鎌倉下の道 J 三田-大手町   地図 → @三田-日比谷  A日比谷-大手町




春日神社
聖坂から、桜田通りにでて、北に向かう。慶応大学を過ぎたところにある。
天徳2年(958年)に、奈良の春日神社を勧請したのがはじまりという。

龍王院
左に入る細い道の奥にある。本堂の前に円筒形の石に六地蔵を彫った石仏があった。裏に「史蹟 渡邊之綱産湯之井戸」がある。
  
伏見三宝稲荷神社
首都高速の先に東京タワーが見えてくる。 手前右側に小さな稲荷神社がある。
  ブロンズ製の狐
赤羽橋
首都高速のしたに赤羽橋がある。ここから、下の道は芝公園の真ん中をすすむ。
下の道に戻る傍ら、芝公園内にある古墳や、東照宮、増上寺をみることにする。   
丸山古墳

公園内の丸山とよばれる丘陵があり、丘の上には、丸山古墳がある。全長106m前後の都内最大級の前方後円墳である。その斜面に貝塚がある。
古墳上にある円山稲荷
   

伊能忠敬測地遺功表                    伊能忠敬測地遺功表
古墳の頂上部分に伊能忠敬も功績を顕彰した石碑が建っている。
石碑によれば、「延享2年(1745年)上総国に生まれ、50歳で江戸に出て天文暦數の學を究めた。測地測量は1800年から蝦夷地奥州街道の實測を始め、1818年74歳で没するまで続けられ、その偉業は引きつがれて1821年大中小の大日本沿海與地全圖が完成した。以下略」」
芝東照宮
元和2年(1616年)家康の死の翌年、菩提寺であった増上寺の境内に霊廟が造営され、安国殿と称された。その何度かの造営、移転があり、明治初期の神仏分離により、増上寺から分かれて東照宮と称するようになった。(由緒より)
芝大神宮
増上寺の大門から見る前に、芝大神宮へ行った。大門の北側にある。
「社伝によれば平安時代の中頃(1005年)に伊勢の内外両宮の御分霊をまつり鎮座されたといわれる区内有数の古社である。」という。
芝居のめ組のかんかなどでも有名という。
今は、ビルの囲まれた中で、窮屈そうにしている。


大門の手前には、「芝神明と増上寺」を描いた広重の浮世絵や、芝神明のしょうが市の光景を描いた浮世絵のレリーフが飾られている。
増上寺大門
増上寺大殿
説明板およびHPによれば、「増上寺の開山は、明徳4年(1393年)、今の千代田区平河町から麹町にかけての土地と伝えられている。
後、徳川家康の江戸入府の際に、家康が当時の住職存応(ぞんのう)大僧正に深く帰依したのをきっかけに、天正18年(1590年)将軍家の菩提寺として増上寺が選ばれた。。
江戸時代、増上寺は将軍家の菩提寺として、筆頭学問所としてゆるぎない地位を保ち、寺領は一万石余り、二十数万坪の境内、山内寺院48宇、常時3000名の僧侶が修学する大寺院だったという。現在でも浄土宗大本山として東京を代表する格式を保っている」
増上寺三門(三解脱門)
慶長16年(1611年)の建立、略称を三門といい、貪欲・瞋恚(しんい)・愚痴の三悪(三毒)を解脱するという意味からこの名がある。という。
増上寺旧方丈門(黒門)

「増上寺の方丈(庫裏)の表門であったので、方丈門とよばれ、また全体が黒漆塗であったため黒門とも呼ばれた。蟇股(かえるまた)には唐獅子や牡丹が浮き彫りされていて、近世の建築彫刻の特色を示している。」という
  
増上寺徳川将軍墓所  鋳抜門
上野の寛永寺(天台宗)も、徳川将軍家の菩提寺となっており、増上寺に埋葬されているのは、二代秀忠・六代家宣・七代家継・九代家重・十二代家慶・十四代家茂の六人の将軍とのこと。
増上寺 四菩薩像 景光殿              仏足石


  
宝珠院
赤羽橋からきて「東京タワー下」の信号の右側に宝珠院がある。広々とした増上寺・芝公園と比べると、樹木がうっそうとしげり別世界のような感じである。貞享2年(1685年)の作といわれる寄木造、高さ2メートルの閻魔大王があるという。
他に、説明文によれば、源頼朝が信仰し、徳川家康も信仰したという「開運出世弁才天」が安置されている。
  
