鎌倉 上の道  
14.吉井-根小屋 ・・・上野の三古碑を訪ねる・・・

                         地図: @吉井-馬庭・山名   A 馬庭・山名−根小屋

 


 上の道のルートが、山名の近くで『上野の三古碑』の一つである山上碑(やまのうえ)の近くを通過していることから、せっかくの機会なので、他の二つの古碑も訪れることにした。
 
前回の続きとしては、上信電鉄の馬庭駅でおりて、鏑川のかかる松ノ木瀬橋まで行きそこから旧街道も続きを歩く予定であったが、今回は馬庭駅の西の吉井駅まで行き、まず『多胡碑』を訪れる。

多胡碑への道
 吉井駅の北側に向かう為に駅舎を出てから、線路わきの道を少し戻って踏切をわたり、古い道を北東に向かう。新しく開発された地域に南北に通る自動車道を横切り、静かな集落の中を進む。
 寛政9年(1797)の文字庚申塔や百萬遍供養塔塔などの石塔類が立つ一画もある。

多胡碑のある公園
 駅から20分程歩くと、静かなたたずまいの公園がある。
安政3年(1856)の多胡碑を詠んだ歌碑や説明板などが立っており、その奥に石碑が納められている覆堂が立っている。
 四方の窓から中が見れるようにきれいに整備されている。
 高崎市のHPによると、多胡碑の名前が最初に現れたのは、連歌師宗長の紀行文『東路のつと』永正6年(1509)という。

多胡碑
 
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 多胡碑は、那須国造碑(栃木県-西暦700年)、多賀城碑(宮城県-天平宝字6年(762))とともに日本三古碑と呼ばれ、また、こらから訪れる山上碑、金井沢碑とともに、上野三碑とよばれている。

碑の高さは126cm。 奈良時代初期の和同4年(711)に多胡郡が誕生した時の記念碑とされている。
 
 同HPによれば、碑文には『片岡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成』とあり、続日本紀の和同4年の記述『割上野国甘良郡織裳、韓級、矢田、大家 緑野郡武美 片岡郡山等 六郷別置 多胡郡』と一致しており、三百戸が六郷から成りたつということで、当時の養老律令の制度が実行されていることを示しているという。

また、碑文の中に『給羊』の二字があり、解釈は明確ではないが、それに由来して「ひつじさま」として古くから親しまれてきたという。(吉井町の案内書による)

旧道に戻る途中の景色-多胡碑方面
 公園から東に向かい前回の旅を終了した馬庭駅をめざす。
多胡碑は鏑川の南側に位置しているため、少し南東に進み入野橋で鏑川を渡る。
上信電鉄の鉄橋が通る橋の向こうが多胡碑方面の眺めである。
 1400年前から変わらない川の流れを想いながら、多胡碑のある地をあとにした。。

旧道に戻る途中の景色-鏑川の北側
 馬庭駅の南を、東に1kmほど田園地帯を進むと、前回歩いてきた松ノ木瀬橋から来る道と交差する。
東側角に真光寺のサインがある。そのまま新たに広く舗装された道路を東に向かう。

鏑川の渡し付近
 しばらく行くと、鏑川が間近にせまる。その場所から対岸をみると、少し東側に寄った先の台地の間から川に下る切り通しのあったような箇所が見える。そこがおそらく街道の鏑川の渡しがあった付近であると思われる。

真光寺
 広く整備された道を、東に向かうが、左側の農地の合間に石塔がありこの辺りの雰囲気をだしている。
右側には広大な工場があり、その向かいに真光寺がある。
その先の左に大きくカーブするところから、真っ直ぐ東に分かれる細道があり、そこが明らかに旧道の続きの面影を残している。

道標
 その細道を100mほど東に行くと右手の鏑川方向に進む道と交差するが、その角に比較的文字がはっきりしている道標が立っている。
一面には「向 右渡船場ヲ経テ三木 左 福言寺山名 道」とあり、他の一面には「向 左 小暮 馬庭 道」とある。
大正12年(1923)の建立である。

石塔群
 細道を道なりに進み、少し広い道にぶつかるが、そこに庚申塔や安永9年(1780)の十二夜供養塔など数基の石塔が並んでいる。
 その先で、西北の西山名駅からきて、東北に進むすぐ広い道路に合流する。
先ほどの道標にあった福言寺はこの辺りの様である(福言寺公民館がある)。

 旧街道はこの広い道を鏑川に沿って東北に進み、南からくるもう一つの旧道(鮎川の北側の緑埜付近からわかれて稲荷山古墳、七興山古墳の近くを北上してくる)と合流して、山名八幡へと向かうようである。
今回は、この旧道を通らず、西山名駅方向に向かい、山上碑をみてから山名八幡に向かう。
西山名駅から北へ
 上信電鉄の踏切を越えると、西からくる道と合流し、北に向かって丘陵地帯に入る。芳賀氏によれば、下仁田方面からくる鎌倉街道の支道であったろうという。丘陵を上り整備された切り通しで丘陵をこえると、谷あいの小さい集落が見え、下り坂途中の右には、野立所経由山名八幡宮への山道があり、その先右側に地蔵堂がある。

地蔵堂
 地蔵堂には、享保年間の自然石の供養塔や年代不明の庚申塔、双立道祖神などとともに地蔵尊が安置されている。

山上碑への道
 地蔵堂を過ぎてそのまま道を下り、小川を渡り川沿いに西に進む。この道も鎌倉時代からの古道という。
100m強進んだ右手の山の頂上近くに、山上碑がある。

