鎌倉下の道 F  (綱島−丸子橋        地図→ @大倉山-日吉  A日吉-多摩川



 鎌倉下の道は、綱島の駅から少し西に向かったあと、綱島街道と中原街道の間を北東に進み、武蔵小杉の手前で中原街道と合流する。

 
陽林寺

下の道を歩く前に、綱島公園に出かけ周囲の様子をみた。
公園では、ちょうど桜が咲き始め、木々のみどりがきれいな散歩にはぴったりの時期であった。左手に下ると、陽林寺がある。
大永年間(1521〜1527) 綱島に移り住んだ城田氏が一族の繁栄と安全を祈願して建てた草堂が陽林寺のはじめという。

地神搭ほか


陽林寺から少し下ったところに自治会館があり、その脇に、天保14年(1843年)の「堅牢地神塔」や、文政8年(1824年)の庚申搭などの石碑が建っている。
右端には、昭和9年の「道路改修記念」の石碑があることから、そのときに近くの石碑を整備したものと思われる。
来迎寺への道
下の道に戻り、来迎寺をさがすが、何度か行き来して、ようやく見つけた。左側に「右折綱島郵便局350m」のサインのあるすぐ手前の細い道を入ると、その先右側の角が来迎寺である。昔ながらのお寺という感じで、周りに庚申搭などなければ見逃してしまう。(明治6年に廃寺となったという。)
元禄5年と刻まれた庚申搭。


飯田家長屋門




来迎寺の前の道を綱島郵便局方面に向かい、左にカーブするところに、飯田家の長屋門と、屋敷がある
飯田家は、北綱島村の名主で、明治以降は政治活動のほか製氷、果樹栽培など地域振興に尽くしたという。
長屋門は江戸後期、主屋は明治22年建造で、市の指定有形文化財である。
金蔵寺
郵便局脇の交差点をそのままほぼまっすぐに進み、突き当たりを右に行き2つ目の角をを左折して北に向かうのが下の道である。
金蔵寺には、左折しないでまっすぐ進む。
貞観年中(859〜876年)に清和天皇の勅願により、創建されたという。
背後に丘を控えた歴史のある寺でありが、本堂以外の鐘楼や弁天道などは色鮮やかな色彩が施されている。

境内左手の六地蔵は、宝永6年(1709年)のものという。


 
駒林神社


少し戻って北に行き、駒林小学校の脇を右に入ると、高台に駒林神社がある。
江戸城の外濠から掘り出された石が使われているという石垣:
西光院


駒林小学校のわきを通り、下の道にもどると、西光院がある。
金蔵寺の末寺という。
西量寺


駒林小の前から来る道との四つ角の、一段たかくなったところに、西量寺がある。ここも金蔵寺の末寺という。
登り坂


西量寺の前の坂道をのぼっていく。住宅地の間を通り、尾根道を横切って、今度は高層住宅の間を下っていく。
        
駒が橋


ほぼ下りきったところに、右側に道標が建つ。
駒が橋、史跡鎌倉街道と刻まれている。
       
真福寺


すぐ先にバス通りがあり、右に行くと、真福寺がある。
下田神社







その並びが、下田神社である。
江戸時代、宝暦年間((1751〜63)の創建という。
駒方庚申搭や石仏があった。
    
蟹ヶ谷の地蔵堂への道
駒が橋・鎌倉街道からきた道に戻り、丘陵地帯を登っていく。新規に造成された住宅地が続く。右手に「しいのき学園」の建物とフェンスが出てきたら、その入口の向かい側に、左に下る細い道がある。
ここを左に入る。


丘の上から下りてきたところ。突き当りのところ左右に、お堂がある。

下の道は、ここを右折していく。
地蔵堂


元文5年(1740年)の地蔵菩薩像

庚申搭


享保2年(1717年)の庚申搭       蟹ヶ谷の風景

               
この先住宅地のなかを北東に進む

矢上川と橘橋 江川と小関橋


「江川せせらぎ遊歩道」が整備されていた
地蔵菩薩立像


下の道は、江川のすぐ先を右折する。(下の写真の建物の間)
すぐ先の右手の茂みに隠れた格好で、2体の菩薩像が建っている。
                      
供養等


地蔵菩薩に並ぶ大きな民家のフェンスの内側に堂が建ち、中に供養搭がある。奉納 西国坂東秩父百番供養搭」とある。
 塀の中にある            上部の観音
      
地蔵菩薩のお堂


下小田中小学校の手前を左折して、北に向かう。
しばらく行くと、左側の駐車場の一角に小さなお堂があり、大小の地蔵菩薩がある。

大戸神社


この先、中原街道にぶつかり、そこに大戸神社がある。
永正11年(1514年)に信濃国戸隠神社を勧請し下小田中村の守護としたという。
下の道は、ここから多摩川まで中原街道を進むことになる。
中原街道沿いには「川崎歴史ガイド-中原ルート」という説明板が各所に建っていて、その歴史を説明している。」

