鎌倉 上の道  
15.一本松橋 - 高崎

                    地図: @(前回)馬庭・山名−根小屋  A一本松橋-高崎

 


 芳賀善次郎氏の「上道の探索」の最終地である高崎まであとわずかで、前回までと違って距離も少なくゆったりとした旅となった。

一本松橋
 上信電鉄の高崎商科大学で下り、大学の北に位置する一本松橋を目指して進む。旧街道はこの橋の付近から、烏川を船で対岸に渡ったという。
 橋の手前右側に「神籠石(こうごいし)」という岩があるというので水辺までいったが、見つからず。

烏川手前の景色
 橋のか架かる道路の歩道まで100mほど戻る。
西北側には雄大な景色が広がる。
左手の奥には浅間山がきれいな姿を見せ、その右、手前の山並みの上に高崎観音が見える。

烏川
 橋から上流の北側に岩が見える。
芳賀氏の言う「赤石(真砂石)」であろうか。更に上流には「聖石」もあるといい、先ほどの「神籠石」と合わせて烏川の三名石といわれていると、述べている。
荒川や鏑川にも同じような岩があり、渡河地点にある岩で水量を知る目印であったという。

街道景色
 橋を渡った先で、左手に見える細い道路が渡河地点からくる旧道と思われる。その道に下りて、上越新幹線の高架下をくぐる。
台地への若干の上り道があり、その右側に庚申塔が並び、小山の上には「御岳山」と刻まれた大きな石塔が立っている。比較的新しいようである。

景色
 旧道は西北に進む。住宅地を抜けると、自動車関連の工場などがならびはじめ、その先を左に進むと再び住宅地となる。

放光神社
 しばらく行くと、下佐野第一公民館があり、その広場の手前に、小さな鳥居と真新しい社がある。
右手に 「史蹟 放光寺 放光り明神 阯」 と 刻まれた石碑が立っている。
前回訪れた「山上碑」を建てた僧、長利 がいた寺が、この場所ということで「放光寺」の石碑が立っているが、 そこでも述べたように近年の研究では前橋の山王廃寺の説が有力という。

定家神社
 

   
 その先を道なりに進むと新幹線の高架下となり、越えた先に定家神社がある。
新古今和歌集の藤原定家を祭神としており、江戸時代中頃建てられたという。
定家の歌で「駒とめて袖うちはらふかげもなし 佐野の渡りの雪の夕暮れ」があるが、この地名-佐野-をこの地と混同した説があり、それをもとに定家を祭神としたらしい、という。

 境内には「左野山に打つや斧音の遠かども寝もとか児ろが面に見えつる」という万葉集巻14東歌 の石碑が立っている。
(遠くの佐野山で、夫の働いている斧の音が聞こえてくる。その音はかすかでも、寝ている子どもたちが目を覚まさないかと、そっとのぞき込んだ。)


 境内北側の木立ちの中に古墳があり、上には石祠が2つ立っている。

漆山古墳
 新幹線の高架下をくぐって、神社から北に行くが、すぐ先右側に墓地があり、その奥に小山がある。
漆山古墳という。墓地を回った所からら右手にはっきりと見える。

 そこから100m強 北に行くと、角に「佐野源左衛門常世神社入口」の石柱が立っている、その細い道を入って行くと鳥居と狭い参道がある。

常世神社
 境内も社もささやかなものであるが、説明板によれば、「栃木県佐野市の領地を横領された佐野源左衛門が、のち住み着いた屋敷跡といわれる。」という。
謡曲『鉢木』の物語・・・領地を横領され窮迫の生活をしていた常世が、大雪の日に宿を頼んだ旅僧(実は執権北条時頼)の為に秘蔵の盆栽ウメ・マツ・サクラの木を炉にたいてもてなしたのが縁で、後に梅・松・桜のつく領地を拝領した・・・で有名である。
 後日たまたまNHKで謡曲『鉢木』を上演しており、普段は見向きもしないのが非常に親しみを持って、また字幕付きであったので分かりやすく鑑賞出来た。

佐野の舟橋
 もとに戻り、北にすすむと200m弱の左側に「佐野の舟橋」歌碑がある。碑には、舟木観音と馬頭観音の線刻画の下に万葉集巻14、東歌の1首が刻まれている。
   かみつけの佐野の船橋とりはなし
       親はさくれど吾はさかるがえ
 碑の裏側には 「古道佐野渡 文政十年(1827)・・」とあり、かっての舟橋のあったと伝えられる場所に建てられたものである。(説明板)
この舟橋にまつわる伝説をもとに、謡曲『舟橋』が作られた。

芳賀氏によれば、烏川は古くはもっと北寄りを流れていて、ここが鎌倉街道となる以前の古道時代の渡し場だったという。ここから対岸の根小屋に渡ったが、この西が陸地化したあと、道は南に行き、一本松橋の所から烏川を渡るようになったという。

道標
 しばらくの間北に行く。
およそ500mほど進んだ左手の生垣の前に、馬頭観世音と刻まれた1mほどの大きな自然石と、「秩父巡礼の道しるべ」と書かれた木柱がある。
台の石に、「左 婦ぢおか ちゝぶミち  右 高崎 」 と刻まれている。

道祖神
 すぐ先で道は、2叉路となり、北西に進む。その先で道が少しずれて進む箇所があり、電柱の根元に小さな道祖神がある。男女僧形の道祖神で、天保4年(1833)のもので、この地方では珍しいタイプという。

