鎌倉下の道 L隅田川-国府台(市川) 

        地図 → @浅草-四つ木  A四つ木-奥戸橋  B奥戸橋-国府台
 


 隅田川の東-向島から、ほぼ真東に向かうルートを進み江戸川を渡る。
東武伊勢崎線の東向島駅で下車し、西に戻って白髭橋に行き、そこを今回のスタートとする。

 

白髭橋からの隅田川
 墨田川の川沿いに首都高速が南北に伸び、その東側には大規模な都営住宅が並び、広い墨堤通りがはしる。
橋の南側には、建設中のスカイツリーが存在感を示し始めている。

隅田川神社
 堤防沿いに北に進むと公園の西端に隅田川神社がある。水神社・浮島神社といわれた古社で、もとは100mほど東にあったという。治承4年(1180)頼朝の武蔵入りの時、社殿を造営したという。狛犬の代わりに、石の亀がある。
 この辺りに古代の官道が通過しており、神社の南側には墨田宿があった。下総国府のあった市川のあたりまで直線的に走っており、鎌倉時代にも利用されていたという。(今回の道はほぼそれに沿う形である。)

木母寺(もくぼじ)梅若堂

 神社の北に木母寺があり境内に梅若堂が覆いに囲われて建っている。その前に梅若塚がある。
平安時代、人買いにさらわれた梅若丸が墨田川のほとりで病気になり
「たずね来てとわば答えよみやこどりすみだ河原の露と消えねど」
と歌を詠んで12歳で亡くなった。来あわせた僧が塚を築き柳を植えたという。謡曲墨田川のもとになった。
 前回散策した江戸通りの西に、探しに来た母親の妙亀塚がある。
 境内には他に、文政12年建立の「題隅田堤桜花」の詩碑など多くの碑がある。

下道の分岐
 都営アパートの中を抜けて、墨堤通りを信号で横切り100mほど北に進むと旧道があり、東に向かう。
郵便局の先に四辻があり、ここから北に行くのが松戸に向かう下道と分岐する所で、さきに進む前に、右折して正福寺に寄る。

正福寺
 慶長7年(1602)の開基という正福寺には、都内最古の銘のある宝治2年(1248)の板碑がある。境内には、他に寛文7年(1667)銘の手洗水盤があり、側面に三猿が彫られており珍しい庚申供養の水鉢である。
 門の南には、天保4年(1833)橋場付近の工事の際川床から発掘されたおおくの頭骨の供養のために碑がたてられ、「首塚」といったとつたえられる首塚地蔵尊がある。
 
 元の四辻を東に向かい、、鐘ヶ淵駅をすぎて荒川の土手に突当り、旧道は消える。
堤防を南に行き、四ツ木橋をわたる。

鐘ヶ淵駅すぎ

荒川土手の地蔵           荒川と四ツ木橋
    

西光寺
 四ツ木橋で荒川・綾瀬川を渡り、二つ目の信号の所に、荒川で消えた旧街道が続き、この水戸街道を越えて東にまっすぐに続く。
 その東南奥に西光寺がある。ここは、葛西清重の晩年の居館跡という。嘉禄元年(1225)日蓮上人が東国教化の時この館に泊まり、清重は日蓮に深く帰依して堂をたてたのが始まりという。

 西光寺の南側の道を水戸街道に向かって数十m行くと、四ツ木一丁目西町会館があり、その奥に葛西清重の墓がある。

葛西清重の墓
 葛西清重は、頼朝が、治承4年(1180)10月江戸川を越えて隅田宿に入った時、父の豊島清光と共に呼びかけに応じて参戦した。清重は、当初参陣しなかった江戸氏、河越氏、畠山氏らと同族のよしみで交渉、その後の源平合戦、奥州の藤原泰衡討伐などで功績をたて、奥州総奉行となった。
東京都教育委員会の「都旧跡 葛西清重の墓」の説明板があるが、実際には清重はどこで亡くなったかは不明という。

 西光寺から旧街道に戻り、東に向かう。四ツ木銀座という通りを過ぎ、京成押上線の踏切を越えて奥戸街道に入り、京成立石駅前を通る。
  

喜多向観音菩薩
 
本奥戸橋
 駅前を過ぎると南側に寛保元年(1741)の「喜多向」観音菩薩がある。
 その先が、中川にかかる本奥戸橋であるが、下道は、その手前を川沿いに東に向かう。

地蔵尊・道標・馬頭観音
 コーナーには地蔵、石塔などが並んでいる。
地蔵尊は貞享3年(1683)念仏講と刻まれ、近くから移されたという。
馬頭観音は安政2年(1855)、道標は宝暦5年(1755)とある。

