浜松 - 新居町 

   地図①浜松-高塚
  ②高塚-篠原  ③篠原-弁天島  ④弁天島-新居町

 



中番所跡
 浜松駅北口から鍛冶町をとおりザザシティの北角の伝馬町交差点まで行き、前回終了した梅屋本陣跡から南に向け出発する
旧東海道の面影が全くない広く整備された自動車道である。
 次の交差点の左角に小さな石柱が立ち、番所跡(中)があったことを示している。
この先の成子坂には西番所があったという。

松尾神社
 この十字路を東に少し行くと松尾(まつのお)神社がある。説明板によると和同年間(708~14)の創建で浜松神社といい、浜松の総社だったという。天正5年(1577)浜松城内の守護神を合祀して松尾神社と改名し、歴代浜松城主の祈願所となっていたという。

道の景色

  
200mほど先の成子交差点の手前右側に夏目商店があり、「濱納豆」の古い看板がある。その先には木杭に「泣き子地蔵跡」の薄くなった文字が見える。
 この交差点を右折して行くのが旧東海道である。そして100mほど先の交差点を左手=南西にすすむ。
    
    濱納豆の看板

木杭:成子坂泣き子地蔵跡   成子坂から菅原町の交差点へ
   

子育て地蔵
 左手に入る角に、大きな祠がああり、赤い前掛けをしている地蔵や多くの石仏・石塔が安置されている。
首のない地蔵や、子供を抱いた地蔵などが並んでいる。
真っ直ぐ南西に進む道には自動車も余り通らず、しばらくの間だけ、ゆったりと歩けるが、またすぐに自動車道の歩道を進むことになる。

堀留ポッポ道
 その祠からから200mほどの右側に、JRの引き込み線跡を小公園として整備された小道がある。入口の木の根元に「堀留ポッポ道」と書かれた木杭が立っている。
中に入って行くと、「ケ91タンク機関車」が置かれている。大正7年(1918)に製造された国産の軽便機関車で、国鉄浜松工場に保存されていたものという。
その先で東海道本線、更に東海道新幹線の高架下を過ぎる。

鎧橋
 しばらく行くと排水路に橋がかかり、鎧橋と名付けられている。左側に説明板が立ち由来が書かれている。
平安末期に戒壇設置のことで、比叡山の僧兵が鴨江寺を攻め、鴨江寺側の兵はこの辺一帯の水田に水を張り、鎧を着てこの橋の守りを固めて戦ったので鎧橋の名がついたという。双方の戦死者が千人がこの北側に葬られ千塚といわれたという。
(ここから約1km北に奈良時代に行基が建立したといわれる鴨江(かもえ)寺がある)

八丁畷
 旧東海道はまっすぐ長く南西に向かっており、右手には「八町縄手」の木杭がある。すぐ先には八丁饅頭の看板の店があり、その前に地蔵を祀った小さな祠が立ち、雰囲気をよく出している。
以前歩いた川崎宿を出てからも八丁畷の地名がある。

若林一里塚跡
すぐ先の左手に一里塚跡の木杭がある。





 次ぎの信号で旧東海道は大きくカーブし、今度は真西に真っ直ぐ進んで行く。その交差点の道を挟んで対になっている「二つ御堂」が建つ。

二つ御堂
 
   北堂

   南堂
 
 北の堂は、上洛中の藤原秀衡が病に倒れたとの報を聞いた愛妾が奥州から京に向かう途中、ここで秀衡が没したとの知らせを受けその菩提を弔うために天治2年(1125)建てたという。

南の堂は、病が治ってから帰郷途中の秀衡がその話を聞いて感激して建てたものという。

その後荒廃し、北堂のみ江戸時代に再建されたが、現在の堂は、北が昭和30年改築され、南堂は昭和12年新築という。

 北堂の左隣には、高札場跡の木杭が立つ。
そこには、馬頭観音の祠も立つ。

八幡神社
 北堂の脇の道の先に八幡神社がある。
創建は不詳、棟札には、天正7年(1579)、慶安2年(1649)寛永元年(1704)改築との説明板あり。

所々に松並木の跡が残る道を進む。
歩道の右側には、間をおいて 可美小学校跡、高札場跡、みたらしの池浜松市-可美村合併記念碑 の木杭がある。
 
      可美小学校跡

高札場跡                   みたらしの池-可美村合併記念碑
      

諏訪神社
 今の可美小学校の前に諏訪神社がある。
由緒によると、大永4年(1524)信濃国の上諏訪神社より勧請したという。

 その先右側に秋葉山常夜燈がある。

熊野神社
 100mほど先に熊野神社がある。大正15年(1926)に火災にあい、由緒は分からないが、熊野三社大権現と称し、明治2年(1869)に六社神社と改称し、7年熊野神社と改め村社となったという。

高札場跡
 境内の端に高札場跡の木杭がある。

領地境界の標柱
次ぎの交差点手前の駐車場の端に、石柱と説明板がある。「従是東 濱松領」と刻まれている。(植え込みの陰になっている)
宝永2年(1705)高塚村が旗本大沢家の堀江領となり、濱松藩側の増楽村との境界を示すために立てられたという。

この先の信号のある場所-日本生命の端の電柱の根元に、「堀江領境界石」と書かれた木杭がある。

舞坂への道
 このまま数百メートル進む。途中には熊野神社の参道が続く赤い大きな鳥居がある。更にすすんで、エンシュー高塚工場の広い敷地の前から、今まで歩いてきた国道256号は左へ大きく曲がる。
旧東海道はここか右に分岐する(真っ直ぐいく)。
三角の広場に篠原とある新しい道標があり、舞阪宿方向を示している。

