鎌倉下の道 H 下丸子−大森         地図→@多摩川-池上  A池上-大井町




 下丸子の六郷用水-分水口跡から、東に向かう。 池上本門寺の先まで、六郷用水の跡に沿って「北堀のみち 六郷用水の物語」として遊歩道が整備されている。
下の道は現在の池上通りとほぼ平行してすすみ、大森駅手前で合流することになる。

 

 

遊歩道・千鳥いこい公園


千鳥町駅の北側の踏切を渡った先辺りから、遊歩道が整備されている。
千鳥いこい公園があり、用水の石碑も建つ。
  
小泉次太夫の説明板
説明板によると、「小泉次太夫は天正18年(1590年)、徳川家康の江戸入府に随行し川崎の砂子(いさご)に移り住む。慶長2年(1597年)の用水開削に至るまでの役7年間の砂子での生活ははっきりしていない・・・」という。




第二京浜国道を渡ると、再び説明板がある
。「慶長2年(1597年)の測量に始まる用水の工事は、慶長14年に主要水路が完成、小堀と呼ばれる各村への分水路工事を含めると14年という長い年月を費やし、小泉次太夫は74歳の高齢に達していた。 途中、慶長6年には武蔵国稲毛・川崎の代官職を拝命している」

次の説明板:
「六郷用水および川崎の二ヶ領用水の大事業を成し遂げた次太夫は、その功績により、現在の大田区北糀谷・西糀谷付近を家康から拝領して糀谷の領主となった・・」

池上図書館前にある説明板:
「六郷用水完成後の慶長17年(1612年)、次太夫は代官職を退き、神奈川あ(川崎の砂子の里ともいわれる)に隠居、元和9年(1623年)84歳で没したと伝えられる。川崎市の妙遠寺もは次太夫の逆修搭(生前に自分の供養にために建立する搭)が現存している」
馬頭観音


しばらく行くと、大きな馬頭観世音菩薩と刻まれた大きな石碑が、道が交差する地点に建つ。
頭部が欠けているが、文政13年(1830年)か?
   遊歩道
萬屋酒店


池上本門寺方向へ左折すると、萬屋酒店がある。昔は茶屋だった。
題目搭




本門寺方面にすすみ、呑川の手前に大きな題目搭が建っている。
文化8年(1811年)とある。
呑川
池上本門寺
日蓮聖人が弘安5年(1282年)病気療養のため常陸に向かう途中武蔵国池上(現在の大田区池上)の郷主・池上宗仲の館で亡くなられ、そこに建立されたのが本門寺であるという。(HPより)

 総門
五重塔、大宝塔、経蔵などと共に、昭和20年の戦災を免れた数少ない古建築である。元禄年間に建立されたといわれる。
扁額「本門寺」は門より古く、寛永4年(1627年)本阿弥光悦の書を彫刻したものという。

石段

総門から仁王門に続く石段で、説明板によれば「加藤清正(1562-1611)の寄進にって造営されたとつたえられ、96段に構築され、別称を「此経難持坂」という。
元禄の頃(1688-1703)に改修されているが、造営当時の祖型をのこしており、貴重な石造遺構である。」
本堂 層搭         梵鐘

  
五重塔



関東に4基現存する幕末以前の五重塔のうち、一番古い塔である。
徳川秀忠の乳母岡部の局(のち正心院)が、秀忠の病気平癒の御礼と、武運長久を祈り、発願、慶長13年(1608年))に建立された。(HPより)

照栄院


本門寺総門をあとにして、呑川の左手を下流にいくと、照栄院がある。
日蓮の高弟日朗が正応4年(1291年)開創したという。
また、元禄期(1688-1704)に、南谷(なんこく)檀林が本門寺の南方に開創された。(檀林=僧侶の学校の名称)
大田区の文化財が多くある。
養源寺