道標には、「右 江戸みち  左 おくとミち まがxxxx   渡しば道」
と刻まれている。

地蔵尊
 川沿いにすすむと、左に小さな祠があり、仲通り子育地蔵尊が祀られている。

道標
 その100mほど先の北に入る道の角に「帝釈天王」と刻まれた小さな道標がたっている。
この道は、古代は、常陸に行く官道(古東海道)であり、江戸時代には柴又道といわれて帝釈天への参詣者が通る道であったという。

立石祠
 更に100mほど先(南蔵院の西側)を北に向かい、100m先を左に入ると、小さな公園があり祠がある。石の囲いの中に「立石」があり、石の頭だけ見え、どこまで掘ってもそこが尽きないといわれ、江戸時代から名所であったという。
説明板によると、古墳の石材の一部か、巨石信仰の一種なのか不明という。

南蔵院
 旧街道に戻りすこし先に南蔵院がある。創建は古く、鎌倉・室町時代の板碑があるということで探したが、見つからなかった。

熊野神社
 その東北の方向に熊野神社がある。神社の由緒によると、長保年間(999〜1003)に陰陽師の安倍清明の勧請によると伝えられており、また御神体が「神代の石剣」で非常に珍しいものという。
 江戸時代、この辺りで「本田(ほんでん)ウリ」が栽培され、中川を下って江戸で銀マクワとして売られていたという。

奥戸橋で、大きくカーブしている中川を渡り、東にまっすぐにすすむ。
  

上小岩遺跡通り
 京成小岩駅を過ぎたあたりから道は、上小岩遺跡通りと付けられており、このあたりに古墳時代前期を中心とする低地の集落遺跡があったという。
 説明板によると、「奈良の正倉院文書に養老5年(721)の下総国葛飾郡大嶋郷の古跡があり、この中の甲和里という集落が小岩に当たると推定されている」という。

十念寺
 テニススクール前の信号のある交差点を南にいくと、十念寺がある。
元和7年(1621)開山という。
元応元年(1319)の板碑や、文化10年(1813)の庚申塔河原道石造道標などがあるという。

真光院
 元の道に戻りさらに東に行くと真光院に突当る。慶長7年(1602)開山という
門の前には、青面金剛や馬頭観音があり、背後の祠には地蔵など多くの石仏と共に、
ドラエモンの塔も並んでいる。

江戸川・国府台方面
 真光院で道は途切れるが、このあたりから国府台方面へと川をわたったと思われる。
 寺の前の道を南に行き京成線をくぐって、市川橋で江戸川を渡る。
江戸時代以前の江戸川は太日川(ふといがわ)と呼ばれていた。
途中、堤防に上がり、江戸川の東岸の国府台方面を眺める。

市川関所跡
 市川橋から堤防を北に向かうとすぐに、平成16年に新しく建てられた市川関所跡がある。平成16年に新しく建てられた。
「小岩・市川関所」と呼ばれ,市川村と小岩村の二村が一対でひとつの関所としての役割を分担していたという。渡船は明治38年(1905)に江戸川橋がかけられるまで続いたという。

羅漢の井
 堤防を北に進み、京成線を過ぎると、川の東側に緩やかな台地が見えてくる。台地上には、大学の建物が見え、約1kmほど進むと里見公園へ上る道がある。
 坂の途中に、石垣で囲まれた井戸がある。
羅漢の井という名前があり、弘法大師が見つけたという伝承がある。

国府台城跡
 坂を上ると左側一帯が里見公園で、国府台城があった場所である。文明10年(1478)大田道灌が武蔵石浜城の千葉自胤(よりたね)を助け、敵対する千葉孝胤(たかたね)と戦うために国府台に陣を作ったのが始まりとされる。
その後、天文7年(1538)と永禄7年(1564)の二度にわたる小田原北条軍と安房里見氏との「国府台合戦」により、里見軍は退却した。
北条氏により城の規模も拡大したが、家康の江戸入りに伴い廃城となった。


 高台より江戸川と西を望む。
真中に建つのが建設中のスカイツリー。

総寧寺
 公園を出て東側の道を北に向かい、総寧寺に行く。
説明板によれば、もとは、近江国で永徳3年(1383)開山、天正3年(1575)小田原北条氏により下総国関宿に移され、その後寛文3年(1663)にの国府台に移ってきた、という。
江戸時代に、関三刹として曹洞宗の宗政を司った寺院の一つである。
 関三刹  下野国:大中寺               (=関東僧録)
       下総国:総寧寺
       武蔵国:龍穏寺
 夜泣石という自然石があるというが、不明であった。

 公園前を東に向かい南北に走るバス通りに出る。
出口には里見公園入口のモニュメントが建つ。
南北の道は、下総国府と常陸国府を結ぶ官道であったという。


 南に向かい、京成線国府台駅に行った。
散策日  2010年1月8日   向島(白髭橋)〜国府台(市川)
参考
「旧鎌倉街道・探索の旅-下道編」

「中世を歩く― 東京とその近郊に古道「鎌倉街道」を探る―」

 芳賀善次郎著

 北倉庄一