鎌倉下の道   M向島/鐘ヶ淵駅-松戸 

        地図 → @向島/鐘ヶ淵−青砥  A青砥−松戸
 


 前回の隅田川の東-向島から、ほぼ真東に向かって江戸川を渡り、国府台に行くルートは、下の道から下総に抜ける道である。
今回は白髪橋を渡った先の分岐点(鐘ヶ淵駅の西)から、下の道の本道を通り、松戸まで行く。
この道は、水戸街道の元になった道という。


 

下道の分岐点から北東方面へ
 鐘ヶ淵駅前を真西に行って、正福寺の北にある信号のある交差点までもどり、北に向かう。
「隅田川七福神巡路」と書かれた看板が立ち、親しみのある街並みを約700m進むと、多門寺がある。

 多門寺の創建は不詳であるが、天徳年間(957〜60)には現隅田川神社付近にあり、天正年間(1573〜91)に本尊を毘沙門天として多門寺に改称したといわれる。

多聞寺

 参道の先に茅葺の山門がある。隅田区内最古の建物で、「慶安2年(1649)建立といい、その後焼失した。享和3年(1803)の火災で焼失を免れたという記述が過去帳にあることから、それ以前には再建されていた。」と説明板にある。

境内には、「狸塚」といわれる伝説が残るという説明板や塚がある。

 山門の前には、青面金剛の庚申塔が2基と、文字と3猿だけが刻まれた延宝8年(1680)の庚申塔2基などの石塔が並んでいる。

荒川-首都高の新荒川橋方面
 多門寺から北に向かうが、旧道は荒川で分断される。そこで東武伊勢崎線に沿って北上し、堀切橋をわたって対岸に行くことになる。
高い位置を走る首都高の下を抜け堀切駅手前の陸橋から土手沿いの道にでて堀切橋を渡る。

堀切橋
 荒川の東側には、綾瀬川が流れ、その東の土手沿いに南北に高速道路が走る。堀切橋を渡り切らずに綾瀬川の土手の信号を南に下る。首都高の堀切JCTの下に堀切小橋があり、この附近から東に旧道は通っていたというが、道筋ははっきりしてしない。

堀切水辺公園とスカイツリー
  寄り道になるが、堀切小橋を渡らず堀切菖蒲園方面に行ってから旧道に戻ることにする。
その先は広い公園が整備されており、堀切菖蒲園周辺の解説がある大きな説明板が立っている。永井荷風が良く訪れていたという解説もある。
 西側には建設中のスカイツリーが大きく見える。
その南側のある水門を通って、綾瀬川を渡る。
土手から下りた地点の信号から少し北の路地を北に向かってはいると、堀切菖蒲園がある。

堀切菖蒲園

 まだ菖蒲の季節ではなく、手入れの最中であった。
この附近は綾瀬川に沿った低湿地で昔から菖蒲の栽培に適していたとされ、室町時代、堀切村の地頭が栽培を始めたという説や、江戸時代、村の小高伊左衛門が趣味で各地の花菖蒲を収集し庭で栽培したという説がある。

江戸時代には広重の浮世絵や名所案内にも登場し、広く知られていたという。

郷倉
 菖蒲園の入口前から北東に散歩道が続いており、その200mほど先を右に入ると、堀切小学校がある。校庭の南東の端に、藁葺きの建物があり、説明板が立っている。それによれば、郷倉は、年貢を一時的に収めておくために設けられその後非常用の食糧を保管するようになったという。、ここの郷倉は、天明年間(1781〜89)以降の飢饉、洪水等の災害用の備蓄のために建てられたものという。多少修理が行われたが、創建当初の姿を伝えているという。

道の風景
 小学校から北に行き、荒川方面から真東に伸びてきている旧道に戻る。ラッキー通りという名前の付いている商店街であるが、すぐ先の信号のある交差点からは幅の広い道路につながっている。
左側に路地を入ったところに、八幡神社がある。

お花茶屋駅から北東へ向かう
 京成線お花茶屋駅前から京成線を渡り東側の広場にでる。
江戸時代2本の用水路があった所で、川は曳舟川と呼ばれており、広い公園となっている。
ここからは、京成線の北側の道を北東に進む。国道6号−現水戸街道の西側を並行している道で、途中で6号線に出て迂回せざるを得ないところもある。
道なりに進み、青戸八丁目に入ってからは真北に向かう。
右側に亀青小学校があり、旧道はその先から東に向かい、今の環七通りを越えて中川を渡ったようである。

