鎌倉 上の道  
1.鎌倉−鉄砲宿     地図: @鎌倉-深沢   A深沢-鉄砲宿

 

 鎌倉と上州・信州を結ぶ道として利用された「上の道」を、散策する。
区間によっては、いろいろなルートがあったようだが、基本的には、芳賀善次郎氏の「旧鎌倉街道探索の旅・上道編」をベースに、他の関連資料もくわえて、たどって行く。


鎌倉八幡宮の西
 鎌倉八幡宮の中を東西にはしる流鏑馬馬場のはしにある西の鳥居から、スタートする。バス道路を南下し、今の小町通りの北の端に入るところに、鎌倉10井の一つの「鉄(くろがね)の井」がある。

バス通りに出て北に行くと、鎌倉街道「中の道」として、巨福呂坂を越えて北鎌倉-大船-戸塚-鶴ヶ峰を経由して北に行く道である。
(大船・植木・城廻をへて東俣野に通じる上の道の別ルートの一つでもある)

岩窟(いわや)小路
 小町通りを駅の方に向かい、最初の角をJR横須賀線方向に右折する。この道は、西の寿福寺前を通る「今小路」と八幡宮前の「横大路」を結ぶ道で、重要であったという。 

右側の塀の中の建物は,戦後の日本を映画で支えた川喜多長政、かしこ夫妻が住んだ川喜多邸である。鎌倉市に寄贈され、記念館が計画されている。

岩窟不動尊
 右側の奥まったところに岩窟不動尊という小さいお堂があり、石像が祀られている。以前は、窟堂(いわやどう)と呼ばれる岩窟があったという。

鎌倉彫の石碑
 その先に、静かなたたずまいの後藤家の門前に一つの石碑がある。
「鎌倉彫再興の碑」で、明治の初めに後藤斎宮、三橋鎌山により鎌倉彫が再興されたことを記している。
それまでの仏師としての伝統j技能から、近代工芸品としての鎌倉彫を確立し、後藤流、三橋流として、現代の鎌倉彫の基礎を築いた。

寿福寺
 横須賀線の踏切を渡り左に行くと寿福寺がある。
鎌倉五山の第3位で、日本で禅宗を普及し、臨済宗の開祖となった栄西が建てた。頼朝の父、義朝の館があったところで、実朝と政子の墓と伝わる五輪塔がある。
境内の端と通りの間には、今小路の頃にあった勝の橋の石碑や庚申塔、道標などが建っている。

英勝寺
 その北側には、大田道灌の屋敷跡に建てられた英勝寺がある。
現存する鎌倉唯一の尼寺である。
通用門を出たかっての境内(道路に出て北側)に小さなやぐらがあり、「十六夜日記」の著者、阿仏尼 の墓といわれる供養塔がある。

岩船地蔵堂
 再び踏切を渡り、JRに沿って北に向かって進むと右側に、扇ケ谷上杉氏(室町時代の足利公方の執事役の一人)の屋敷跡を示す、鎌倉青年団の建てた石碑が建っている。
右の奥にある浄光明寺はスキップしてさらに進むと、亀ヶ谷坂に向かうT字路に、真新しい地蔵堂が建つ。頼朝の娘大姫を供養する地蔵堂があったといわれ、新たに再建されたものである。

梶原景清の土牢
 JRのガードをくぐり、まっすぐ進むと花の寺として有名な海蔵寺があるが、その手前を、左に入る。
左側の角に、梶原景清の土牢の石碑が建つ。 
梶原氏は、平治の乱以降平家に従っており、景清は屋島、壇ノ浦などで戦ったのち頼朝暗殺を企て捕えられここに幽閉されたと伝えられている。
一方景清の子の景時は、石橋山の戦いで頼朝を見逃して以来、頼朝の腹心として仕えた。二代頼家の時、有力御家人と対立し追放され、一族は滅亡した。