琴平神社
 新幹線の高架下を横切り細い道を進んだ先に琴平参道と名付けられた道に突当る。
この辺りから、西北に向かう旧街道は消えている。
右側に荘厳寺があり、左側が琴平神社である。
立派な山門のある神社であり、石段の前には天狗像が立ち、東側の石段上には大きな宝篋印塔が立っている。
 説明板によると、古来、お稲荷さんが祀られていたこの地に、文政年間(1818〜30)、高崎藩士の寺田宗有が讃岐から分霊を勧請したと伝えられるという。

 神社と寺の間の道を行き、西北に進むが、上信電鉄や国道が交錯していてまっすぐ進めない。高架下を過ぎ、踏切を越えて小学校にぶつかるので、南に迂回にして 烏川沿いの道路を北上する。
国道17号線を城南の信号で越えたあたりに旧街道が続いているようである。

烏川から西側の雄大な景色


 高崎観音 と 浅間山

高崎城へ
 道は拡張され、左には運動場や野球場が整備されている。
正面には高崎城址にある高崎市役所が見える。

旧街道の道筋もこの辺りで消えている。わずかに道端の小さな地蔵や石仏がその痕跡を残している。

 拡張された道は左にカーブしているが、途中で右手の台地に上がる細道を、地図にある佐藤病院を目指して進む。

「化け石」
 台地に上がりながら住宅街を北に進むと、広い自動車道にでる。信号の西川に佐藤病院があり、玄関入口の東側のコーナーに小さな社と大きな石がある。
この石は、「化け石」(または ぼけ石)と呼ばれていて、旧街道筋にあって、馬に蹴られたから馬蹴り石ともいわれているという。

 旧街道は、この辺りから高崎城址公園の南東に向かい、更に今の音楽センターのある付近を通って行ったようである。

高崎城址 三の丸外囲の土塁と堀

 
 そこで、佐藤病院の西を通り、光明寺の東の道をいくと、堀に囲まれた城址公園の端にでる。
まず、城址公園の三の丸のあった堀と土塁の跡にいく。


 ここは古くは和田といい、鎌倉幕府の有力者 三浦氏の一族である和田義盛の後裔がこの地に移り治めてきたといわれ、戦国時代に、和田義信(またはその子-信忠)が15世紀初めに和田城を築城したという。
 家康の関東入部後、箕輪藩主であった井伊直政が慶長3年(1598)に和田城に移り、近世城郭を築いて和田の地を高崎とあらためた。
その頃には、高崎は中山道と三国街道の分岐点にあたる交通の要衝であった。

 なお今TV放映中の「江」の子(秀忠の三男)である徳川忠長は、寛永9年(1632)実兄の三代将軍家光によりこの高崎への逼塞処分が下され、翌年自害している(29歳)。

高崎公園と頼政神社



 道路の南側に広い高崎公園があり、その南に頼政神社があり、寄り道した。
烏川を高台から見下ろす場所に建つ。
 説明板によると、「元禄8年(1695)松平輝貞(大河内氏)が高崎藩主に封じられ、3年後にその祖先源三位頼政を祀って建立されたという。頼政は以仁王(もちひとおう)のすすめで平家を討とうとしたが、治承4年(1180)に宇治平等院で自刃した武将であり、歌人でもある。

 この9月に訪れた鎌倉街道中道の古河城にも、頼政神社がある。こちらの神社は、延宝5年(1677)に古河城主の土井利益が創建したという説と、その後の城主松平(大河内)信輝が城内に先祖の頼政が祀られていることを知り、神社として整備したという説がある。

 松平輝貞は、古河城の松平信輝の弟という。

三の丸跡に戻る途中高崎公園の中を歩いた。
噴水に架かる虹と、高崎城址にそびえる市役所のビルが印象的であった。

高崎城の面影  乾櫓と東門
 三の丸の土塁の所から城址公園の中をとおり、群馬音楽センターを越えると、右手に櫓が見える。
乾櫓といい、城主の安藤重博が、17世紀末に平屋の櫓を二層の櫓に改装したものという。
 明治の初め、当時名主であった下小鳥町の梅山氏に払い下げられ使われていたが、高崎市に寄贈され、昭和52年この位置に復元されたという。(元の位置は、ここから西300mの地点という)

その脇にある東門も同じ経過をたどり昭和55年復元されたという。

 乾櫓をあとにして、途中の慶長4年(1599)創建された新町諏訪神社に寄ったあと、高崎駅に向かった。



この先の旧街道

 16世紀の和田城が記載されている「古地図」には、和田城の東に「金井宿」、南に位置に「馬上宿」が記載され、そこを南北に「鎌倉道」が描かれているという。(「鎌倉街道夢紀行」より)
今の市役所あたりが金井宿であろうか?

 旧街道は、両宿を通り北に向かっていた。 その先は、安中・松井田・横川を経て碓氷峠に行く。
そしてこの道は江戸時代の中山道のもとになる道でもある。  (芳賀氏 「旧鎌倉街道 探索の道  上道編」

 
鎌倉・八幡宮から高崎まで続けてきた上道の散策の旅は、今回で一応終了となる。
今後は、高崎から西、信州方面に残る鎌倉古道を、各スポットごとに訪ねる予定である。
 散策日  
 2010年12月17日

  
 上信電鉄 高崎商科大学前駅 
―   高崎駅
 最終


 参考
「旧鎌倉街道 探索の道   上道編」
 
「鎌倉街道夢紀行
芳賀善次郎著

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