見付(磐田) - 浜松 

   地図①磐田~天竜川 ②天竜川~浜松 ③浜松~高塚


 

本日の旅は、天竜川の渡船場がハイライトである。

磐田駅前-善導寺のクスノキ
 磐田駅(当初は中泉駅といい、昭和17年改称)前に見事な楠がある。ここにあった善導寺が移転したが楠だけ残されたもので、樹齢約700年、樹高18.3mという。

 旧東海道は、国分寺方面から南下し、駅から2本目の交差点を西に曲がる。「旧東海道」の木の標識がある。

江戸時代の中泉
600mほど進んだ右手の中泉公民館の広場の前に、説明板が立ち、国分寺あとから駅周辺にかけての、江戸時代と大正時代の地図が描かれている。 
   「大正時代の中泉
   「江戸時代の中泉」 ・・・ 善導寺の南東の「御陣屋」と描かれており、家康の中泉御殿はこの辺りにあった。
 
道の景色
 しばらく進むと緩やかな坂道を下って行き、広い車道と合流する。その手前左側にフェンスがあり、説明板がある。旧東海道のこの坂を「大乗院坂」といい、坂の途中に、山伏野寺「大乗院」があったという。
(←写真は振返って見たところ)

歩道のある広い車道を西北に向かう。

宮之一色一里塚
 右側の「NISSAN}の大きなサインのところに、復元された一里塚がある。宮之一色一里塚で、江戸から63番目という。

常夜燈
 一里塚から300mほど先左側に「宮之一色秋葉山常夜燈」がある。
説明板:
 「部分改修されたが、棟札から文政11年(1828)建てられたものとわかった、という。
竜の彫り物のある「竜頭」とも呼ばれる。灯籠の周りをいたで囲み上部はあかりが漏れるように格子になっている。」

若宮八幡宮
 松並木の名残が現れる。さきの森下交差点で、旧東海道は広い車道から分かれてまっすぐすすむ。
まもなく若宮八幡宮の長い参道が右にのブル。明治7年(1874)近隣の28社を合祀して
若宮八幡宮となったという。境内に土俵がある。
南側には小公園があり、西之島小学校跡の石碑がある。

長森立場
 神社から数百m西に進んだところに、信号のある十字路があり、旧東海道は北に向かう。
その手前に長森立場があった。
説明板には、山田与左衛門家の「長森かうやく」が、切り傷やあかぎれに効能があるとして、人気を博していたという。
十字路の先には天竜川の土手が見えてくる。

天龍橋跡
 そこから真っ直ぐに北に向かい、天竜川の渡船場に向かう。

100mほどの先を左折すると、「天龍橋跡」の石碑が立っている。
長い間渡船での通行であったが、明治7年(1874)船橋が完成し、明治9年になり木橋に架けかえられた、という。全長646間(1,163m)巾2間(3.6m)。昭和8年(1933)鉄橋が完成するまで利用された。
 
 元にもどり北に進み、国道1号を歩道橋と高架ガードをくぐって越えた。

池田渡船場への通り
 信号から先は、古い街並みが続く豊田地区池田であり、延長5年(927)のころから天竜川の渡船場として交通の要所となっていた。
 古くは今よりも西側を天竜川が流れていたといい、頼朝の上洛した時は川を越え池田宿に泊まったという記録がある。
江戸時代池田村に渡船権を独占的に与え、保護したので、池田渡船ともいわれた。

池田は、間の宿として・・・天竜川の川越の宿・・として栄えた。 
 右手には寛政10年(1797)の秋葉山常夜燈が立つ。

下之渡船場
 渡船場は上・中・下の三か所あり、水位によって使い分けされた。
常夜燈の次の十字路を左折すると「天竜川渡船場跡」の石碑が土手に建つ。通常はこの渡船場が使われ、増水すると 中 上 へと移されたという。
 渡船賃は、武士など特別な人を除き、一人当たり12文だったという。<上之渡船場にあるパネル)(>・・・大天竜と小天竜という川筋が二本あり、一回6文で2回の渡船賃を払ったか?)
水位が7尺(約1.2m)を越えると川留となった。


中之渡船場/天白(てんぱく)神社
 そこから100mほど行くと火の見櫓と、粒見堂と書かれた堂がある所を左折すると、天白神社があり、その境内を通って渡船場へ行ったという。
由緒によれば、孝謙天皇の時代(749~58)の創建といい、池田村全体の鎮守であった。
喧嘩相撲が有名で、境内に土俵がある。(青いシート)

