鎌倉 上の道  
11.武蔵嵐山-小前田  地図: @武蔵嵐山-奈良梨  A奈良梨-今市
                                    B今市-小前田

 

 
 畠山重忠の館跡のある武蔵嵐山から、上の道はほぼ北西にまっすぐ進み、荒川をわたる。
荒川の手前で北東に行くと重忠の墓があり、そこを訪ねる時間ができるよう、途中の寄り道は出来るだけ少なくした。。

嵐山から北西へ
 嵐山から北西に進む旧道は、広い自動車道になっている。
東武東上線を越えてしばらく行くと、左側に志賀堂沼という池があり、広い三叉路の交差点がある。
その角に大きな木に囲まれた観音堂がある。

観音堂の宝塔と石塔群
 真中には大きな宝塔が立ち、庚申塔類、地蔵や供養塔など 数多くクリックすると拡大の石塔が並んでいる。このうちの一つに今まで見たことのない庚申塔があった。  庚申塔:クリックすると拡大
  塔の上段部に「享保20年(1735) 庚申供養塔」の文字が刻まれ、下部に何かを舞っている姿と鶏が彫られているものである。 「嵐山石造物調査会」のホームページには、『剣先烏帽子(けんさきえぼし)をかむり狩衣(かりぎぬ)姿の猿が、右肩に幣束(へいそく)のようなものを担(かつ)ぎ左手に鈴を持って、祝賀の舞いを踊っている姿』という解説があった。

杉山城跡
 その先の玉ノ岡中入口の信号を過ぎるころから両側には田畑が続くようになり、。東側奥に小高い丘が見えてくる。杉山城あとである。それほど高くないので時間もかけずに行って来れると思い、500mほど進んで、畑の中の道を東に向かった。ふもとからすぐに上り口があると思い探したが見つからず、川沿いの道を北に向かった。環境保全地域の説明板があり、その先から上るような感じであったが、あきらめてもとの旧道に戻った。

庚申塔と道標
 北西に向かう自動車道は関越自動車道へ入る道と交差するが、その手前の道幅が広くなるところ右側に石塔が立っている。
元文5年(1740)と万延元年(1860)の文字庚申塔と、少し離れた左側の道標には、→矢印と共に 川越道 本村ヲ経テ菅谷約三十丁、 児玉道 …今市約一里 とある。

馬頭観音
 交差点からしばらく(1kmぐらい)進むと、東側を流れている市野川の支流にかかる橋がある。近年拡張工事がされたばかりのようであるが、その手前の左側奥のあぜ道に石塔が並んでいる。
他から移されてきたようであるが、安政3年(1856)の馬頭尊と刻まれた石塔、文化13年(1816)の馬頭観音や、昭和5年の馬頭観世音とある小さい石碑などがある。
 旧道を進んだ先には、右側の畑の隅に小さな庚申塔がひっそりと立っている。

八和田(やわた)神社
 奈良梨の交差点となり、右側角に大きな鳥居があり、その先に長い参道が続いている。
もとは諏訪神社といっていたが、明治22年上横田、奈良梨、能増など八ヶ村が合併して八和田村を作り、村社が八和田神社に改まったという。
境内には樹齢800年と推定される大杉がそびえている。

行人塚 塚群
 西にある行人塚に寄る。
交差点を左(南西)に進み、坂を200m弱上がって最初の道を右折する。坂を上って行くと左側に「方墳行人塚」という石柱と説明板が立つ。それによると、長らく古墳群と考えられていたが平成5年の発掘調査で、「近世の塚」であることが分かったという。寛永通宝(1636〜59年鋳造)が出土し、また埋納施設がないため、江戸時代前半に造営された奉祭機能をもった塚の可能性が高いという。

旧道への入口
 奈良梨の交差点交差点にもどり100mほど進むと、左へ入る道の脇に「諏訪神社奉祀遺跡」と書かれた標柱が立っている。
すぐ先には古い石塔があり、その先に切通しのようなところがあり、旧道の面影が残る道である。

諏訪神社奉祀遺跡
 途中右手から普賢寺の脇をとおてくる道と合流し、再び古道らしい雰囲気のある山道を進むと、左側の林の中にコンクリートの台座がありその上に小さな石の祠がある。
家康の関東への国替えと合わせ、信州諏訪から上野国に移された諏訪頼忠(その当時は家康の配下)が、信州一宮諏訪神社から分祀して建てた諏訪神社の跡といわれる。

