鎌倉下の道  I 大森-三田       地図→@池上-大井町  A大井町-三田

 

 

 

大森貝塚
大森駅から右側、NTTビルの脇に入口がありJRの線路際までおりていくと、アメリカのモース博士の説明板と、大森貝塚の石碑のある。
「明治10年(1877年)横浜から新橋へ向かう車窓で、貝塚を発見し、その後東大の教授となり、日米文化交流に功績を残した」という。
そこから、200m先に、大森貝塚遺跡庭園があり、貝塚跡や縄文時代の学習広場などわかりやすく説明している。


鹿嶋神社
この先道路の右側に鹿島神社がある。樹齢約200年のタブノキがあり、緑が深い。
また、境内大井町よりの角に、「大井囃子」の説明板がある。文政3年(1820年)から始まったという

品川歴史館


角を右折したところにある来迎院に行く前に、品川歴史館に寄ろうとしたが休館していた。

下の道は、鹿島神社の裏をとおり、来迎院の前にあるお堂のところに出たという。
来迎院
鹿嶋神社の北側にあたる所に来迎院がある。
文化8年(1811年)の宝篋印搭
小堂
山門の向かい側にお堂があり、石仏が納められている。もともとは、来迎院に境内にあったということで、説明板によると、『品川区に有形文化財で、石造念仏供養搭が3基ある。地蔵菩薩像を彫った船形の2基。・・・明暦2年(1656年)、と万治2年(1659年)の造立、六字名号(南無阿弥陀仏)を彫った笠搭婆形の搭・・・寛文7年(1667年)の造立 で、いずれも江戸時代の初期に、大井村に念仏講が存在あいていたことを示す資料といて貴重である。』
他に、庚申搭などがある。


  
光福寺
下の道は、お堂の脇の道をすすむ。池上通りとJR線の間を北進する形である。すぐに、光福寺がある。境内には品川区指定天然記念物のイチョウがある。高さ40m樹齢800年という。
また「大井の井」の説明板がある
「親鸞聖人門下の了海上人の父が子授けを蔵王権現に祈願したところ、妻が懐妊し、男子(了海)を出産した。その時、境内に忽然と泉が湧き出したので、この水を産湯として使い、泉を大井と命名したという。大井の地名はこの泉に由来すると伝えられている」という。

三社宮


左側の路地を入ったところに新しいつくりの社がある。

西光寺
住宅街の中に、静かで落ち着いた感じのお寺である。
境内左側には、古い桜の木があり、「江戸名所図会所載 名木 兒桜」と刻まれた石碑が建っている。


また、その奥にはきれいに整備された石仏があり、「西光寺石造供養搭」として説明がある。左の舟形の地蔵菩薩像は、明暦元年(1655年)女性が造立したとある。石造美術の面で特に優れているという。ほかに、寛文9年(1669年)造立の阿弥陀如来像などがある。
稲荷神社


大井中央病院の脇に、稲荷神社がある。「x守稲荷」とあるが、読めない。
三つ又地蔵尊


先の自動車道が大井三つ又交差点で、歩道橋を渡った先に、三つ又地蔵尊が、存在感を示している。
身代地蔵菩薩である。
庚申堂
三つ又地蔵から中央公園に向かっていく細い道の左側に庚申堂が建っている。説明板によれば、「右大将頼朝が、戦死兵の供養のために写経を埋めたので、納経塚といわれ、その後、文亀元年(1501年)に当時内乱で行方知れずであった、来福寺の本尊延命地蔵尊でが掘り出された。」という。

大井蔵王権現


東急大井町線の方向にゆるやかな坂を下っていき、区役所通りの一つ手前の道を横切る所に、大井蔵王権現がある。福禄寿を祀っている。

ここから先は、大井町線、区役所、JR工場があって、下の道はなくなっているという。
品川区役所前の信号を右折し、JR工場の脇をとおり、横須賀線のガードをくぐる。
百反歩道橋
左側からくる百反通りがぶつかるところの歩道橋をわたり、横須賀線、山手線のガード下をくぐって、目黒川にいたる。
歩道橋からみる大崎駅前は大きく様変わりしている。



居木橋(いるきばし)
御殿山に行く手前にの「北品川の歴史」という説明板がある。それによれば、現在の環状六号線(
山手通り)は室町時代以前のころから品川から多摩方面に抜ける主要な街道であったであり、品川宿からちょうど1kmのこのあたりで、目黒川をわたる。この川辺に「ゆるぎの松」があり、しだいに「いるぎ(居木)の松」と呼ばれるようになった。という。
御殿山
居木橋から、御殿山通りという、坂道を登っていく。説明板によると、江戸初期に将軍の狩猟の休憩所や諸大名の参勤送迎にために御殿が建てられたところから名付けられた」という。下の道は、ミャンマー大使館の脇を通って御殿山交番前の信号まで行くが、遠回りして御殿山ガーデンの中を通ると、「御殿山の頂上・・・大田道灌の館跡の言い伝えがある・・・」という立て札が建っている。