上之渡船場
 更に200mほど北の変形十字路の左が上之渡船場である。
土手には、天正元年(1573)家康が池田村に与えた「遠州天竜池田渡船之事」という許可証のレプリカが掲示されていう。

近くには池田橋の跡の石碑が立つ。
南の天龍橋のあと明治16年(1883)に架けられた。
橋銭:大人3銭という。

行興寺
 十字路を東に100もほど行くと、延久元年(1069)創建の行興寺がある。
謡曲『熊野(ゆや)」で知られる熊野御前の旧跡である。
池田の長者の娘、熊野御前は平宗盛に寵愛を受け京に行ったが、母が病と知り帰郷する。
 熊野御前が植えたという伝承のある国指定天然記念物「熊野の長藤」他5本の見事な藤がある。
             ゆやとゆやの母の墓→

天竜川
 国道1号まで戻り、新天竜川橋を渡る。
少し古い案内書等には、歩行危険等と出ているが、平成18年下り専用4車線の橋が出来た為、長さ912m、4m幅の歩道で快適に眺めを楽しめた。

天竜川-西側から
木橋:クリックすると拡大天竜川の対岸のでは今の新天竜川橋の上流数百mの3ヶ所に渡船場があったという。そこはスキップして、橋から土手に下りて南に進む。天竜川は水量が豊富である。右側に六所神社の屋根が見える所に、舟橋・木橋跡の杭が立っている。説明板が土手の下にある。

六所神社
 杭から土手を下りると六所神社である。建治2年(1276)、尾張中野郷より勧請という。
神社の石垣の外側に、「旧東海道」の立て看板-中野町の由来・・・江戸、京都より60里・・・と、道路元標の看板がある。

  中之町道路元標(中ノ町の起点を示す)

ここからほぼ真っ直ぐに西に向かう。旧東海道らしさの残る町並みが続く。
町並み 舟橋に業績・・浅野茂平碑           軽便鉄道軌道(浜松~中野) 跡
    
松林寺 かやんば高札場跡                松並木がこの一帯にあった
    

金原明善(きんばらめいぜん)生家
 その先に天竜川の治水・治山事業で功績のあった金原明善の生家がある。大地主の家に天保3年(1832)生まれ、天竜川の大洪水を経験した明善は、水防の必要性を説き明治7年(1874)天竜川治水事業に私財5万7千万円余を投じた。やがて河川の治水対策が国の直轄事業にとなったのを契機に、次の宿願であった天竜川上流地域の植林事業に着手し、杉・檜など300万本近い植林を行った。周辺の山林にも植林を行い、国に寄付した。
生家の向かい側には記念館がある。

安間一里塚とその手前
 少し先で、右からの道と合流するが、その手前の角に、立て札があり、ここに道標があって、本坂通(姫街道)への安間起点であったことを示している。
その先の右側フェンスの前には、安間一里塚を示す鉄柱が立っている。

傍示石
 合流してすぐ、安間橋をわたる。まもなく国道1号浜松バイパスの高架をくぐるが、その手前を左にはいると、薬新町公民館の広場に傍示石が立つ。
「従是西濱松領」と刻まれ、もとは、安間橋の西端にあったという。他に石仏や祠が集められている。

妙恩寺
バイパスの先には松並木が一部残り、しばらくいくとJA浜松和田支店の向かいの道を左折し妙恩寺にいく。その先に大きな谷口法春と刻まれている題目塔が立つ。その先が妙恩寺である。
応長元年(1311)開山といい、遠州初の日蓮宗の寺院という。


六所神社
 元に戻り西に向かう。天龍川駅入口交差点角に六所神社がある。創建は永禄年間(1558~70)という。境内入口には比較的新しい常夜燈が立つ。


次の交差点からは広い車道がつづく。

子安神社
 浜松アリーナを右側に見てしばらくいくと、子安交差点で、その先は国道152号となる。その手前を左にはいると、子安神社がある。
当地の庄屋伊東家の祖先が寛永12年(1635)浅間神社の分霊を祀ったことが始まりという。伝説では
源範頼が娘の無事出産を願って創建した話が残されている、と説明文にある。

蒲(かば)神明宮の鳥居
 琵琶橋を渡った先右側に、大きな銅製の鳥居がある。
600mほど先の蒲神明宮への参道である。創建は大同元年(806)という。このあたりは平安時代に藤原氏が伊勢神宮に寄進し蒲御厨という荘園となった。
源範頼(義朝の六男、母は遠州池田宿の遊女)はここで育ち、蒲冠者と呼ばれた。
 