東京タワー
東京タワー前の信号をすぎると、左側は大きな樹木のある公園となる。
芝公園十体地蔵尊
その林の先に、芝公園十体地蔵尊と書かれた小さな祠と、右隣りには、真新しい「平成末広稲荷社」と書かれた柱と、石に小さな彫刻を施された石がきれいに並んでいる。
青松寺
芝公園を出ると、左側に、近代的な造りの青松寺がある。
開創は文明8年(1476年)、開基は大田道灌という。
当初は、麹町貝塚(今の国立劇場・最高裁判所のあたり)にあり、「江戸貝塚青松寺」と称された。その後慶長5年(1600年)、徳川家康公が江戸城の外堀をつくる際に、現在の地へ移った。そこは愛宕山南に続く丘陵で含海山と呼ばれた。(HPより)
伝段院
愛宕トンネル入口の左側に伝段院がある。
トンネル入口の手前にエレベーターがあるが、たまたまこの時期は全国的な総点検のため動いていなかった。
愛宕山へは脇の階段で登ることができる。標高26mで、NHKの放送博物館があり、北側に愛宕神社がある。
愛宕神社 出世の階段
左手に鳥居と急な階段がそびえている。「出世の石段」といわれている。
四国丸亀藩の曲垣平九郎盛澄が騎馬で正面の階段=男坂86段を駆け上り、境内の梅を将軍家光に献上したことから、日本一の馬術の名人として名を馳せたという。
 階段の上から見下ろしたところ
愛宕神社 
由緒によれば、徳川家康が江戸に幕府を開くにあたり江戸の防火・防災の守り神として創建されたという。
万延元年(年)には水戸の浪士が神前にて祈念の後、桜田門へ出向き大老井伊直弼を討ちその目的を果たした「桜田門外の変」の集合場所でもあったという。
また、明治元年(年)勝海舟が西郷隆盛を誘い山上で江戸市中を見回しながら会談し、江戸城無血開城へと導いた。という。


愛宕山の西の麓に、杉田玄白の墓がある。トンネルをくぐって最初のみちを右折する。

杉田玄白の墓・栄閑院
愛宕山トンネルを通って最初の道を右折した右手に栄閑院があり、境内右奥に杉田玄白の墓がある。説明板によれば、「玄白(1733-1817)は、江戸中期の蘭方医で、蘭学の祖である。・・・前野良沢、桂川甫周らとオランダ語解剖書を翻訳した『解体新書』は、日本医学史上画期的な文献である。また、その翻訳の苦心談を回想した『蘭学事始』などの著書がある。」
真福寺
愛宕神社への参道入口の隣に、真新しいビルの真福寺がある。「天正19年(1591年)中興照海上人が家康を慕って江戸へ出て、鉄砲州に庵を構えたのが始まりで、慶長10年(1605年)愛宕下に開創した」という。
安政5年(年)から妬く半年間オランダ使節の宿舎となった。という。
新しく造られた銅製の「勝軍地蔵菩薩」がある。

日比谷公園の風景              日比谷見附跡

 
大手門
 下の道は、日比谷公園の西側/霞ヶ関の間から、今の皇居の中を通り、大手門の近くから、将門供養搭のあるところを通っていたようである。

大手門の信号の次の角に三井物産ビルがあり、次のビルの間に将門の首塚がある。
平将門供養搭
平将門は、10世紀の平安時代に、下総国に兵を起こし坂東八カ国を平定、自らを新皇と称したが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲を受け憤死した。(天慶の乱)・・天慶2年(936年)
将門の首は京都に送られたが、その後胴体を求めて東の空にとんできたという伝説がある。


常磐橋


前を東に進み、JR線のガードを過ぎた左側に常磐橋がある。
ここから、下の道は常総方面に進む。
下の道のうち朝比奈から大手町までを歩いて の感想

  @宅地造成でまったく道が途絶えているとこらがある一方、昔のまま残っていると思えるところ
     1.能見堂前後・・・・六国峠ハイキングコースとして整備されている。
     2.蟹ヶ谷に下りてくる道
  A昔の名残を留めているような雰囲気を持っていて、気分よく歩くことができるところ
     1.大岡川の上流で、丘と川の間を平行してすすむ道
     2.片倉町から岸根公園にかけて、および篠原町の尾根沿いの道
     3.大田区の六郷用水の跡に造られた散歩道
  B保土ヶ谷から、日吉にかけては、丘陵地帯で尾根伝いの道が多い。

 多くの神社、寺や由緒ある建築物などに案内板・説明板があり、教育委員会・自治体の努力が伺える。
散策日 2007年4月13日  田町-東京
2006年7月26日  愛宕神社
参考 「旧鎌倉街道を歩く」 勝田五郎著