鎌倉下の道 K 大手町-隅田川(白髭橋)

              地図 → @大手町-浅草  A浅草-四つ木
 

 鎌倉街道の中で、一番最初にスタートした「下の道」であったが、大手町の将門首塚までで中断していたが、3年ぶりにその先の散策を再開する。
ここからは、芳賀善次郎著「旧鎌倉街道探索の旅(下道編)」をベースにして、今回は浅草まですすむ。
このあたりは、東京湾がふかく入り込んでいたという説もあるようであるが、中世にはすでに江戸と浅草を結ぶ道(下の道)として成立していたようであり、その後江戸時代には奥州街道ともなった。
 源頼朝が安房から武蔵に向かった時に、武蔵武士団の抵抗で隅田川の対岸に足止めされた所である。

常盤橋門
 首塚のある大手町あたりは、昔は日比谷の入江の北端で、神田川の下流である「平川」の河口であったといわれる。江戸といわれ12世紀初頭に秩父重綱の子 重継が江戸荘の荘司となり江戸氏を称したという。
 今の東京駅、有楽町駅あたりは江戸前島といって微高地になっていて、大田道灌のころ平川を東に移しこの常盤橋あたりに「高橋」を架けたという。大手門あたりまで来た旧街道はこの付近を通ったが、鎌倉時代このあたりに、通行人監視役の矢野弾左衛門(被差別民の頭領)が配置されという。
 当初浅草口門と呼ばれたが、三代家光の頃、常盤橋門となった。常盤橋は明治10年(1877)の木造から石橋に架け替えられた。
日本銀行
 常盤橋をわたると前が日本銀行であり、江戸時代には金座があった。
徳川家康が京都の金匠・後藤庄三郎光次(みつつぐ)に命じて江戸で小判を鋳造させた時から始まる。
その後勘定奉行の支配下でその敷地内に鋳造施設を設置して、江戸での金貨鋳造はここでのみ行うことになった。
「金座」は明治 2年(1869)、造幣局に吸収され廃止された。

江戸通り
 日本銀行の北側の広い通りが、江戸通りで、東北方向にほぼ真っ直ぐ進む。この先、宝町、小伝馬町、馬喰町などのなじみのある交差点が続く。
昭和通りとの交差点-本町三丁目-の一つ先の細い道を右折すると駐車場の端にまわりに木も一本もない鳥居と建物だけの神社が立っている。

宝田神社
 宝田神社は、もとは江戸城外の宝田村の鎮守であったが、家康の江戸城拡張により、宝田、祝田、千代田の三ヶ村が転居を命ぜられ氏子住民とともに移転してきたという。説明板によれば、御神体の恵比寿神は運慶作とつたえられ家康から下賜されたものという。

少し寄り道になるが、次の交差点の手前の細い道を南に300mほど行ったところにある椙森(すぎのもり)神社にいく。

椙森(すぎのもり)神社
 神社の創建は、平安時代に平将門の乱を平定するために藤原秀郷が戦勝祈願した所といわれている。大田道灌が雨乞い祈願のために山城国伏見稲荷の伍社の神を勧請して信仰したと伝えられる。江戸時代には、柳森・烏森とともに江戸の三森の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれ、庶民の信仰を集めた。と説明板にある。神社が街の中心にあるため、江戸三富の一つに数えられるほど多くの富くじが興行されたことが記録に残されており、境内には富塚がある。

十思公園:伝馬町牢屋敷跡
 小伝馬町交差点の北に十思公園があり、伝馬町牢屋敷跡がある。
慶長18年(1613)常盤橋外からここに移転し、明治8年(1875)まで存続した。約2600坪の規模で、明歴3年(1657)の収容囚人は130人だったという。
安政の大獄(1859)で処刑された吉田松陰終焉の地の石碑などが並んでいる。



関東郡代屋敷跡
 江戸通りを進み、浅草橋交差点の先の交番の脇に説明板が立つ。
江戸時代に、幕府の直轄地(天領)の、年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理していたのが代官であるが、中でも広い範囲の幕府領の管理を命ぜられていたのが郡代である。、関東郡代は天正8年(1590)家康から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永19年(1642)に関東諸代官の統括などを命ぜられたことから始まり、以後関東郡代として伊奈氏が代々世襲した。(江戸中期には関東・美濃・四国・飛騨の4郡代があった。)
寛政四年(1792)伊奈氏失脚後は勘定奉行が兼任し、その後文化三年(1806)には馬喰町代官所御用屋敷となった。