仮粧坂 (化粧坂)
 すぐ先で狭い谷間で、急な坂道となりとなる。
鎌倉七口の一つで、化粧坂とも書かれるが、武蔵方面だけでなく東海道方面からの主要道路であり、商業地区としても栄えた。
坂付近に媚家があり、遊女が化粧したとか、平家の首級を化粧し首実験したとか、傾斜の急な・・などといったことから、その名前がついたという。
 元弘3年(1333)5月18日の新田義貞の鎌倉攻めのときに、義貞と弟の脇屋義助が仮粧坂に向かい、堀口貞満が巨福呂坂を、大館宗氏が極楽寺坂を攻めた。この先の洲崎で北条軍を破り仮粧坂で北条基時を自害に追い込んだ。そののち義貞は稲村ケ崎から鎌倉に侵入し北条氏を滅亡させた。

日野俊基の墓
坂を登ると左手に源氏山公園があり頼朝の銅像がある。右手には葛原岡神社の参道があり、途中に街道の名残がある。
左手の公園の脇に日野俊基の墓がある。俊基は後醍醐天皇の側近で倒幕計画に加わり正中の変で幕府にとらわれ釈放されたが、のち元弘2年(1332)、再度の討幕計画が発覚して葛原岡で斬首された。

                     葛原岡神社参道

葛原岡神社
 その道を奥が日野俊基を祀る葛原岡神社である。(細道をさらに北に行くと、北鎌倉の浄智寺に下りる尾根道がつづく。

明治2年(1869)に明治天皇により、後醍醐天皇の皇子護良親王を祀るために鎌倉宮が建てられたが、その宮司が中心となって日野俊基を崇敬する動きの中で、神社勧請が進められ、明治21年(1888)に創建された。

街道風景
 葛原岡神社のすぐ下、左手の道を進む。100mばかり古道らしい道をすぎると広い舗装道路にぶつかる。右手が北鎌倉への道で、左手が鎌倉街道を拡張した道で、住宅地をとおることになる。

梶原と寺分の間の広い通りをくだると、左手が深沢中学校である。
その角を右に行くと後で述べる大慶寺や駒形神社がある。左に行き、信号を右に進む。

御霊神社
 深沢小学校の北側奥に鎌倉権五郎景政を祀る御霊神社が見える。景政は源義家に仕え16歳で、奥州の後三年の役に従軍し、右目を射抜かれても戦ったという武勇伝が残る。この地が梶原氏と縁が深く本拠地であったことから祀られたとされ、由緒によると梶原景時が建久元年(1190)に建立したという。

五輪塔や庚申塔など多くある。

梶原景時一族の墓
 神社の南側の深沢小学校の敷地内-裏手のがけに幅2mぐらいのにやぐらがあり、梶原景時一族の墓と言われている。
学校に断って中に入る。
形の残った五輪塔2基と少し崩れ落ちた小さな五輪塔2基が建っている。

東光寺 と 駒形神社
 もと来た深沢中学校まで戻り、北西に向かう。古道の趣のある道がつづく・
左手に東光寺、右手の山側に駒形神社がある。
神社のやぐらの中には、比較的形状がしっかりと残っている文政9年(1822)の弁財天像がある。

大慶寺
 その先左手に、本堂や藁葺きの山門が真新しく改装されどっしりとたたずむ大慶寺がある。
宋の名僧大休正念(仏源禅師)が弘安年間(1278-
1288)に開山し、9代北条貞時の供養には83人の僧が参加したと伝えられる大きなお寺で、関東十刹の一つにも数えられていたという。
境内には、市指定文化財の宝塔が2基残る。

日本最初の自動車専用道路
 大慶寺脇を北西にすすみ、湘南モノレールのはしるバス道路に出る。昼過ぎなので、深沢駅方向に向かい、左手にある「浅野屋」というそば屋で昼食をとる。
そこに興味深いセピア色の古い写真が掲げられており、そこの奥さんに聞いたところ、昭和33年頃にとった深沢近くの写真であるという。
この一枚は、深沢地区を走る日本最初の自動車専用道路だった、とのこと。
あとで、しらべると、1930年に大船-片瀬間で開通したという。

泣塔
 大慶寺からの道-富士塚小入口-まで戻り、西側の旧JR大船工場のあった空き地の北側の小さな丘にある。ただし、危険があるためか、囲いがされていて説明板もなく、遠くから眺める(望遠で撮影)のみである。文和五年(1356)銘の約2mの宝篋印塔で、鎌倉攻めの戦死者の供養塔と伝えられる。この塔を、北の方角にある青蓮寺に移そうとしたところ、帰りたがって夜ごと泣いたという逸話から、「泣塔」と呼ばれている。