通りの風景
  交番前から高輪方面へ   ユニセフハウス         石榴坂


   プリンスホテル脇
高野山東京別院
下の道は、第一京浜国道と桜田通りの間の、高輪の尾根に当たる道を北に向かう。右側に、広い敷地と広大な本堂のある高野山東京別院がある。
明和6年(1769年)の宝篋印搭がある。

二本榎


左側小さな公園があり、石碑がある。「江戸時代に東海道を日本橋から来て品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を『高輪手』と呼んでいた。そこにある寺に大木の榎が二本あって旅人の目標になっていた」という。
同じ内容の説明板がこの先の承教寺の門前にも立っている。
承教寺
ここから先の三田まで、道の両側にはお寺が多く続く。
右側の路地を少し入ったところに承教寺がある。広い境内をもち、本堂の前に『英一蝶』の墓石がある。説明板によると「江戸中期の画家、狩野安信に学び人物・花鳥にすぐれやがて独自の軽妙酒脱な画風を創始、和歌・発句もよくした。はじめ多賀朝湖と称したが、46才のとき「朝妻舟」という絵で将軍綱吉の放縦な生活を風刺したため、三宅島に遠島、放免後英一蝶と改名した」という。


丸山神社


左側、奥まったところに丸山神社がある。言い伝えによると、創建は治承3年(1179年)に遡るという。記録では、文禄3年(1594年)今の愛宕山にあった広岳院ぼ境内に家康の命を受けて創祀され、その後、二本榎に移転したとう。
大石良雄自刃ノ跡

左側、アパートの前に、「大石良雄等自刃ノ跡」という石碑がたつ。 
伊皿子交差点


まもなく伊皿子の交差点に出る。
コーナーに、「歯科医学教育発祥の地」が建っている。
伊皿子坂


ここを右折すると泉岳寺にいたる。この坂を伊皿子坂といい、標柱が建っており、「明国人 伊皿子(いんべいす)が住んでいたと伝えるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりとも いいさらう(意味不明)の変化ともいう。」と説明がある。
泉岳寺
  山門 本堂              首洗い井戸


 
三田台公園


伊皿子交差点に戻り、先に進むと、右側に三田台公園があり、縄文時代の伊皿子貝塚の説明がある。
公園の端に井戸があり、説明板によると「 明治、大正時代にこの地にあった華頂宮邸の庭園内に作られていたもので、関東大震災時には大変役立った」という。
幽霊坂


左に下りる道を幽霊坂といい、柱が立っている。それによれば、「坂の両側に寺院が並び、さびしい坂であるためにこの名がついたらしいが、有礼坂の説もある。幽霊坂は東京中に多く7ヵ所ほどもある。」という。
亀塚


幽霊坂の向かい側が、亀塚公園であり、その左奥に亀塚がある。説明板によれば、「古くから古墳と指摘されてきたが、発掘調査の結果でも古墳と断定することはできない」という。また「平安時代の『更級日記』に見える竹芝寺の伝説地とも伝えられ、文明年間(1469〜87年)には、大田道灌が斥候(ものみ)を置いたと伝えられている。江戸時代には、この地を屋敷地としていた沼田城主土岐頼熈(よりおき)が、これらの旨を記した『亀山碑』を頂上に建て、現在に伝えている」という。
済海寺
並びが済海寺であり、境内右側に「都旧跡 最初のフランス公使館跡」という大きな石柱が建っている。
聖坂


このあたりから下り坂が始まる。左側に真新しい「聖坂」の標柱がある。
「古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。竹芝の坂と呼んだとする説もある。」という。
亀塚稲荷神社
ビルと歩道の間の狭い敷地に亀塚稲荷神社がある。境内右側に「弥陀種子板碑」の説明板とともに、古い板碑が並んでいる。
それによれば、「弥陀を表す記号(種子)を上部に刻み、頂部を山状に切り出した秩父型の板碑3基には、それぞれ 文永3年(1266年)12月、正和2年(1313年)8月、延文6年(1361年)の造立年が陰刻されており、とくに文永3年の刻銘は、港区に現存する板碑の中では最古である。」という。
三田延命地蔵尊
坂を下りる途中の右側に古い聖坂の標柱がある。
下りきると、三叉路があり、左へ少し入った左側に三田延命地蔵尊がある。夕暮れ時であり、商店街の真ん中で、「三田子育延命地蔵尊」という文字の入った赤いちょうちんが印象的であった。
ここからJRの田町駅まではすぐである。
散策日 2007年4月6日  大森-田町
参考 「旧鎌倉街道を歩く」 勝田五郎著