浅草橋
 すぐに浅草橋が架かる神田川であり、屋形船が数多く係留されている。
このあたり柳橋、浅草橋付近は、元禄期(1688〜1704)に吉原(浅草寺の北方−今の千束付近)へ川で通う基地として大いに賑わったという。船は「猪牙舟(ちょきぶね)」と呼ばれ、船尾に櫓がある伝馬船で、屋形船より早く上流の山谷掘まで行ったという。


浅草見附跡

 浅草橋の手前には、浅草御門といわれた舛形門が築かれ、江戸城の警護をした。
奥州街道(千住街道)の通る道でありまた浅草寺や吉原への道筋であって、警護のの人が配置されたことから浅草見附といわれた。
橋を渡ったところに浅草見附跡の石柱がある。

浅草橋駅前
 ここから蔵前交差点までは、人形、玩具、手芸用品などなど多くの問屋が並ぶ。
特に、正徳元年(1711)三河出身の次郎兵衛が創業した「吉徳」や、天保六年(1835)横山久左衛門創業の「久月」などには雛人形や羽子板など買い物に来た思い出がある。

銀杏八幡神社
 JR浅草橋駅すぐ北の商店街の奥まったところにある。
源義家が、奥州の安倍貞任・宗任を平定するためにこの地に立ち寄り、小高い丘で隅田川を一望できる場所であったので小休止したところ、川上より銀杏の枝が流れてきた。それを丘に差し「朝敵退治のあかつきには枝葉栄うべし」と祈願した。平定後この地に帰ったところ大きく繁茂していたので、太刀一振りを捧げ、八幡宮を勧請したという。
康平5年(1062)といわれる。

蔵前交差点・天文台跡
 蔵前という町名が初めてつけられたのは元和7年(1621)の浅草御蔵前片町で、この付近に徳川幕府の米蔵があったことからつけられたという説明板が立つ。幕府直轄地から送られた米の倉庫で大阪、京都二条の御蔵とあわせ三御蔵といわれ、当時は67棟もの蔵があったという。
角には「天文台跡」の説明板が立ち、この西側に天明2年(1782)牛込から移転された天文台(司天台)が置かれ、正式名を「領歴所御用屋敷」といったという。

蔵前橋
 交差点から東に蔵前橋にいく。右側に立派な石碑が立つ。
 蔵前橋は、震災復興事業の一環として新しい構造で造られ、昭和2年(1927)完成したものという

川岸には「隅田川テラス案内図」が立ち、このあたり一帯の散策ルートなどが紹介されている。

首尾の松
 橋の手前右側に石碑と松が植えられている。説明板によれば、「約100m川下に枝が川面にさしかかるように垂れていた「首尾の松」があった,といい、由来については「隅田川が氾檻したとき、三代将軍家光の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」と称した」など諸説があるようで、今の松は植え継がれて7代目に当たるという。

鳥越神社

 蔵前交叉点まで戻り、そのまま西に向かって200mほど進むと鳥越神社がある。
日本武尊が東国平定の折りこの地にしばらくとどまったことから村人が威徳を偲び、白雉(はくち)2年(651)に白鳥大明神を祀った。その後、永承年間(1046〜52)に奥州の安倍貞任らの乱−前九年の役-平定のためこの地を通った源頼家、義家父子は、名もしらぬ鳥が越えるのを見て、浅瀬を知り大川(隅田川)を渡ることが出来たということから鳥越大明神と名付けたという。

厩(うまや)橋
 江戸通りを北上する代わりに、新堀通りを北に向かい春日通りの手前、右側にある龍宝寺に出かけた。鎌倉末期の正応6年(1293)の板碑があるという。残念ながら門が閉まっていて見れなかった。

春日通りの東に厩橋が架かる。このあたり一帯の米の倉庫での運搬用に馬が飼われ、江戸中期にできた渡し船が「御厩の渡し」と呼ばれていたという。明治になり渡しが利用されなくなり、有料の木橋を開設したのが厩橋の始まりという。

駒形どぜう
 再び江戸通りを北に向かうと、左側に駒形どぜうの看板と風格のある建物が見えてくる。
創業は、享和元年(1801)初代越後屋助七が駒形に開いためし屋がはじまりという。
店の前には、近くで生まれた久保田万太郎の句碑も建っている。

駒形橋
 次の交叉点の東が駒形橋となる。橋の名は、西詰めにある「駒形堂」に由来するという。
石碑には、吉原大夫高尾が仙台藩主 伊達綱宗に贈ったという「君はいま 駒形あたり ほととぎす」の句が紹介されている。

                   隅田川-南側

駒形堂
 駒形堂は、天慶5年(942)安房守平公雅が、浅草寺堂塔伽藍を建立する際、馬頭観音を祀るために建立したという。元禄年間までは、川に面して東向きで、今は西向きに建つ。
 境内には、「浅草観音戒殺碑」がある。駒形堂周辺の魚の捕獲・殺傷を禁じたもので、元禄6年(1693)に建てられ、宝暦9年(1759)再建されたが、今立っているのは、昭和2年に土中から発見されたもので、どちらかは不明という。