洲崎古戦場の碑
 富士塚小入口から100mほど北に坂を登っていくと左側に昭和31年鎌倉友青会が建てた石碑がある。
(洲崎は、上町屋、山崎、寺分一帯を指すという。)
元弘3年の鎌倉攻めの時、巨福呂坂を守る北条軍の赤橋守時は、6万のうち半分を守備に残して洲崎に進出して10万の新田軍を攻撃するが、敗れて守時以下90余人が自刃した。(赤橋守時は敵の足利高氏の妹婿)

道祖神など
 泣塔のある丘を南に見て、西北に進むと道端に道祖神などの石塔がならんでいる。
その先西に行くと新しい造りの泉光院がある。


そこから南に旧JRの引き込み線に向かっ所に、
上町屋鎮守の天満宮がある。

上町屋天満宮
 落ち着いたたたずまいの境内のン左奥に、一般では見られない三さるの彫りを持つ庚申塔が、すっきりと建っている。
寛文10年(1670)の銘がある。



                       左側 庚申塔

町屋橋
 泉光院まで戻り西側を北に向かい、町屋橋で柏尾川を渡る。
川鵜がのんびりと遊んでいる。
ここから工場地帯を抜け、JR線を越えると、武田薬品湘南工場の広い敷地が広がる。鎌倉上の道はこの間を通っていたようだ。実際には、武田薬品の西端の信号を渡り、新しい住宅地の方に坂を登っていく。

村岡城址公園
 坂を登りきる途中の左奥に入ったところに、村岡城址公園があり、石碑が建っている。
村岡城は坂東八平氏(千葉・上総・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾氏)の祖として知られる平良文の居城跡といわれる。
平良文は、延喜19年(921)鎮守府将軍に任じられて相模国の国司を兼任し、関東一円に強大な勢力をはり、鎌倉幕府成立後は鎌倉への交通の要所となっていった。、
日枝神社
 坂を登りきると台地を進むが、右側に日枝神社がある。今は、宅地造成出回りがすべて切り取られ、参道である階段と本殿を残すのみとなっている。
もとは、良文が京都から勧請したものを、応永27年(1420)に移したという。
芳賀善次郎氏の「上の道」では、東側に立派な長屋門を構えた旧家があるというが、すでに無く、東の林の中にある二伝寺までの間、大規模な宅地造成中であった。
滋眼寺
 日枝神社の前を北西に進み、藤沢-大船を結ぶバス道路に出て西に向かう。右側の高台に、滋眼寺がある。
階段を登った山門の門柱の彫刻がみごとである。
境内には市の指定文化財で、混生樹(寄り木)といって、モチノキ、タブノキ、スダジイが一株に寄り集まって一本の大木になったものがある。樹齢300年、高さ10m、根周り7.5mという珍しい樹木である。
柄沢神社
 慈眼寺前のバス道路を藤沢方面に向かい、バイバス道路を越えて2番目の信号を北に進み柄沢神社にむかう。このあたりは宅地造成が進行中で、昔の古道の面影はたどることも難しくなっている。
200mほど進むと、宅地造成中のなかで、神社だけが周りから孤立して残されている姿・・しかも周りが工事中であること・・、すでに見た日枝神社の周辺とともに非常に印象的であった。
本殿の奥は、造成中で何もさえぎるものがない。
造成中の中で残っている神社の東側の林の中に、凹道の古道の名残がわずかに残っている。
また、本殿前には地神像、庚申塔、供養塔などがきれいにならべられていた。
元禄12年(1699)、文政2年(1819)などの銘がある。

神社下の道祖神
 神社下には道祖神が残されており、遊行寺方面に向かう古道と上の道の古道が通っていたことを示していると思われる。

ここから西に向かい、大鋸小学校の南を北上し、その先を西に向かい、切り通しをすすむと、鉄砲宿の信号にでる。
旧東海道
 旧東海道(国道30号線)に突き当たり、鉄砲宿のバス停がある。
散策日  2007年12月7日 鎌倉−鉄砲宿
参考資料 「旧鎌倉街道 探索の道   上道編」芳賀善次郎著

「神奈川県の歴史散歩」   山川出版