鎌倉 上の道 13.児玉-馬庭 地図: @児玉−丹荘 A丹荘−鮎川 B鮎川-馬庭
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JR八高線児玉駅からスタートし、神流川を越えていよいよ武蔵国から上野国に入る。 |
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児玉駅から旧街道へ |
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駅前の通りを西に100mほど進み児玉米穀企業組合の角を右に入る。その先 直ぐ斜め左にはいる細い道が、玉蓮寺の裏からの旧街道の続きである。 最初のか小さな四辻の直ぐ右には古い井戸と石碑が立つ。 |
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道の景色 |
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まもなく道は八高線に遮られるので、左に迂回する。 八高線をくぐると右手に長福寺があり、そのまま北に向かい次の長浜町北の交差点のすぐ手前の細道を西に向かうと、砂利道となる。 旧街道は長福寺の東側を通ってここに続いていたという。 |
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八高線に沿って |
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直ぐに田圃の中の道となる。古い趣きのある雀の宮橋を渡る。渡った先から旧街道は消え、規則正しく整理されたあぜ道が続くが、八高線の線路わきを西北に進む。 この先、塙保己一の生家のある保木野に向かうために、最初に出会う八高線の踏切を越える。 |
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大正時代の道標 |
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踏切を越えて、線路に沿って西に進んだ後、川沿いの道を約200m南に進むと、養鶏場の角に小さな道標がある。 石柱の各面には「塙先生百年記念 大正十二年 保木野村青年会」」「 向 右 保木野ヲ経テ新里ニ通ズ」「向 右 児玉町ニ通ズ」とある。 |
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塙保己一の生家 |
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道標の前の道を西に向かい、十字路を過ぎて最初の道を右折すると、塙保己一の生家がある。 この母屋は、保己一の父の代に建てられたという。延享3年(1746)以前年の建築である。 保己一は7歳で失明し、15歳の時に江戸に出た。 |
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旧街道 |
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保己一の生家の前を北に向かい、八高線踏切を過ぎて右にいくと、道標がある。、「右 八日市ヲ経テ藤岡町二至ル、左 児玉町・・・」と 「塙保己一先生百年祭記念碑・・」の二つが立っている。 先ほど通った雀の宮橋の先で消えた旧街道はこの辺りに続いてきたものと思わる。ここからは、旧街道は八高線と並行して西北に進み、まもなく踏切を越えることになる。 |
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熊野神社 |
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八日市の熊野神社に寄り道する。踏切を渡らず反対方向に行くと、ある。境内に「八日市の獅子舞」の説明がある。古くから「八の日」に市が開かれていたが、延宝2年(1674)に市で争いがあり大火となった。その厄払いとして獅子舞が奉納されたのが始まりという。 この本殿は、ガラス張りの大きな2階建てぐらいの建物で覆われて納まっている。 |
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神川町 |
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踏切を渡った先を右に入る。整備された畑の中の道を西に向かってあるく。静かな道で、しばらく歩くと八高線丹荘駅に近くなり、神川町の町役場簿ビルの前を通る。 |
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県道沿いの石塔群 |
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その先の植竹交差点で県道22号線を渡る。この辺りから、西の神流川(かんながわ)を越えるまでのルートにいろんな説があるようだ。 芳賀氏の本によると、この交差点を過ぎて少し進んだ所から二つのルートが考えられるというが、八高線の少し南側にある出雲神社の前を通るルートを行くことにする。 その前に、交差点から100mほど北に行った墓地の手前の石塔群を見に行く。寛政12年(1800)の供養塔や、文字庚申塔など多くの石塔が集められたようだ。 |
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道標 |
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元の交差点に戻り西に進むと、神流川の東岸の低地に下る緩い坂となり、左角に道標がある。 中ほどから折れている。 「明治・・」と刻まれ、「右 中新里・・」 「・・児玉町二通ズ」などが読み取れる。 |
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出雲神社 |
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低地に下りて、区画整理されたあぜ道を北西の出雲神社を目指してすすむ。 鳥居もなく少し荒れ果てた境内の出雲神社である。 この前の道が旧街道という。 南側の景色→ |
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お堂 |
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西の十字路を越えると、道は右にカーブして行くが、「お堂」と呼ばれる建物があり、手前の広場には石塔や石仏がその周囲に並んでいる。 その先で神流川の土手に突当る。 |
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神流川 |