宝持院
 環七通りを南に行き、葛西城跡を訪ねる。
途中、亀青小学校の東側に宝持院がある。
天養2年(1145)の開創、天文7年(1538)の国府台合戦で焼失、その後再建されたという。
境内には、下小合村の領主として続いた松浦氏の子孫で、寛延元年(1748)長崎奉行に抜擢された松浦河内守信正の墓がある。

現在の水戸街道
 その南は、水戸街道が環七通りの陸橋と交差する青戸八丁目交差点である。
昼の時間帯で、松戸方面へ向かう車で混雑しており、隅田方面には遠く建設中のスカイツリーが見える。
歩道橋で水戸街道を渡り環七通りを南にいくと、左側に小公園、右側に御殿山公園がある。
この辺りは葛西城跡といわれ、昭和47年(1972)から環七通りの建設に伴い発掘調査が行われ、大規模な堀、溝跡等が検出され、中世の陶磁器や木製品が多量に出土したという。
葛西城跡
 御殿山公園の南側に小さい広場があり、発掘された葛西城の説明板がある。葛西地域は、秩父平氏の流れをくむ葛西氏によって治められ、一部は「葛西御厨」として伊勢神宮に寄進されていた。
 葛西城の築城は15世紀中頃と推定され、天文7年(1538)の国府台合戦で北条氏綱により落城、徳川時代には跡地に将軍の鷹狩の際の休憩として「青戸御殿」が建てられたという。
また、青砥藤綱の居館跡という伝承があり、木陰に石碑が立っている。

延命寺と二十一仏庚申塔
クリックすると拡大 水戸街道まで戻り、中川大橋で中川をわたるが、その手前北側に延命寺がある。嘉応元年(1169)の開創という。青砥藤綱が、青砥疫神を守護神としていたという伝説がある。
境内の中川寄りに、二十一仏庚申塔1基が、祠に置かれ説明板がある。「この塔は、山王二十一社の本地仏の種子(しゅじ:梵字)と三戸(さんし:人の体内にあって短命にする虫)の文字を刻み、蓮華・沢瀉(おもだか)の葉を描いていおり、中世の二十一仏板碑から、近世の庚申塔に移る頃の貴重なもの」という。
中川
 中川の対岸は、新宿(にいじゅく)という宿場で、今の中川大橋の北の位置--これから行く日枝神社から西念寺のあたりに向かう「新宿の渡し」があったという。



日枝神社
 橋を渡るとすぐ左に日枝神社がある。
永禄2年(1559)のころの創建という。江戸時代は新宿の鎮守であった。
境内にはひときわ目立つ鳥居が立っている。「山王鳥居」と言われ、鳥居の笠木の部分の上端に合掌のように破風を付したもので、日枝神社・日吉大社などに見られる鳥居である。

新宿-桝形の道
 日枝神社の北側にまわり、細い道を少しいくと、桝形の道とぶつかる。
桝形の道を、北から日枝神社方面をみたところ
この桝形の道には宿場町の面影がある。安政年間の長屋門が残っていたというが今はない。
ここから、南に佐倉まで行く佐倉道が分岐していた。水戸街道はこの先、金町・松戸・取手と進む。
東へ100mほど進み、浄心寺の脇を北にすすむと、道路拡張工事中の信号のある三叉路に出る。 旧水戸街道である。

石塔群
 その先に別の三叉路があり、そのコーナーに旧水戸街道拡幅工事にともない移転された地蔵菩薩石仏など13体が並んでいる。

宝永7年(1710)の地蔵像
    享保7年(1722)の庚申塔

道の景色
 金町駅入口の交差点で、現水戸街道に合流し、その先で分岐して常磐線のガードをくぐって北に向かう。
ガードの先数十メートルで右に入ると、葛西神社の参道が現れる。
江戸川の堤防を背にしたうっそうとした森の中にある。