一里塚付近
              
 浜松駅近くの高いビルを遠くに見ながらひたすら西にすすむ。天神町の交差点を過ぎて200mほどの左側に「浜松東署」があり、この辺りに「馬込一里塚」の標柱があるというが、見つからなかった。

浜松宿 外木戸跡(馬込橋)
 相生町交差点を過ぎるとまもなく馬込川に架かる馬込橋となる。手前左側に浜松宿の外木戸があり、橋を渡った先には東番所があった。
 永禄3年(1560)の桶狭間の戦いの後、今川氏から独立した家康は、今川氏を遠江から駆逐し、元亀元年(1570、本拠の岡崎城から引馬城のあったあたりに浜松城を築いて移り、浜松を遠州支配の拠点とした。家康は領内の駿府と岡崎を結ぶ伝馬制を始め、それが近世浜松宿の基礎となり、慶長6年(1601)宿駅に指定されてから城下町の中に宿場を包む形で発展した。
 浜松の宿場は、天保14年(1843)で ここから西番所の西まで、23町15間(約2,530m)、本陣6、旅籠94、人口5,964の規模であった。

夢告地蔵尊
 ここから浜松城大手門跡(連尺交差点)までは、広く整備された道が真っ直ぐに続く。静岡銀行のある交差点手前右側に堂や石塔が立っている一画がある。
 安政5年(1858)コレラで死んだ人立ちを供養するために建てられた延命地蔵尊と呼ばれた。後火災で埋もれたままだったが、町民の夢にでて、掘り起こされ,堂に安置されたという。

連尺交差点(大手門跡)から浜松城へ
 緩やかな坂を進んだ先の交差点のあたりに、浜松城の大手門があった。旧東海道はここを左折する。
少し寄り道で、浜松城を訪れる。市役所別館ノ前に松がある。 元亀3年(1572)三方ヶ原の戦いから城に帰った家康が、鎧を脱いで大きな木に掛けて休んだことから呼ばれ、この松は3代目という。
間を抜けて、本丸跡、二の丸跡を通り天守閣に上る。

浜松城
 三方ヶ原の戦いで敗れた家康だが、武田軍はそのまま浜松城を無視して西に進軍、しかし信玄が病に倒れ撤退したのち、天正14年(1586)駿府城に移るまでここで16年間を過ごした。江戸時代に入ると、家康ゆかりの譜代大名が城主となった。25代の城主のうち5人が老中になるなど、幕府要職に就くものが多く、「出世城」と呼ばれた。
 
  天守から三方ヶ原方面を見る→

今の天守閣は昭和33年(1958)の建造で、天守台はあったが、江戸時代の天守閣の絵は残っておらず、それ以前にあったかどうかははっきりしない。
石垣は、当時の面影をよく残してあり、堅く崩れにくい構造になっているという。自然石を上下に組み合わせて組む方法で、「野面(のずら)積み」といって慶長年間以前はよく用いられていたという。


 連尺交差点まで戻り、南に進む。
連尺交差点から次の伝馬町交差点までの約200mまで高札場や本陣が並ぶ宿場の中心地であった。

高札場跡

佐藤本陣跡

五所神社・諏訪神社
 佐藤本陣跡の向かい側に、五社前通りがあり、西に向かうとある。
七五三のお参りの人でにぎわっていた。
昭和35年五所神社と諏訪神社が合祀され、その後新たに社殿が建立された。空襲で社殿焼失までは、両社殿とも国宝であった。
 五所神社:遠江国主久野越中守が曳馬城内に創建し、家康が、秀忠誕生の翌年現在地に社殿を建立
 諏訪神社:坂上田村麻呂が東征の折り創建その後家康社殿建立。家光が現在地に移転

杉浦本陣跡

川口本陣跡
梅屋本陣跡
 梅屋本陣跡は、伝馬町交差点の南東角の地下道出口(ザザシティ浜松側)に、立て札が立っている。

 

浜松では空襲で建物はほとんど焼失した。従って、宿場の状況は、道の流れ、立て札の立つ場所と先ほど見てきた天守閣に掲示されている宿場の絵図や町の略図を想い浮かべながら、当時の様子を想像するのみであるが それも楽しいものであった。
 散策日 2010年11月13日    磐田駅-浜松駅
 参考
 「東海道五十三次を歩く」3     児玉幸多 監修