鎌倉下の道 ⑧ (丸子橋-下丸子) 地図→多摩川-池上
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以前、下丸子に散策に出かけた記録を、下の道(綱島ー丸子橋)の続きとして、ここに 入れる。
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浅間神社 | |||
多摩川線の多摩川駅をおりて、多摩川に向かって歩くと、右側に多摩川台公園の高台がひろがっている。そこは、前方後円墳の亀甲山(かめのこやま)古墳でも有名である。浅間神社は、その南側に位置している。 浅間神社の創建は鎌倉時代の文治年間(1185-90年)と伝えられる。源頼朝の出陣の折、後から来た政子が傷の治療のため、ここにとどまっている時に、頼朝の武運をいのって『正観世音像』をこの丘に建てた、というのが起こりだという。 |
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丸子の渡しのあった場所 | |||
この付近に(丸子橋とJRの陸橋との間)、鎌倉時代から渡し場があり、江戸時代には、中原街道の渡し場として、大いに栄えたという。昭和9年(1934年)に中原街道が改修され、 上流に丸子橋ができて廃止となった |
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東光院 | |||
ぬまべ駅の踏切をまっすぐ進んだ左側に東光院がある。 境内には、明和9年(1772年)および天保5年(1840年)の弘法大師供養塔がたっている。
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山門の前 |
供養塔 |
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六郷用水物語」のある広場 | |||
東光寺の手前脇には、小さい広場があり『六郷用水物語』としてその歴史と案内図が詳しく掲示されている。 それによれば「六郷用水とは、六郷領(現在の大田区の平地地域)の灌漑を目的として、江戸時代初期に幕府代官小泉次太夫により開削された農業用水路で、徳川家康の新田開発政策の一環として行われた。工事は、慶長2年(1597)の測量に始まり、慶弔14年(1609)に主要水路が完成、小堀とよばれる各村への分水路工事も含めると14年の長い年月を費やした」という。 |
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案内図 | |||
「多摩郡和泉村(現在の狛江市和泉)で多摩川から取水された六郷用水は、世田谷領を経て、六郷領へと入り、矢口村の南北引き分けで北堀(池上、新井宿、大森方面)と南堀(蒲田、六郷方面)に二分された。その全長は約30km。」という。 |
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用水路 |
ジャバラとよばれる揚水用水車の模型 |
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密蔵院 | |||
東光院からJR新幹線のガードをくぐった左側に密蔵院がある。 入口の左側には、江戸時代初期の製作の、大日如来坐像や、弘法大師坐像の説明板がある。境内には、寛文元年(1661)造立で、大田区最古という庚申供養塔がある。 |
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六郷用水の跡の標識 | |||
用水路沿いは、散策路として、また遊び場として、きれいに整備されており、この標識が各所に立っている。 |
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庚申塔 | |||
この先の四つ角に小さいお堂があり、庚申塔が祀られている。新鮮な花が供えられていた。 |
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散策路 | |||
この先で大きく左に曲がり、登り坂になる。左側に六郷用水の説明板がまたでてくる。 六郷用水のこの付近の流れを「女掘(おなぼり)」と呼ぶということで、その由来が興味深い。 水がきれいに流れ、近くに住んでいれば毎日でもジョギングしたい道である。 |
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観蔵院 | |||
左側の路地を入ると、観蔵院ー真言宗のお寺がある。本堂前に『ツゲの古木』があり、説明板によれば、樹高約7m、根元周囲約5mで、観蔵院創建の江戸時代から存在したといい、樹齢は300年以上という。 |
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天明家の門 | |||
門のところに『天明』の表札がかかっている。 参考した本によると、茅葺屋根の門ということだが、改修されたのか? |
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河原坂 | |||
環状8号線に入る手前を右折すると鵜の木駅に出るが、坂の標識が見えたので、近づくと河原坂とあった。 大田区のHPによれば、「鵜の木2・3丁目付近は昔、多摩川の河川敷にあったので、 河原という地名で呼ばれていた。坂名の由来は、この河原に出る坂道のためといわれている。」という。 |
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この坂の右側の丘で、古墳時代~奈良時代にかけての横穴墓の調査がおこなわれていた。 |
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増明院 | |||
環状8号線に出会う手前を右に入り増明院に行く。・真言宗 緑豊かなお寺である 享保13年(1728)の供養塔 |
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道祖神 | |||
鎌倉下ノ道(散策路)は、環状8号線を横切って、しばらくこの環八と平行して進む。 「六郷用水の跡」の道標が立っている付近の手前を左折すると、散策路と平行して進む道がありそこに小さな祠があり、道祖神が祀られている。 |
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道祖神は、道路の悪魔を防いで道行く人をお守りする神様で、 ここの道祖神は「オシャモジサマ」と呼ばれているという。 |
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藤森稲荷 | |||
散策路にもどり、環八と交差する手前に、藤森稲荷がある |
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ぬめり坂 | |||
神社の脇の坂が、「ぬめり坂」で、右側の柱に次ぎのような由来が書かれている。 ・・・・『大森区史』は「鵜の木に用水を渡ってうっそうとした樹下を登るなだらかな坂がある。なだらかな坂ではあるが、ぬめって上れなかった。付近の豪家に美しい娘があった。人々の難渋を貴の毒に思い、自ら望んでその坂に生き埋めとなった。以来その坂の 容易となり、大いに付近は繁盛したという」と記している。・・・ |
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下丸子への分水口跡 | |||
環八との交差点の左側歩道の「分水口の跡」の説明板がある。 それによれば『この辺りが、六郷用水の下丸子方面の分流店で、六郷用水に西岸に石垣のトンネルを築いて分流していた。水量は豊富で現在の下丸子一丁目付近一帯の水田を灌漑していた』という。 |
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光明寺 | |||
環八に信号をわたり、鵜の木方向に少し戻ったところに光明寺がある。 天平年間(729-749)に行基が開創し、その後、空海が再興したという、古くからの寺であり、江戸時代には大きな信仰(安産祈願)を集めていたという。 |
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下丸子の分水口のあるところから左折し、千鳥町方向に向かうのが旧鎌倉街道下ノ道である。 |
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頓兵衛地蔵 |
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説明板によれば:
「頓兵衛は、この付近で起きた新田義興の謀殺事件をもとに、江戸時代に作られた浄瑠璃『神霊矢口渡』(平賀源内作)に登場する船頭役で登場する人物の名である。 この地蔵は、いつしか頓兵衛が謀殺に加担したことを悔いてその冥福を祈って建てたものと伝えられ、新田義興にかかわる伝説のひとつとなった。 義興の事件とは、南北朝時代に活躍した南朝方の勇将新田義貞の子義興が、延文3年=正平13年(1358)、北朝の足利方に寝返った旧臣に謀られ、矢口の渡しで舟を沈められて悲惨な最期を遂げたというものである。」 |
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参考資料:勝田五郎氏 別冊古道通信「旧鎌倉街道下道を歩く・・朝比奈切通出口から皇居へ ダイジェスト」 |
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散策日 | 2006年8月10日 | 多摩川-下丸子 |
参考 | 「旧鎌倉街道を歩く」 | 勝田五郎著 |