照栄院の並びにあり、池上七福神の一つ。
浄国橋の手前


下の道は、萬屋酒店の前を東にくる道であり、浄国橋で、呑川を渡る。

浄国橋橋             呑川
    
六郷用水説明板

橋を渡って左側には六郷用水の全体の説明と。地図を描いた大きな掲示板がある。
近くに「六郷用水物語」の説明板があり、次のように説明している。
「六郷用水北堀は、南北引き分けから東進してくると呑川に突き当たり、そこで呑川を横断させ、新井宿方面へ流すため、『八寸』と呼ばれる堰が設けられた。・・・」


  
小母沢公園


しばらく進むと、右側に小母沢公園があり、入口脇に「いにしえの東海道」という石碑が建っている。
「この道は時代により 奥州街道 相州鎌倉街道 平間街道 池上往還 などと 呼ばれていた古道です」 と。
春日通り


このあたりは、「春日通り」とよぶ商店街で比較的にぎやかなとおりである。
旧新井宿出土橋跡


酒井歯科医院の看板のある交差点に、小母沢公園と同じような石碑があり、そのとなりに、「旧新井宿出土橋跡」の黒い標柱がある。
春日神社


すぐ先に、右手が春日神社である。
鎌倉時代の創建という。
広い境内をもつ。
明神橋跡


春日神社のすぐ裏側に、『明神橋跡」とある石柱がある。
この先の環七通りをわたり、すぐに池上通りに合流する。
善慶寺 2つ目の道の角に「新井宿義民六人衆霊地参道」と書かれた大きい標柱がある。奥まったところに善慶寺がある。




正応4年(1291年)開創。
説明板によると 「延宝4年(1676年)過酷を極める領主の年貢収奪に耐えかねた新井宿村の農民の代表6人が幕府に直訴することを決めたが、事前に領主の察知するところとなり6人は捕らえられて斬首の刑に処せられた。しかしその結果、年貢は半減されたので、6人は義民として当時境内に墓所に葬られた・・」という。

熊野神社


善慶寺の奥に、急な石段が続き、熊野神社がある。
文化14年((1817年)庚申搭    文政9年(1827年)手水鉢
           
桃雲寺再興記念碑


新井宿村の領主が村内の古寺を再建し桃雲寺と命名し、寛文4年(1664年)にこの記念碑を建立した。現在は薬師堂のみ残る。
薬師堂
山王会館


馬込文士村資料展示室への入室は16時までということで、残念ながら見学できなかった。「文士村散策マップ」は、もらえた。
散策の目印に、道路にこのマークがある。
暗闇坂


大森駅の手前、JRの線路がすぐ右に見えるところから、左側にはいる坂道が、暗闇坂で、左歩道に木柱がたっている。 
それによると:「むかし 坂側に八景園という遊園地があり、その反対側に加納邸があって、この坂道は細く曲がり、八景園の樹木がうっそうと覆いかかり、昼間でも暗かったために、この名がついたといわれている。」
八景坂


大森駅前の辺りが、ちょうどこの坂である。
説明板によると:「今でこそゆるやかな坂道であるが、むかしは相当な急坂で、あたかも薬草などを刻む薬研の溝のようだったことから、別名 薬研坂と呼ばれた。…かって坂上には。源義家が鎧をかけたと伝えられる松があり、広重らの浮世絵に描かれ、有名であった。」という。
天祖神社



駅前の階段を上ったところが、神社であり、左側の階段付近に「庚申搭 降三世明王尊」ときされた祠が柵の内側に建っている。
日枝神社
大森駅前を過ぎて最初の大きな交差点の先、左が、日枝神社である。左側に稲荷があり、そこに庚申搭がある。「右まごめ」と記したもので、文政2年(1819年)とある。
ほかは、貞享元年(1684年)、元禄13年(1700年)のものである。
 
円能寺


山王神社に隣接しており、大森不動尊といわれる。
大森貝塚がJR線路側にあるが、次回に訪ねることにした。
散策日 2007年3月28日  下丸子−大森
参考 「旧鎌倉街道を歩く」 勝田五郎著