旧道の風景(1)
 遺跡からの旧道は、その先のT字路で消えている。突当りには馬頭観音の石塔が立っている。そこから台地を下りて低地を進む道があったようであるが、その低地に進むには、右へ進んでから「旧鎌倉街道跡」と書かれた標柱がたっている坂道を左へ下っていくことになる。
道の風景(2)

田圃のあぜ道の要所要所に「街道跡」の標柱が立っており、台地から下りて、北に向かう道まで矢印で示されている。
北に進むと、林が続く丘陵となり、その中を真っ直ぐ進む道らしい痕跡のようなものがある。
   

永昌寺大松
 その先で、旧鎌倉街道跡と永昌寺大松跡との分岐点に標柱が立っている。
旧道はそのまま北に向かうが、ここで、永昌寺大松跡を見に行くことにする。跡には大きな石碑が立っている。
樹齢800年と言われた(実際には、枯れて伐採された時は338年という)大きな松があったという。

能増交差点手前
 永昌寺大松から緩やかなカーブの坂を下っていくと、能増の交差点で嵐山からの県道に出会う。
旧道は、この手前に来ていたようだ。
ここからは再び、自動車道路を進む。

四津山神社入口
 しばらく行くと、左側へ入る広い道の角に「四津山神社入口」石柱が立っている。この四津山の山頂に高見城跡があるというが、今回はスキップする。
 高見城は関東管領であった山内上杉家の属城となっていて、増田重富の居城と伝えられるという。鎌倉街道を見下ろす絶好の場所である。

庚申塔
 その先で市野川を渡る。
旧道は、この辺りで消える。( この先、川に沿って北西に進み、今市の兒泉(こいずみ)神社の脇に向かっていたようである。)
このまま広い自動車道をすすみ、丘陵を上ることになるが、その裾野に三叉路があり、大きな木の下に文字だけの庚申塔が2基立っている。

高見原古戦場 跡
 左側には田畑が一面に広がる。高見原古戦場のあとである。
  関東管領である山内上杉顕定と扇谷上杉定正が、大田道灌殺害(上杉定正により)の後、覇権を争って戦った。戦いは長享元年(1487)から永正2年(1505)まで続いて『長享の乱』と言われ、特に、実蒔原(伊勢原)、須賀谷原(嵐山町菅谷)、高見原の3ヶ所で激戦があり、いずれも扇谷上杉陣営の勝利に終わった。
高見原では、長享2年(1488)古河公方足利政氏も協力のもとでの戦いで定正が勝利し、また明応3年(1494)北条早雲の援軍のもとでの戦いでは、定正が荒川渡河中落馬で死亡した。・・・・その後、紆余曲折の後、山内・扇谷とも上杉氏は没落、北条早雲が関東進出を果たす。

今市地蔵
 大きく右にカーブする緩やかな坂を上りきると交差点があり、突当りに今市地蔵堂がある。
大きな地蔵堂で今は子育て地蔵として参拝者が多いという。説明板によると、木造地蔵菩薩立像は、像高3.14m、室町時代の作と推定され、寄木造りで玉眼が施されている。

西から来る道路側には板碑が祠の中に置かれている。
高蔵寺
 今市は江戸時代の宿場町で、地蔵堂から西北に集落が連なっている。
すぐ先に高蔵寺がある。
境内の脇を通り、畑の中の道を南に行くと、右側の林の中に兒泉神社がある。

神社の西にある旧道の続き 
  ←兒泉(こいずみ)神社
 参道の入り口には市野川に沿って道が通っているが、それとは別に、神社の西側に、細い道がわずかに残っている。
芳賀氏によれば、これが市野川を渡った所から消えた旧道の続きではないかという。現在の今市の集落とはかけ離れた場所に建っている理由でもある。

                  参道入り口の新緑→
畑の中の供養塔
 旧道の続きは、また消えるので、神社の前の道を西に進む。
畑の中の道を進み、約600mほど進んだ二つ目の四辻のところで、右に曲がる。
その角の畑の隅に、供養塔が2基立っている。
それぞれ 享保19年(1734)、宝永4年(1707)と刻まれている。

薬師堂と供養塔
 四辻を北-県道-に向かうと突当りに薬師堂とその隣に石塔群が立っている。薬師堂には室町時代の薬師如来が安置されているという。
大きな寛政2年(1790)の百万遍供養塔や二十二夜塔やの他に、四国88ヶ所、西国33ヶ所、坂東33ヶ所、秩父34ヶ所がまとめて一面に刻まれた供養塔もある。

旧道の景色
 薬師堂の西に 真っ直ぐに北に進む道がある。
広くなったばかりの道であるが、しばらく行くと右側の広場の隅に石塔が並ぶ。安永9年(1780如意輪観音や供養塔などである。
塚田の集落となる。

