神塔が立ち道標となっている。
「南 大山道 北 八王子道」  文久元年(1861) と刻まれている。

道の風景
  もとに戻り北に進むが、大きな門構えの農家や、田園風景が広がり、その先で境川の支流の相沢川にぶつかり、右側を並行して進む。途中で道がなくなり川の西側に渡り下瀬谷小学校の脇をすすんでバス道に突き当たる。
          相沢川
  

全通院勢至堂
 バス道の東側高台に全通院がある。
寛永の頃(1600年代)、下瀬谷の仙田氏一族の菩提を弔う阿弥陀堂として建てられ、その後、勢至菩薩が本尊として祀られたという。
現在のお堂は、寛政9年(1797)建立。
 また、境内の説明板によれば、明治23年(1890)に、瀬谷小学校の分教場がこの境内に設けられ、昭和18年まで約50年間続いたという。



旧鎌倉街道探索の旅(上道編)の芳賀氏によれば、ここから上瀬谷まで、相沢川沿いの道と、境川沿いの道の二つのルートがあったという。
 今回は、境川沿いを行く。

宗川寺
 全通院の石段下から、歩道橋を渡って西に向かう道をすすむ。少し先から西北に向かい、500mほど先で中原街道と交差する。横切った右側に宗川寺がある。
前に瀬谷区の説明板がある。寛永2年(1625)の建立という。境内の左右の大イチョウは、夫婦銀杏と呼ばれ昔から縁結び、安産祈願に信仰を受け多くの参詣があるという。境内の庭の砂利石がきれいに模様付けられている。
 また、この東側80mには、小田原北条氏以後、問屋場が設けられ、特に江戸時代には中原街道 江戸-平塚間の中駅-瀬谷駅の問屋場として270年間その役割を果たしたという。

庚申塔
 脇の道を北にすすみ、左馬神社の手前に庚申塔・地神塔・道祖神がならぶ。
庚申塔は元禄年間(1688-1704)、ほかは明治年間。

左馬神社と西福寺
 祭神は源義朝で、境川流域にある左馬/鯖神社が11社あるうち、「七サバ神社」の一つという。
隣の西福寺が別当寺だった関係で境内に鐘楼が残るが、神社境内にあるものは瀬谷区内では唯一という。
北側に広い木立の中に西福寺がある。創建は天文3年(1535)と伝えられ、西の境川まで広い寺域をもっていたという。

古い石塔
 北にいくと厚木街道が通り、信号を越えて200mほど行った三叉路に杭で囲まれ、かなり古くて表面が摩耗している地神塔と上部しかない道祖神(?)が、まるで古道であることを証明するかのように、真中に立っている。

大六天
 相鉄線のガードをくぐり、大門小学校をすぎた右側に、金網で囲まれた「大六天」という標識のある盛り土されたコーナーがある。
「xxxxx権現」と刻まれた大きい石碑が立つ。

徳善寺
 右奥に、高く大きな山門がみえる。
弘治元年(1555)の建立という徳善寺である。

 大門小学校の前の道まで戻り、北に向かう。大門川を渡った先のT字路の左に道祖神が見える。明治20年とある。そこを北に進むと日枝社である。境内はひろく、樹齢300年以上、樹高35mのケヤキが、社殿横にそびえる。

道祖神                 日枝社               日枝社の大ケヤキ
    

 500mほど進むと右側に神明社があり、中屋敷にはいる。大きなケヤキが両側に並び、立派な民家が連なる。そのうちの一本の大木が横浜市の名木古木に指定されている。 立派な門構えを持ち、また懐かしい脱穀用の木製の機械がが壁に掛けてある。

瀬谷神明社

横浜市名木:ケヤキ
    
     

中屋敷地蔵尊
 中屋敷中央公園の手前の角に天保11年(1840)の石塔と、道祖神、、地蔵堂が建つ。




                ロウバイ

瀬谷銀行跡
 その先向かい側の広い屋敷のあるところが、瀬谷銀行の跡で、説明板がある。
 養蚕業が栄えた頃、明治40年(1907年)に開業し、30年にわたり地域金融業の中心となり、実業界・政界に影響を与え、地域の発展に寄与した。頭取小島家は代々政五郎を名乗りで、明治・大正・昭和の初期まで村行政に功績を残した、という。

 すぐ先が、弘明年間(1555-1557)に甲斐の武田氏の士族により創建されたという善昌寺で、その先
T字路を右に上がるとバス道路につながる。そこに北向地蔵尊がある。その先約200mで妙光寺である。

善昌寺

北向地蔵尊
          七体の地蔵尊   

妙光寺
 説明板によると 「寺の縁起によると、孝徳天皇の白雉3年(652)明光比丘尼が建てた庵で、明光がなくなりその後、大同年間(806-809)に弁通が天台宗福昌山明光寺としました。弘安5年(1281)9月17日、日蓮上人が、ここに一泊しました。そのときの住職文教は、教化を受けて改宗し、寺名も蓮昌山妙光寺と改め、日蓮上人を開山として、自らは二世なった。」という。
 
芳賀氏によると「日蓮は弘安5年(1282)身延山から池上本門寺にいく時、足柄峠を越えて相州に入り、9月15日に関本の弘行寺、16日平塚の要法寺、それから相模川沿いに上り用田の辻にでて、飯田から鎌倉街道を北上し、17日にこの妙光寺、18日には中原街道に出て本門寺に行った」という。
 
 また、境内の梵鐘は、中世の関東地方で活躍した鋳物師の物部守光が正中2年(1325)鋳造したもので、由緒深いということで戦時中にも軍への供出を免れ、県の重要文化財になっている。

若宮八幡
 次の信号を右に行くと、切り通しの坂道で「牢場坂」というが、次回に瀬谷から東側のルートを通ってくることにする。
そのままバス道路を進むと、右の一段高くなっているところに若宮八幡宮がある。この先東名高速のガードをくぐり、日経新聞社を過ぎて、右に入るのが旧街道で、その先国道246号に出る前で消えている。
工場街を抜け246号を越えて、境川の鶴馬橋に向かう。

境川・・鶴間橋より
 鶴間橋を渡り、観音寺の前を通って再び境川を渡り、北に向かうと鶴間小学校の東にでる。このあたりに旧街道は続いてきたという。

観音寺
  創建は不明。市指定重要文化財の厨子 は、天文13年(1544)造りで、室町時代の様式 をつたえる。

鶴間公園
 新しく造成された住宅街を抜けると、広大な鶴間公園がある。
 その先、東に東急田園都市線の南町田駅がある。
散策日  2008年1月17日 上飯田−瀬谷-南町田

参考
  「旧鎌倉街道 探索の道   上道編」
  「鎌倉街道夢紀行
上道コース
 芳賀善次郎著
  テレビ埼玉