鎌倉 上の道  
12.小前田-児玉
                         地図: @小前田-用土  A用土-広木  B広木-児玉

 



諏訪神社
 小前田駅の西に南北に通る上の道ー旧街道ーに行くために、駅前の道を西に進む。
小前田神社の脇を過ぎて西に向かう。
諏訪神社に3台の屋台が保存されているという。「小前田の祭り」に、屋台ばやしと共に小前田宿内を引きまわしがされたという。

八高線・・・・踏切
 神社から西に向かうと、南の「お茶々が井戸」から北に向かっていた道・・新しい建物が建ち広く整備されつつある・・にぶつかる。
以前は、旧街道を進むには秩父鉄道のため迂回したらしいが、ちょうど踏切が新しくでき、そのまま北に向かうことができた。
 その先で県道を越え、直ぐに小前田から原宿の交差点を過ぎてきた広い車道に合流する。

街道景色
 ここからは拡張された県道が一直線に北西に延びていく。
まもなく、右側に神社の参道と、大きな鎌倉街道上道の説明板が見える。
原宿という地名は、この辺りが鎌倉街道の宿駅があったことから付けられたといわれている。

八幡神社
 八幡神社の本殿にはきれいな彫刻が施されている。
 裏手には常光寺がある。

道標
 しばらく行くと、西側に墓地があり、その角に大きな道標と庚申塔などの石塔が並ぶ。
細長い道標には「脇往還道川越道  用土邑」と刻まれている。
江戸時代には、この道が、川越から上州に抜ける脇往還として使われていた。

石塔と鎌倉街道踏切
 八高線の踏切が先に見えるてくるが、左手前角には、馬頭観音など3基の石塔が立っている。
そのうちの一つは、文政12年(1829)とある。
踏切の名前が、「鎌倉街道踏切」と付けられている。

諏訪神社
 用土駅に入る信号の手前に、諏訪神社がある。説明板には、神社の江戸時代から始まったという獅子舞が紹介されている。
 その先には町の古さを感じさせる家がある。

石塔
 しばらく行くと右手に用土の公民館があり、広場の端に庚申塔や供養塔が並べられている。右端は如意輪観音が彫られた寛政12年(1800)の供養塔。
 
この先の野中交差点で、南からきた国道254号と合流し、そのまま西北に進む。まもなく天神橋をわたってすぐに、旧街道は国道から左に分岐する。200mほど進んだ突当りと、その先の民家の角に寛政12年(1800)の供養塔と庚申塔が建つ。
  

雷電神社
 直ぐ先が坂道となり、右側に林の中にあまり大きくない雷電神社がある。旧街道からは、神社の裏から入る形で、国道側に鳥居が建っている。
 その先で、国道から分かれてきた広い道路と合流する。
合流後150mほど行って、広い道からわかれ斜め右に入って行くのが旧街道である。

道の風景
 少し先で二又となり、その角に如意輪観音が彫られた供養塔が少し埋もれて立っている。
ここを左に進み、その先でさきほど分かれた広い道に合流する。

直ぐ右側に、庚申塔と彫られた大きな石塔と、天保14年(1843)の馬頭尊と大きく彫られた石塔がある。
美里町白石の大仏集落に入る。

六道能化地蔵尊
 集落の中程の四辻の所に、「六道能化地蔵尊」と刻まれた大きな碑が立っている。
延享2年(1745)建立とあり、下部が道標となっている。「右  西-八幡山、北-本庄  左 東−江戸 南-十二天 秩父    大佛村 」となっている。右側の石柱も道標である。

石塔群
 集落を抜けると、国道254の駒衣の交差点が右に見えるがそのまま細い道を進むと、寛政5年(1792)や天保5年(1834)などの庚申塔や供養塔などが並んで立っている。
古道の雰囲気のある道である。緩やかな坂を上り、その後下って国道にぶつかる手前で直角に西に曲がる。
広木となる。

曝井(さらしい)の遺跡
 広木会館の広場の脇に志戸川が流れ、角に「史蹟曝井入口」の標識が立つ。約300mほど上流に行くと井戸の跡が残っている。「往古織布をさらすために使用した湧水で、ここでさらされた布は、調庸布として朝廷に献納されたという。
 万葉集第九巻に、「三栗の中にめぐれる曝井の 絶えず通わんそこに妻もが」とある、と説明板にある。
 
 旧街道に戻り、西に進む。200mほど先に大きなみか神社の石柱があり、北に参道が続いている。

みか神社
 創立は不詳であるが、延喜式神明帳に記されている古社で、今の社殿は、宝暦13年(1763)に再建されたものという。 社名の「みか」とは酒を造るために用いた大きなミカ(かめ)のことをさすという。
 芳賀氏によれば「神社南からは古墳時代から平安時代にかけての住居跡が発見され、広木は、曝井遺跡、式内神社もあって、万葉の里と言ってもよい古い集落である。」と述べている。