葛西神社

 葛西神社は、元歴元年(1184) 葛西三郎清重が葛西33郷の総鎮守として、下総国 香取神宮を勧請したという。 
境内奥に元禄8年(1695)金町村の念仏講の人々が悪魔降伏を祈って建てたという「鍾馗(しょうき)石像」がある。 『石像』はあまり例がなく貴重という。
裏には明治39年(1906)築の「金町のお冨士さん」として知られる冨士塚がある。

光増寺
  神社の北200mほどに、葛西清重が招いた親鸞聖人ゆかりの地であるという光増寺がある。
貞観元年(1222)創立という。
境内に舟形地蔵があり、説明板がある。元禄7年(1694)の建立で、地蔵の浮彫の左側に、「そうか迄二里半」、右側に「ミキ いわつきしおんしミち」とあり、30m南の街道沿いにあったという。
岩槻の慈恩寺への道標であった。

半田稲荷神社
 西側の広い道路の北西に半田稲荷神社がある。
創建は不明、享保年間(1716〜36)の頃には、麻疹・疱瘡・安産に霊験ある神社として広く信仰されていたという。
湧泉井戸で、枠に注連縄が掛かる「神泉遺構」があり、また境内奥には、葛飾区内最古-寛延元年(1748)-の狐の石像一対が残る。

葛飾橋
 旧道は、消滅しているが、広い道路に戻り、北西にむかって葛飾橋で江戸川を渡る。
東側奥に松戸の市街地が見える。

下横町渡船場
 葛飾橋を渡った先の信号で堤防上に出て北に向かう。
500mほど先の堤防の下を走る道路わきに、「是より御料松戸宿 左 江戸道」とある大きな石碑と説明板が立っている。
この辺りに下横町渡船場があり、一方江戸川対岸には金町松戸関所があったという。 江戸時代の絵図には、宿の出入り口に、高札と並んで「御料傍示杭」の文字があり、水戸街道の松戸宿の玄関口であったここに標石を建てたという。(平成7年)

道の景色
 石碑から東に向かい、100m弱で旧水戸街道に出る。
300mほど先にある春雨橋あたりまでが、明治29年(1896)の鉄道開通以前の町の中心であったという。
 旧道はこのまま北に向かうが、今回は松戸までの散策の予定なので、他の史跡を訪ねる。
 最初の信号を右折すると左手に松戸神社がある。

戸定(とじょう)邸
 常磐線のガードをくぐり100mほど先を右折し、坂を上ると「戸定邸」があり、一帯が戸定が丘歴史公園として整備されている。
最後の水戸藩主で、徳川斉昭の18男(徳川慶喜の実弟)である徳川昭武が、明治16年(1883)水戸徳川家当主を退き、翌年松戸に戸定邸を建設・移住してきた。
  

相模台-松戸中央公園
 坂を下りきって右折し、すぐ左折して常磐線と並行する道を北へ行く。右側の丘へ上る坂道があり、石垣に沿って進む。(右折してすぐに相模台公園への石段があるが、ここではない)坂を上りきって裁判所の前を北に進むと左側が公園となっている。その一角に説明板がある。相模台という名は鎌倉時代の6代執権北条長時が、館を築いたところから始まるという。
天文7年(1583)の北条氏綱・氏康と安房・上総の里見義堯(よしたか)・足利義明が戦った第一次国府台合戦での激戦地といわれる。
 大正8年(1919)陸軍工兵学校が開設された。入口の門柱はその名残である。

経世塚
 公園前を進むと聖徳大学があり、正門で許可を得て構内に入ると左手に相模台戦跡碑と経世塚がある。
相模台での合戦では、足利義明は「千余人戦死」を出し、北条軍の大勝に終わった。
経世塚は、その戦死者を葬った跡と伝えられている。
(事情があって昭和54年に現在地に移動してきたという)
 

 聖徳大学から公園の脇を西に向かい、松戸駅に向かう。
丘を下りる道は別途あるが、イトーヨーカドーのビルがすぐそばに建っており、内部のエスカレーターを使って、楽々 駅に到着できた。
散策日  2010年1月22日   鐘ヶ淵駅〜松戸
参考
「旧鎌倉街道・探索の旅-下道編」

「中世を歩く― 東京とその近郊に古道「鎌倉街道」を探る―」

 芳賀善次郎著

 北倉庄一