武蔵中原駅のガード下を過ぎてから、泉沢寺までの短い期間に、左に一つ、右側に4つの、庚申搭や地蔵堂が建っている。 
地蔵尊のところにたっている「歴史ガイド」という説明板によれば、「中原街道沿いに多く残る石仏、石碑は、特に細道や用水支流との交差地点に目たつ。」という。地蔵堂のあるところは、「井田堀と交わるところ」という。

庚申搭 地蔵堂







不動明王 庚申搭


庚申搭

泉沢寺


説明板によれば、延徳3年(1491年)多摩郡烏山(今の世田谷区)に、吉良氏の菩提寺として創建されたが、天文18年(1549年)の火災のため、翌年、今の中原区上小田中に新たに建立された。数多くの文化財が所蔵されている」という。
「歴史ガイド」によれば、「吉良氏は、税を免除して居住を促し、門前市を開いてこのちの繁栄を図った。夏の泉沢寺の市は冬に世田谷ボロ市と並び広く知られていた。」という。

馬頭観音
    文化年(1818年)
鐘楼 庚申搭


安永4年(1775年)
神地橋(二ヵ領用水)


「歴史ガイド」によれば、「稲毛領、川崎領を潤した二ヵ領用水の本流は、ここで中原街道と交わる。この辺りでとれた質の良い米は特に「稲毛米」と呼ばれ、江戸の人々に喜ばれた」という。
小杉十字路


府中街道と交差する小杉十字路。 「ここは明治後期から大正時代に特に賑わった。乗合馬車の停留所、料理屋、旅館、劇場などが集まっていた」 という。
庚申搭


小杉十字路を越し田崎右側も庚申搭が建つ。天保14年(1843年)。
「歴史ガイド」によれば、「道標を兼ね東江戸道、西大山道、南大師道と彫られている。昔はここから大師に向かった。」という。
小杉駅と供養搭


小杉十字路から、この先の、かぎ形にまがる西明寺の信号のところまで昔の街道のままの広さで残っているので、歩くには注意が必要。  この左側角の手前に、供養搭が建っている。
「歴史ガイド」によれば、『川崎宿より50年遅れて小杉もまた宿駅に指定された。供養搭にも稲毛領小杉駅とある。台座に「東江戸、西中原」とある』
左にかぎ形に曲がる
小杉御殿跡




徳川将軍家が立ち寄る御殿があったところ。
慶長13年(1608年)二代将軍秀忠が建て、寛永17年(1640年)正式な御殿となった。しかし、東海道が整備される万治3年(1660年)に撤去された、という。
歴史ガイドによれば「御殿の敷地はおよそ1万2000坪。
絵図に、表御門、御主殿、御殿番屋敷、御賄屋敷、御蔵、御馬屋敷、裏御門などが示されている。」

西明寺


西明寺縁起によれば、「弘法大師が中国にわたったときの宿房の寺号からのもので、帰国後、高弟泰範上人に命じて建立した。北条時頼の信仰篤く、最明寺とも称した記録がある。徳川家康も、小杉御殿の隣地西明寺を崇敬し境内を殺生禁制の地と定めた」という。
石橋醤油店


明治3年創業。今は製造していないという。
長屋門


歴史ガイド:「この辺りの名主の代表格であった安藤家で、代官から賜った長屋門が今に残る。」
近くに、新しく建てられた道標と、中原街道の説明板がある。
丸子橋


東横線のガードをくぐると綱島街道と合流し、丸子橋で多摩川をわたる。

渡し場跡は、丸子橋の南側にあったようであるが、渡し場跡の説明板は、見当たらなかった。
多摩川の風景


丸子橋から多摩川駅までの土手沿いから見る景色は、夕暮れ時で現代的なものが薄れ、『古道』を歩いてきた感慨に浸るには、ぴったりであった。 
参考 「旧鎌倉街道を歩く」 勝田五郎著
散策日 2007年3月23日  綱島−多摩川