鎌倉上の道  
2.鉄砲宿−上飯田    地図: @鉄砲宿-下飯田   A下飯田-上飯田

 

 戸塚からバスで鉄砲宿まで行き、そこから東俣野を経由して、境川にそって北に向かう「上の道」をたどる。



東俣野へ
 鉄砲宿で下車し旧東海道を戸塚方面に少し戻る。
藤沢バイパス出口の歩道橋を渡ると、西北に続く旧街道がある。
東俣野に入るが、最初の信号の角、左側に庚申塔や地神塔などが数基並んでいる。、石仏のひとつに、元禄2年(1689年)銘が見える。


東俣野の景色
 下り坂を進むと畑が広がり、西側には真中を境川が流れる田園地帯が見える。
畑の中をさらに数百mすすむと、大きな鳥居が見え、道路と並行して神社の参道の跡がある。

八坂神社入口
 鳥居の前に、四つ角になっており、右手からくる道は、巨福呂坂-大船-植木-城廻を経てくる鎌倉街道がもとになっているという。
ここには、「鎌倉街道西の道」と書かれた「大正地区歴史散歩の会」が建てた説明板があり、またきれいに刈り込まれたツゲの大木の下に、数基の庚申塔などがある。
そのひとつは延宝8年(1680)の銘がある庚申塔で、他にも道標を兼ねた「右 かまくら道」 「左 八をうじ道」と刻まれた庚申塔もある。

八坂神社
 鳥居のさき100mほど下ると、八坂神社 本殿がある。東俣野町の鎮守で、裏が公園になっている。

ちょうど、銀杏の落ち葉がきれいに境内を覆っていた。

龍長院
 すぐ北側に龍長院がある。広い境内で山側から流れる小さな滝もある。寺の地蔵堂には、この地の豪族であった俣野五郎景久の石像が安置されているという。
入口脇に、戸塚観光協会の建てた小さな説明板があり『旧鎌倉街道の道筋』として、「龍長院の南の八坂神社の鳥居を左に折れた堂坂を登り『旧東海道を横切って影取町に入り、大船方面に通じている」とあるが、芳賀氏によれば、今まで歩いてきた寺分からのルートが書かれていないのが残念であるという。
ドリームランド跡
 しばらくの間、畑とビニールハウスの間をすすみ、境川の支流の宇田川にかかる 宇田川橋を渡って俣野小学校を過ぎると北側になだらかな丘とその頂上に高いビルが見える。
横浜ドリームランドがあった場所で、2002年に廃業し、今は俣野公園となり、南側が横浜薬科大学となっている。ビルはホテルエンパイアだったが薬科大学のの図書館棟になっている。
さきを道なりに進むと、明治学院大学のグランドの脇で、信号がありバス道路にぶつかる。

庚申塔
 バス道の向い側に、数基の庚申塔が建つ。
明和4年(1767)や文政12年(1829)の銘がある。その一つが道標となっており、右藤沢道 左戸塚道と刻まれている。

右側の山沿いに北に行ったところには道祖神もある。

俣野神社
 信号を越えて北西に進み住宅地をすぐに右折し、北に向かってう緩やかな坂を上る。突き当たった角に鳥居があり奥に右の台地からつづく森がある。
横浜市の名木に指定されているイロハモミジが左手にある。
参道には水仙がもう花をつけていた。

地蔵堂
 集落を抜けそこから南西に位置する俣野観音堂からくる道に出る。
右折すると、畑の中に地蔵堂が建ち、しっかりと頭巾をかぶり衣を身にまとった地蔵さんが道を見守っている。

庚申塔
 集落を抜け視界が広くなって、街道が北に分岐する地点に、3基の庚申塔が建っている。
左は、笠付庚申塔であるが年代不明、真中のものは、昭和43年-明治満百年とあり、右側面に「至 長後厚木」左側面に「至 藤沢戸塚」と刻印されている。
3基の台座には、右 至 飯田村 と刻まれている。

境川遊水地公園
 右に進み、一部工事中の個所を過ぎると左側に広大な真新しい境川遊水地公園ができている。その境川の河川敷が整備中でありこの道と境川の間に多目的広場が計画されている。
さらに進むと右側に大きな民家のがあり、その脇野道を北側の集落に入っていく。

東泉寺
 すぐに、下飯田の交差点となり、越えると右手高台に大イチョウが見え、東泉寺が見える。境内にある筧(かけい)為春の墓の説明板によると 「徳川家康に仕えた筧為春は、小牧長久手の戦いや小田原攻めの功績により天正18年(1590)、下飯田に知行地として190石を授かり、東泉寺を境川の氾濫から守るためにこの地に移転・中興した」という。
   その北側にある琴平神社
富士塚城址
 東泉寺と神社の前の街道は、この先ずっと同じ道幅を保って北へつづいている。相鉄いずみ野線/市営地下鉄線の高架の手前右側に富士塚公園があり、一段と高くなっ所に富士塚城址の碑が建つ。この碑は、『ここは頼朝延命の恩人である飯田五郎家義の館跡である。』として源頼朝が挙兵し石橋山での戦いで平家方の大庭景親、伊藤裕親に惨敗した時に頼朝を救い、のちの黄瀬川の戦いでの貢献などを掲げ、この地と飯田、中和田という地名の深いつながりを説明している。

下飯田 左馬神社
 数百メートル北に進んだ右側に下飯田の左馬神社がある。鎌倉街道の近くの境川または和泉川に沿って、左馬神社または鯖神社などと呼ばれる神社が12社あるという。いずれも、ほとんどが源義朝が祭神となっており、それは、義朝が左馬頭(さまのかみ)だったからという説もある。、また『七サバ参り』という風習があったというが、明確な由来は不明である。
 境内には、寛延2年(1749)の庚申塔や少し傾いた石仏などがある。
また神社のすぐ西側に農道がバス通りまで短い区間残されており、これが鎌倉街道の名残という。

長屋門
 下飯田のあたりは、風格ある農家が並び、古い街道の面影がある。

また西側をみると広く開け、遠くに富士山を望むことができる。

無量寺
 しばらく北に向かうが、長後方面に向かうバス道路と交差する。信号を越えてすぐ右側に無量寺がある。
由緒によれば、鎌倉の安養院大世深誉呑霊上人が文禄2年(1593)に開創したと伝えられる。
境内には大きなイチョウがまさに輝いていた。




 信号まで戻り東に約500mほど行くと、相鉄いずみ野線のいずみ中央駅である。
散策日  2007年12月14日  鉄砲宿-上飯田

参考
「旧鎌倉街道 探索の道   上道編」  芳賀善次郎著