二子塚古墳
 神社境内から北にいくと「魔珂の池」と呼ばれる池があり、その西側に二子塚という古墳がある。
この辺りには他にも多くの古墳があるという。

 更に2kmほど北にいくと、「水殿(すえどの)瓦窯跡」という、鎌倉時代に瓦を焼いた窯跡が保存されているというが、今回はスキップした。

石塔
 もとの旧街道に戻り、200mほど先で国道と合流する。
合流する手前には庚申塔や元文5年(1740)の文字の庚申供養塔等の石塔が並んでおり、合流した直ぐ先には、鎌倉街道上の道の大きな案内板がある。

広木の一里塚
 まもなく、右側に広大な「エーザイ」の敷地が広がる。左側には西に進む広い道があらたに整備されている。
その角の小公園に広木一里塚の説明板が立つ。ここには樹齢400年の榎があったというが、今は枯れて、一里塚と刻まれた大きな石碑や馬頭尊の石塔が立つのみである。
 旧街道は、陣街道と呼ばれここから北を流れる小山川(身馴川)に向かって西北にすすんでいたという。
今は、新たな工場が並び道路も付け替えられ、「陣街道」とよばれた面影は全くない。

小山川(身馴川)
 旧街道の道筋をたどるべく川にむかっていくと、工場が途切れた先に古い砂利道が残っており、川の土手迄行くことができた。
そこから、一里塚跡まで戻るつもりであったが、たまたま川の水が少なく、歩ける箇所があったため、運よく対岸に辿りついた。

対岸には、北から南下してきた旧街道の跡らしい道がある。

児玉町への道
 右側にコンクリート工場がある所を西北に向かい、本庄児玉病院の駐車場脇をすすむ。

 その先で国道254号に合流し、最初の信号の手前を右折すると、細い道の先に赤い鳥居が見える。

稲荷神社
 境内には庚申塔などが立ち、その右奥には堂が建ち、子育地蔵菩薩が納められている。

旧街道
 神社の西側の細道を北に向かうのが旧街道である。
真っ直ぐ行くとこれから訪れようとした八幡神社や玉蓮寺の裏手になるため、少し進んでから旧街道からはずれて、左に折れ国道254号に出た。

東石清水八幡神社
 源義家が、父頼義に従い奥州安倍頼時征伐に赴く途中、この地に斎場をもうけ戦勝を祈願、康平6年(1063)平定後この地に立ち寄り、社殿を建立し、八幡を勧請し、「東石清水白鳩峯」と称したのが始まりという。
現在の社殿は享保8年(1722)に再建したもので、鳥居は青銅造り。
随身門は、宝暦6年(1756)建立という。

高札場
 境内の西・道路寄りに高札場がある。もと 本町と連雀町との境の道路にあったものを、昭和5年(1930)に移築したものという。

玉蓮寺
 神社の東隣が玉蓮寺で、国道側から長い参道がある。
児玉党の領主児玉六郎時国の開基で、境内は時国に館跡という。
日蓮上人が文永8年(1271)佐渡流罪の途中と、3年後に鎌倉に戻る時に、この時国の館に泊まった。弘安9年(1286)日蓮没後、館に代えて寺院にしたのが、現在の玉蓮寺という。
途中右手奥に、日蓮上人御洗足の井戸があり、、本堂裏手の墓地には、高さ2mを越す板碑が立つ。大きな梵字と嘉永2年(1304)と刻まれている。

 元の道に戻り北に進むが、玉蓮寺の裏を過ぎてからは、住宅がならび、昔の道は消えている。
その先で児玉駅に向かう広い道路に突当り、そこから先は再び旧街道が残っている。

 児玉駅に行く前に、西約500mの所の雉岡城跡を訪れる。

雉岡城跡


 
 中世の山内上杉氏の居城として築かれたが、地形が狭いので山内上杉氏は上州平井城に移り、その後家臣の夏目豊後守定基を置いて守備させた。永禄年間(1558〜69)北条氏邦に攻略され鉢形北条の属城となったが、秀吉の小田原攻めの際、前田利家により落城した。
家康の一族が城に入ったが(その頃は八幡山城といった)、慶長6年(1601)廃城となった。
 
奥には塙保己一記念館がある。
塙保己一は延享3年(1746)武蔵国児玉郡保木野村に生まれ、幼少の時失明、15歳で江戸に出た後学問で大成し、和学講談所を開き、「群書類聚」を完成させた。盲人の最高位である総検校(そうけんぎょう)になった。ここには保己一の多くの遺品が展示されている

右奥には、造立年代不詳の芭蕉の句碑がひっそりと立っている。
 
 『むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす』


次回は、塙保己一の生家を訪ねる。
 散策日  2010年9月10日   
 
秩父鉄道 小前田 ―   八高線 児玉


 参考
「旧鎌倉街道 探索の道   上道編」

「鎌倉街道夢紀行 上道コース
 芳賀善次郎著

 テレビ埼玉/編