吾妻橋

 吾妻橋交差点で東武線浅草駅・松屋浅草が正面に見える。
花川戸町の入り口で、この奥付近が古代官道(東海道)の『豊島駅』の所在地と推定されている。
東側には、吾妻橋の先に向島のビル群が見える。(黄色は“泡の溢れるビールジョッキ”と“炎のオブジェ”)
吾妻橋が最初に架けられたのは安永3年(1774)で大川橋と付けられ、その後、明治9年(1876)の架け替えの時に正式に名付けられたという。
江戸の東だからとか、向島にある「吾嬬(あずま)神社」への道に通じるからとかの説がある。

浅草寺


 浅草寺は、推古天皇36年(628)に創建されたと伝承があるが、発掘調査により、奈良時代初期には現在の位置に伽藍があったことが確認されているという。
浅草寺縁起(室町時代)によれば、天慶5年(942)安房守の平公雅は、浅草寺に祈願し、願いが成就したのち金堂や宝塔などを建立したという。(平公雅は、高望王の孫)
 源頼朝が下総で挙兵し武蔵国入りした時には参詣したという。また、治承5年(1181)鎌倉に入って鶴岡八幡宮を建造する時には、浅草から大工を呼び寄せて工事を任せたという記述が「吾妻鏡」にある。
また後深草院二条が綴ったという紀行文、『とはずがたり』には、正応3年(1290)8月の浅草の様子…浅草寺、観音堂、宿、隅田川など・・が詳しく記されている。当時から相当な寺院と門前町があったと推定される。
 江戸時代には、徳川の祈願所として厚遇され、一度焼失した堂宇が、慶安年間(1648〜58)に幕府の主導により大規模に造営されたという。
昭和20年大空襲により、二天門を残して焼失した。

伝法院の門
 宝蔵門の手前西側にあり、浅草寺の本坊である。小堀遠州作と伝えられる回遊式庭園がある。
今後の特別公開のときには是非見学したいものである。



姥ヶ池旧跡
 本堂の東側にある二天門から隅田川方向に向かうと花川戸公園があり、小さな池と姥ヶ池旧跡の石碑がある。姥ヶ池は明治24年に埋め立てられたが、昔、浅茅ヶ原といわれたこのあたりの石枕伝説といわれる伝説がある。  一軒家に住む美しい娘と老女が住んでおり、娘を使って旅人を泊めては石枕で殺して金品を奪っていた。その数が1000人目となる時に、旅人に化身した観音が泊り、娘が身代りとなって死んだ。・・・老女は今までの罪を悔み池に身投げをしたという。
 東側には、代々歌舞伎十八番「助六」を演じてきた市川団十郎の九世が自作の歌を揮毫した歌碑が立っている。        助六歌碑

隅田公園
 隅田川べりには、吾妻橋から言問橋の北側まで墨田公園があり、対岸の向島側にも同名の公園がある。
 <言問橋側.>                <吾妻橋側
         

言問橋
 江戸通りを北上して、言問橋となる。
名前の由来は諸説あるようであるが、話として面白いのが「伊勢物語」 にある 在原業平 の詠んだ『名にし負わば いざ言問はん都鳥 わが思ふ人はありやなしやと』の古歌に由来しているという説である。橋を向島側に真っ直ぐ進むと、「墨田区業平」 という地名がある。
 ただ実際に業平の渡ったとされるのは、ここから更に北にある白髭橋付近にあった「橋場の渡し」である。
 遠くには、東武伊勢崎線の業平橋駅脇に建設中のスカイツリーが見える。

待乳山(まつちやま)聖天
 言問橋交差点から道は二又に分かれ、左に行くのが旧日光街道・奥州街道で、江戸時代初めに開かれた。旧道は右に進む。
200mほど先左に待乳山と呼ばれる小高い丘があり、待乳山聖天がある。浅草寺の支院で本龍院といい、創建は推古天皇9年(601)、十一面観音が聖天歓喜尊天となって現れたのを祀ったといわれる。江戸時代には東の眺望の名所と称された。、二股大根と巾着の組み合わせが紋章が珍しい。
境内には、銅造の宝篋印塔がある。天明元年(1781)に鋳物師西村和泉守が製作したもので、屋根型の笠を持つ。また、江戸時代の名残をとどめるものとして「築地塀(ついじへい)」が保存されている。
 銅造宝篋印塔   築地塀