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芳賀氏の本によれば、その北を走る八高線の鉄橋を渡って対岸に行ける、とあったが、今は通行止めである。 初版発行が昭和53年で、今は大きく変わっている町や建物が多くある。通れることを期待してきたが、やはり!という感じであった。 やむを得ず、土手を歩いて神流川の流れを楽しもうとしたが、川幅が広く大きな木があって見えない。 ただひたすら約1.5km北の藤武橋に向かって歩くのみであった |
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神流川の西 |
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橋を渡り国道から分かれて、少し高くなった住宅地と田圃の境にある昔から残っているような道に入って、当初の予定である埴輪窯跡を目指して南に向かう。 途中には道祖神や供養塔などが立っている。 八高線の踏切を越え、南北に走る道路に出ると本郷埴輪窯址のサインが見える。 |
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本郷埴輪窯跡 |
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窯跡は、道の西側の傾斜地を利用した登り窯で、建物の中に保存されている。長さ5.5m、幅1.8mという。この辺りには3〜40基の窯が等間隔に並び、この地方に密集している一大古墳群の埴輪製造工場だったと考えられているという。 5世紀後半から6世紀後半まで創業していたという。 |
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土師(はじ)神社と「土師の辻」 |
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直ぐ南に神社がある。この辺りには埴輪製作の「土師部」の人々が住み、「野見宿禰(のみのすくね)」を祭神とする土師神社を祀ったという。 日本書紀によると、垂仁天皇の時に野見宿禰(のみのすくね)が出雲から土師部を呼び、土で人馬や器具を造り殉死を防いだことが記されている。…埴輪の起源 境内の中ほどに、相撲辻と呼ばれる土壇(土俵)がある。 「日本三辻」の一つと称され、明治以前は出世力士の披露相撲が奉納され、勧進相撲も行われたという。 「日本三辻」・・・摂津国;住吉神社、 能登国;羽咋(はくい)神社 南側の畑には庚申供養塔などがたち、脇の畑にはコスモスがきれいに咲いている。 |
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葵八幡 |
神社から500m南のいくと、十字路とぶつかり、ここに東(神流川方面)からきているのが旧街道である。 |
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東北側の畑の中に、小さな祠が見える。木曽義仲の愛妾葵御前を祀ったといわれる。祠の両側に大きな板碑がある。応長元年(1311銘のある阿弥陀三尊種子像の板碑と阿弥陀一尊立画像の板碑である。 | |||
旧街道-小学校への道 |
県道から入る道(途中進めなくなる) |
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十字路から西に向かう。旧街道は美九里小学で消えるが、先の校門前からまた西に続く。 県道を越えて途中まで旧街道は残っているが、その先で消えている。民家の脇を通り、山を上る小路を途中まで行ったが、灌木と藪が覆っていて、結局あきらめて戻り、北側の広い車道にでて迂回することになった。 |
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景色 |
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藤岡モータースクールを左下に見て坂を上るが、その先に北に位置する庚申山への登り口に石塔がある。頂上には大きな庚申塔があるという。 下りきると水田地帯が広がり、道も広く整備されている。 県道を二本越えて、西北に進む。 |
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光厳寺入口 |
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鮎川の集落に入り、火の見櫓/鮎川公会堂の手前を南に行き、光厳寺を訪れる。嘉元3年(1305)の板碑があると、芳賀氏の本に記されているので探したが見つからず。 元に戻り西北に進む。、この先にある鮎川は先土地の人の話で渡れないとのことで、西に向かった。 |
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北野神社 |
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途中には道祖神や北野神社がある。 緑埜橋で鮎川を渡る。 鮎川沿いに東に数百m戻って、先ほど渡ろうとした旧街道の続きに出ることは、時間の関係であきらめた。 そのまま緑埜交差点まで行き、北に向かう。 上信越道の高架下を過ぎて、直ぐ左手に入る道が、旧街道の続きである。 |
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吉良上野介の陣屋跡と井戸跡 |
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しばらく西北への道をすすみ、国道254号を越える。 100m先の右角に吉良家の陣屋跡と井戸跡がある。 吉良上野介は慶安3年(1650)から元禄16年(1703)まで、白石に712石を領し、字中郷に陣屋をつくり納めていたという。 領主吉良若狭守の性質が、伊香保温泉湯治の帰途、この屋敷に滞在して嗣子上野介義央を生んだという。其の産湯がこの井戸だと伝えられる。 |
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鏑川への道 |
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ここから北に向かう旧街道は、耕地整理のため消えている。 陣屋跡の前の道を北に向かい、鏑川の低地へ下る坂の手前を右折すると、雑木林の先に切り通しの旧街道があるという。 その先三つ木集落に出て鏑川に下る道があり、渡し場があったという。 今回の本来の予定は、鏑川まで行き迂回したのち対岸にでて、上信電鉄の西山名駅までの工程であったが、途中で時間が掛かり、暗くなったため、これ以上は断念した。 |
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鏑川 |
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県道にでて西に向かい、鏑川を松ノ木瀬橋で渡って上信電鉄 馬庭駅に行った。 | |||
散策日 | 2010年9月10日 |
八高線 児玉 ― 上信電鉄 馬庭 |
参考 |
「旧鎌倉街道 探索の道 上道編」 「鎌倉街道夢紀行 上道コース」 |
芳賀善次郎著 テレビ埼玉/編 |