阿弥陀如来の板碑
クリックすると拡大 途中の右手に、明和6年(1769)の二十二夜供養塔が立ち、その横に阿弥陀如来と書かれて施錠された石の祠が立ち、説明板がある。
建治4年(1278)の銘がある板碑で、阿弥陀如来の薄肉彫りが刻まれ、頭部に輪光が線刻されているという。

山上碑への登り口
 すぐ先の右手に山上碑への登り口がある。
少し先の古い石段の手前には窟堂址の説明板がある。
この山の上の古墳の中に馬頭観音が祀られ、窟堂と呼ばれる観音堂が建てられ、多胡郡、緑野郡、北甘楽郡の三郡の坂東札所であったという。明和9年(1769)には選ばれていたという。

山上碑と古墳
 石段を上ると正面に古墳があり、その左側に山上碑が保存されている建物が立つ。
広場はきれいに整備されており、建物の左奥には江戸時代のものらしい石塔や石仏が並んでいる。右手には万葉の歌碑がたち、古墳の右側を先に進みと山名城址があるという。

山上碑
クリックすると拡大 碑は安山岩の自然石で、高さは110cm、碑文は4行。

「辛巳(かのとみ)年(681年)に放光寺の僧 長利が母の黒売刀自(くろめとじ)の供養のために建てた」と書かれている。

放光寺は、次回訪れる佐野地区にある放光明神がある所がその跡といわれてきたが、近年では前橋市の山王廃寺という説の方が有力という。

山上古墳
 右側の古墳は径15m前後、高さ5m前後の円墳で、羨道の奥に広くなった玄室がある。奥には後年になって祀られた観音像がある。
 説明文によると、「山上碑はこの古墳の墓碑とみなされ、7世紀後半の古墳」としているが、高崎市のHPにとると、近年は碑の建立より数十年早い7世紀の中頃に作られたという見方が有力という。

山名八幡宮への道
 地蔵堂まで戻り、山名八幡宮を目指す。
地蔵堂前を東に向かうが、新たな団地ができている脇を通るが、この道は山名八幡宮の裏側を通る道で旧道の一つであったという。
遠くには、鏑川の脇を通る上越新幹線の高架の先に、高崎城の跡に市役所の大きな建物がはっきりと見える。
丘陵が終わるところで、下り道をまっすぐ行かずに右に進み、山名八幡宮の横・・境内の奥にあたる・・・にでる。
 神社の鳥居や拝殿など正面から入るには山名駅方面から来ることになるが、今回は裏側から入ることになった。

山名八幡宮 拝殿

         本殿
 山名八幡宮は、宇佐八幡を勧請したものといわれ創建は不明であるが、文治年間(1185〜90)に、新田氏の祖 新田義重の三男で山名城主の義範が社殿を造営したという。
本殿は三間社流造(ながれづくり)で、外部の彫刻は、近年極彩色が施されていが、6種の空想上の動物で彫師は東上州の関口文治郎と筆書きしてある(明和6年(1771))という。
本殿の裏側は、「裏神様」といって本殿により近い裏側からも参拝できるようになっている。
境内は広く、随神門の手前(外側)を上信電鉄が横切っており、地下道となっている。

山名八幡から西北へ
 上信電鉄の東を並行して走るバス道を西北に進む。
道路左手には近くの石塔や石仏を集めた祠が立っている。




寄り道→金井沢碑へ



 山名八幡から400mほど行ったところで、旧道はバス道から脇に入って北に進み、今の高崎商科大学の先で烏川を渡ることになる。
今回は旧道から外れてそのまま西北に進み、金井沢碑を訪れる。

道の景色(1)
 高崎商科大学への信号を過ぎると
宝性寺入口には石塔が並び、その先の道の左右にも道祖神、庚申塔などが並んで、拡張されているが古い道であることを示している。

道の景色(2)
 正面の山並みの頂には、高崎観音が見え、北方向には高台に高層の高崎市役所が見え、更に遠く左手にそびえるのは榛名山であろうか。

金井沢碑の入口
 高崎商科大学入口の信号からおよそ800mほど先にある信号で、新しく出来た広い舗装道路を山に向かって上っていく。右側の谷に金井沢川が流れており、約500m先から谷に下りる道を下っていくと川沿いの道があり、金井沢碑という大きな石柱と万葉の歌碑が立っている。川を渡り山道を進んだ先に石段があり、石碑が保存されている覆屋が立っている。

金井沢碑
クリックすると拡大 説明板によれば、江戸時代中頃土中から発見され、農家の庭先で選択石として使われていたが不幸が続いたため現在地に移し祀られたといわれる。
聖武天皇の神亀3年(726)『上野国群馬郡下賛郷(佐野町)の屯倉の子孫たちが祖先と父母の菩提のために仏教へ入信する』という誓いが刻まれている。
国分寺建立の詔が発せられる15年前のことである。(説明板による)
   →碑文の読み方はここをクリック。

根小屋駅
 入口まで戻り、今度は川沿いの道を下っていく。小さな墓地をすぎたあと、左折していくと根小屋駅である。
 駅舎、ホームから見える山並み・田畑とも それまで歩いてきた疲れが癒されるようなゆったりとした歴史を感じさせる景色であった。
 散策日  
 2010年11月26日

  
 上信電鉄 吉井駅 
―   上信電鉄 根小屋


 参考
「旧鎌倉街道 探索の道   上道編」  芳賀善次郎著