三嶋神社
 すぐ先を左折し、西に向かうと三嶋神社がある。この辺りに鎌倉街道の宿駅があったという。
神社の境内にある説明板によると、「神社に伝わる『鰐口』は、鋳銅製で、『武蔵国男衾塚田宿三嶋宮鰐口 應永2年・・』の銘文が刻まれ、応永2年(1395)にはすでに塚田が『宿』と呼ばれる集落を形成していたことが分かる。」という。
 ここから西の方角に普光寺の森が見える。小川のところで旧道は消えているが、寺の方向を目指して進む。

普光寺
 説明板によると、普光寺は町内最古の寺で、享保4年(1719)の記録に、山王社・鬼子母神・観音堂再建とある。という。
境内の本道左手前に、多くの板碑や五輪塔が並べられている。
「境内の東側に、鎌倉街道上道の遺構が現存する」という、クリックすると拡大説明があり、標柱が立っている。
旧道は北に向かい、荒川に至る。

   説明板に書かれている
    普光寺周辺地図→
畠山重忠の墓へ
 旧道は普光寺の東側を北に向かって、県道で突当る。
北の荒川に行く前に畠山重忠の墓を訪れる。ここから北西に1.5kmぐらい所であるが、上の道にゆかりのある重忠であり、往復50分ぐらいかける価値があると思い、そのための時間調節もしてきたので、出かける事にした。関越自動車道の手前で南からの道と合流する。塚田の集落から真っ直ぐ北に進む旧街道の続きである。この道は新田義貞が元弘3年(1333)生田から鎌倉を攻めた時の進撃路である。
 広い自動車道の歩道をひたすら進むと、大きな標識が現れる。その先はのどかな農村のたたずまいの中を進む。

重忠の墓
 右側に重忠公史跡公園がある。
入り口広場では、馬に乗った重忠の大きな銅像が来園者を迎る。奥に、「畠山重忠公墓 並 館跡」という大きな石柱が立ち、五輪塔が6基並んでいる。
元久2年(1205)重忠の子 重保が鎌倉由比が浜で殺されたあと、子 重秀 と共に二俣川で一族ともに討たれた。後世 この畠山館跡に五輪塔が建てられ祀られた。

荒川
 もと来た道を普光寺の北まで戻る。地図上では、県道を横切ってそのまま北に進みアイリスオーヤマの建物裏にでる道があるはずであるが、塞がっており、やむを得ず100mほど西に行ってから坂を東北に下る。鎌倉街道上道の標柱がある。
 坂の途中から西の方角は、荒川にかかる自動車の走る花園橋の奥に上流の山々が遠く広がって雄大な景色である。

赤浜の渡し付近
 下った先から土手に沿って少し上流に向かい、川原に下りて渡しのあった川越岩(獅子岩)の地点をさがす。 草の背丈が伸びてはっきりをしないが、この辺りだろうと推定した。
ここから荒川を渡ってからは、西に向かう旧街道と、そのまま北に向かい今の本庄市に向かう二つの旧街道があったという。

 今回の散策では、西に行って小前田までの道をたどるので、荒川を渡るために花園橋まで行った。
高く架けられた橋まで行くのに、手前で大きく迂回して自動車道に上がる必要があった。

              花園橋から西を見る→
宝篋印塔
 花園橋を過ぎて最初の信号の手前左側に小さな堂があり、2基の石塔がる。
説明板には、当家の先祖が井戸を掘った所出土したもので、3基の宝篋印塔のうち欠けた部分は見つからず、完全な姿ではないがここに祀ってあるという。延文3年(1359)の銘があるという。

お茶々が井戸
 荒川の北側に沿って、畑の中の道を西に行く。およそ2kmほど先にゴルフ練習場があり、その手前で荒川の土手への坂を下りる。
左側の傾斜面に説明板が立ち、その裏の雑草の影に井戸が顔を出している。
井戸のそばに茶屋があり、「於茶々」という美人に娘がいて、鎌倉街道筋で大変評判となり繁盛したという言い伝えがある。

小前田への道
 ここから国道140号線バイパスを渡り、更に旧国道を渡って真北に向かう。
日蓮が佐渡に流された時にこの道を通ったという伝承があるという。
秩父鉄道の線路に到達する前で、東に折れ、小前田駅に向かった。
 散策日  2010年5月21日   
 東武東上線 武蔵嵐山
---秩父鉄道 小前田


 参考
「旧鎌倉街道 探索の道   上道編」

「鎌倉街道夢紀行 上道コース
 芳賀善次郎著

 テレビ埼玉/編