今戸橋と山谷堀
 すぐ北に山谷堀公園があり、、今戸橋の橋台が残る。山谷掘があったところで、江戸初期にできたものという。
当時は浅草橋付近から猪牙船で隅田川を上って吉原へ通うルートであった。吉原の日本堤橋から今戸橋まで9つの橋があったが今はすべて埋め立てられている。

保元寺
 江戸通りを北上し、東京都人権プラザ信号を西に行き二つ目の角を北に向かうと保元寺がある。
境内にある石碑の縁起によると、「保元寺は宝亀元年(770)に創建された古刹である。…中略・境内には延文2年(1070)に亡じた鎌倉権太夫景通の古塔や、木曽義仲との戦に白髪を黒く染めて奮戦した斎藤実盛の石仏などがある・・・」という。・

妙亀塚

 保元寺の道を200mほど北に行った先の角を西に曲がると小さな公園があり、その中にある。
説明板によれば 「謡曲『隅田川』のもとになった『梅若伝説』の地である。・・・平安時代、京の都で吉田少将惟房の子梅若が人買いにさらわれて奥州に連れて行かれる途中、この地で病にかかり捨てられてしまう。探し求めてきた母親は里人から梅若の死を知らされ、髪をおろし妙亀尼と称して庵を結んだという。塚の上に弘安11年(1288)と刻まれた板碑が祀られている」という。
 次回散策予定している墨田川東岸の木母寺には、梅若塚がある。

白髭橋


 白髭(しらひげ)の名は、天暦5年(951)創建とされる向島の白髭神社に由来しているという。
隅田川は武蔵と下総の境界であり、古くから両国を結ぶ官道が通過しており、対岸にある隅田川神社の南にある「隅田宿」と渡船で結ばれていた。
在原業平の伊勢物語にも出てくる「橋場の渡し」である。
                白髭橋南側


 この橋の手前は橋場といい、このあたりを古くは石浜といった。、古くから江戸川、入間川/荒川の合流点に位置し、また当時の江戸湾の最奥部にあたり、関西と結ぶ舟運の基地として栄え、初期の「江戸郷」の中心であったという。(芳賀善次郎)
ここを本拠として、八カ国の大福長者といわれた江戸氏は鎌倉時代から室町初期にかけてこの北にあった石浜城を中心に多摩川下流まで一族は栄えた。

頼朝が大軍を率いて武蔵国に入ろうとした時に、隅田川の対岸で釘付けにされた時のいきさつは次のような状況であった。

治承4年(1180)10月2日 頼朝は江戸川を越えて、隅田宿に着いた。
→江戸清重・河越・畠山・・の参陣の気配なし

 それより以前の頼朝の道筋は、
   石橋山で敗退-真鶴岬船出
   8/29-安房国猟島(現:鋸南町)上陸
       北条時政・三浦義澄・安達盛長出迎え
   9/3--書状を小山朝政・豊島清光・葛西清重らに送る−参向するように。
   9/13−安房国出発、上総国府へ
   9/17-千葉常胤は寒川で頼朝軍を迎え
   9/19-上総介広常が参人
   9/20-古代官道の浮船)習志野)進出
   9/28-江戸重長に参陣するよう使者

10月2日 豊島清光・葛西清重らが参陣
       江戸氏の最大のこだわりは、緒戦寺に平氏に従って滅ぼした三浦義明の子、
       義澄が頼朝陣営にいることと、八カ国の豪族で頼朝の分かにはなりにくかったこと
       であった。
10月3日 葛西清重は同族のよしみで、頼朝の命を受け江戸重長と交渉
10月4日 江戸清重は河越・畠山とともに参陣→浮き橋を架けて頼朝軍を渡河させた。


江戸清重の拠点であった石浜城は、現在の白髭橋のある明治通りの北にある東京ガス千住整圧所の敷地内である。城は室町から戦国にかけて、関東公方の足利基氏、千葉氏、小田原北条市など城主が変わり、徳川初期に利根川が銚子に流れるよう着けかえられると、石浜の地位が没落し、石浜城も姿を消した。


石浜神社
 白髭橋西の交差点の北に石浜神社がある。
聖武天皇神亀元年(724)勅願により創建という。
文治5年(1189)頼朝の奥州征伐に際しての社殿の寄進など、中世から大社としての発展を見たという。ことに千葉氏、宇都宮氏などの関東武将に信仰は篤く、関八州から多くの参詣者を集めたという。
 


日没で終了。石浜城の感触を探るため東京ガスの事業所の北側を回ってJR南千住駅まで帰った。
散策日  2009年11月09日   大手町-白髭橋(浅草)
参考
「旧鎌倉街道・探索の旅-下道編」

「中世を歩く― 東京とその近郊に古道「鎌倉街道」を探る―」

 芳賀善次郎著

 北倉庄一