鎌倉下の道 E (菊名−綱島)           地図→@岸根-大倉山  A大倉山-日吉




 菊名の駅からスタート。東口を出て綱島街道を東に少し行くと、左手が蓮勝寺である。



蓮勝寺





鎌倉時代末期の正和4年(1315年)に、連勝上人により創建されたという。
横浜(港北)七福神の一つという。
境内右手に毘沙門道堂があり、石碑とともに案内板がある。それによると、横浜七福神の蓮勝寺、毘沙門天王は、仏師運慶作の『日本三毘沙門」と伝えられ、『左キッチョの毘沙門天』と称されている」という。


菊名神社

菊名駅前の信号から、右二入るのが、下の道である。すぐ左手に神社がある。
由緒によれば、室町時代初期、鶴岡八幡宮より御神霊を勧請し社殿を設立、その後各村に祀られていた神明社、杉山神社、阿府神社、阿府神社を合祀して「菊名神社」と改称したという。



寛政年間(1789〜1801)に造られたという、手水鉢の四方を支える鬼の石像=「がまんさま」は、長い年月苦難に耐え、同じ仕事に飽きることなく手水鉢を支えている我慢強い姿から、努力・忍耐こそが開運を招くもとであると諭している。という。
大豆戸不動尊
しばらく進むと右側へ入る道入口に『不動尊』とある鳥居があり、その奥の階段を登る。小さな池があり、鳥居がたっているが、その脇には、建物の跡だけが残っている。
勝山五郎氏の本「旧鎌倉街道を歩く」には建物が移っているが、焼失したものと思われる。


長屋門


右側に、長屋門が残っている。
妙義神社と道祖神
下の道が、環状2号線を越して綱島街道に合流するところに、狭い一角に、妙義神社が建っている。神社といっても、祠のような小さいものであるが、説明板によると、「太尾村の部落氏神として300余年にわたる篤い尊崇を受けて、参詣者は群馬県妙義山の参拝に代わりこの社の参詣を続けたという。

また、道路側には、道祖神の祠が建っており、それは、近くの交通の幹線道路から移されたもの」という。




いの池弁才天
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綱島街道を進み、2つ目の信号をみぎにはいると、木立に囲まれた場所がある。右側に小さな池があり、弁財天が祀られている。
「いの池」は、古くから使われてきた灌漑用の溜池という。
向かい側の熊野神社の裏に「のの池」を神事に使い、その先には、今は埋め立てられた「ちの池」とよばれる溜池があり、3つの池を、『いのちの池』と呼んだいたという。
師岡(もろおか)熊野神社





いの池の反対側の丘が、師岡熊の神社で立派な様相で、由緒ある神社そのものである。
神社略記によれば、「聖武天皇神亀元年(724年)に全寿仙人によって創建され和歌山県熊野三社の祭神と御一体である。・・・関東地方における熊野信仰の根拠地として、また、横浜北部の総鎮守の宮として古代より現代に至るまで広く篤い崇敬を受けている。」という。
、  江戸名所図会にも描かれており、また、毎年1月14日に行われている『筒粥」の神事は、1000年以上の継続しており市の無形民族文化財にも指定されている。、

法華寺


隣が、法華寺で、もとは熊野神社の別当寺だったが、明治元年(1868)の神仏分離令により分離。
ちの池


綱島街道に戻り、ゆるやかな坂を下る途中左側に公園がある。(三菱病院前)
いのちの池のうちの「ちの池」 跡である。
道祖神と庚申搭


大曽根の信号のところ、右側に道祖神のある小さなお堂と、庚申搭を2基おさめたならんでお堂が建っている。



大曽根の信号のところ、右側に庚申搭を2基おさめた小さなお堂が建っている。
ラジウム霊泉湧出記念碑




下の道は、その信号の先を左に入って、東横線と綱島街道の間をすすむ。
鶴見川の直前でまた合流するた三叉路があり、その地点に記念碑がたっている。
大正3年(1914年、農業用水を得るために地下を掘ったところ、茶褐色の水が出てきて、これを温泉に利用したのが、綱島温泉のはじまり という。実際には規定上のラジウムは含有せず、ラジウム温泉ではない。という。
鶴見川方面からみた三叉路
鶴見川


鶴見川にかかる大綱橋をわたった土手のすぐ南にある稲荷神社。
池谷家


鶴見川に沿って下流に向かう道路の先にピーチゴルフセンターという練習場があり、その向かいの広い敷地のところに池谷家がある。
池谷家は、南綱島村の名主をつとめ、明治以降は、養豚、後期には桃の栽培など、地域の産業育成に貢献したという。
神明社



線路脇の小山に、神社跡がある。
百段をこえる石段を登りつめたところに建てられ、南・北の綱島村の鎮守であったが、明治6年諏訪神社が村社となったため荒廃した。今は石碑が残る。
  
諏訪神社


神明社から長福寺に行く途中、綱島街道の右側の丘に諏訪神社があるので、寄ってみた。
由緒によれば、「綱島は往昔、綱島三郎信照の采邑で,16世紀には甲州の家臣が領有しており、信濃の諏訪明神を信仰していた。その後 慶長10年頃(1605年頃)諏訪明神を勧請して創建した」という。
庚申搭


諏訪神社からに東側に下りたところに、庚申搭がある。
天明4年(1784年)と刻まれている。
長福寺


石碑にある由緒沿革によると、、戦国時代のころ綱島十八騎というものがあって、その一人、児島賀典(後改姓して佐々木となる)が出家し、僧となりこの地に浄土真宗綱島山長福寺を開山した」という。
弁財天


綱島駅に向かう途中の小道のほとりに小さい池があり、弁財天と刻印された石碑がお堂の中にある。
東照寺
綱島駅の西口にまわり、下の道を西に進んだ。
右手に東照寺があるが本堂が工事中であった。
、案内板によると、「慶安2年(1649年)大曽根村大乗寺第三世生外意鐵和尚が創建された。本尊は薬師如来で、伝えるところでは行基作という。」
参道には、正徳2年(1712年)の庚申搭がある。

この先、東照寺から来迎寺への道を確認してから、綱島駅にもどる。
散策日 2006年316日  菊名−綱島
参考 「旧鎌倉街道を歩く」 勝田五郎著