立場本陣跡
 しばらく進むと、左手に立場本陣跡がある。
道路側の草木のなくなった植え込みのあとに、朽ちた木杭がのこっている。
建物は安政年間(1854~59)に建て替えられたものという。

萬松院と神明宮
 しばらくして右手奥に萬松院があり、脇に寛政8年/1796)の石灯籠のある秋葉山常夜燈がたつ。

その先には長い参道のある神明宮がある。           

篠原一里塚
 神明宮のすぐ先から100mほど行った右側民家のレンガの内側に篠原一里塚の説明板がある。

 更に200mほど先の右側には高札場跡の説明板が立つ。
              高札場跡→

旧街道の景色
 真っ直ぐな道が続き、所々に秋葉山津島神社遥拝所、愛宕神社の脇の秋葉山常夜燈など、常夜燈が多く設置されている。
    


稲荷神社
 坪井町北の交差点を過ぎると、稲荷神社がある。
永享12年(1440)伏見稲荷より勧請したとされる。
赤い鳥居の先に、文化13年(1816)の鳥居があり、手前の灯籠には文化2年(1805)と刻まれている。

東光寺
 右手の参道の奥に東光寺がある。慶長6年(1601)の開山という。山門を過ぎた左手に青面金剛の庚申塔が祠に納まれ、その脇に南海霊亀碑が立つ。文化7年(1810)に嵐のあと遠州灘
に打ちあげられた亀を葬り、翌年海の安全と豊漁を願い亀型の台座の供養塔を建立したという。

大悲院観音堂聖跡
 右手に奥に公園がある広場があり、引佐山大悲院観音堂跡という石柱が立つ。治安元年(1021)定朝上人が諸国巡行の途中聖観音菩薩像を彫り上げ安置したといわれる。引佐細江の観世音といわれ、約38cmの立像で、今は如意寺に安置されているという。

数百メートル行き、広い交差点を渡る。
北側に大きな樹木が並び、広い境内の春日神社がある。

春日神社
 応永2年(1395) 春日大明神を勧請という。
社殿の前には、狛犬ではなく銅製の狛鹿が立つ。

後方にある本殿は、きれいな赤に塗られている。

舞阪松並木
 舞阪駅入口の信号を過ぎるといよいよ舞阪の松並木が始まる。
正徳2年(1712)には、先ほど通った東光寺のある馬郡村からこれから行く見附石垣まで1420本の松が植えられていたという。
今は、ここから700mの間で大小340本があり、松並木の外側に歩道が設けられている。
 並木の中ほどにの歩道側に舞阪橋跡の説明板がある。
長さ7尺、横3間の土橋であった。
北に西長池という大きな池があり、松並木を横切って川が流れていたという。

見附石垣
 松並木がなくなってしばらく行くと、右手に稲荷山神社の大きな鳥居が見える所で、旧東海道は国道一号線と交差してまっすぐ進む。
すぐに道幅が狭くなり旧街道のなじみのある広さになるが、そこに見附跡の石垣が残る。舞阪宿の東のはずれに位置しており、宝永6年(1709)の古地図にはすでに存在していたという。

舞阪宿
 舞阪宿は、古くから宿が置かれ、戦国期には今川氏の支配下で、すでに伝馬が行われていたという。しかし、家康は浜名湖を渡る今切渡船の運営権を舞阪には認めず新居宿に与えた。
天保14年(1843)のデータでは、旅籠28軒、本陣2軒、脇本陣1軒、人口2,475人で、舞阪の産業で知られたのは海苔の養殖で、幕府の認可を受け天保期(1830~44)には評判であったという。

一里塚跡と新町常夜燈
 すぐ先左に一里塚跡がある。
説明板によると天保年間には左右とも松が植えられていたというが、大正のころにはおおきな榎があったという。
 脇には常夜燈が立つ。文化12年(1815)とある。
文化6年(1809)に宿場の大半を焼く火事があり、秋葉信仰の高まりと共に、常夜燈が建立され、他に、仲町と西町にも常夜燈がある。

宝珠院と仲町常夜燈
 しばらく行くと、左側に入る宝珠院の参道があり、入口に仲町の常夜塔がある。
文化10年(1813)の建立という。
この宝珠院は明治6年(1873)舞阪町に初めて小学校が開かれたところという。


岐佐(きさ)神社
  そこから少し先の道を南に曲がると左側に広い境内を持つ岐佐(きさ)神社がある。街道の南側を通る道を少し戻った所が鳥居である。
 平安時代の延喜式神明帳に記載されている古社である。
その後 明応7年(1498)の地震・津波で消失したが、柳の古木の根元に「岐佐大明神」の祠があった所に社殿を建立したという。




本殿の脇に赤味がかった大きな石がある。
赤石と呼ばれ、「古事記」に、大国主命に致命傷を与えることになった石として登場する、という。

本陣跡
 旧街道の戻り100mほど行くと右側に空き地があり、「本陣跡」の石柱が立っている。宮崎伝左衛門本陣という。
このすぐ先に、もう一軒の本陣があったという。

この斜め向かいに、脇本陣 茗荷屋がある。

脇本陣茗荷屋

 旧東海道の宿の中で唯一形を残す脇本陣という。
天保9年(1838)の建造時の姿をとどめる書院棟を解体修理、その他を復元したものである。
間口5間、奥行15間の2階建。
←那須田又七
 (後述)の駕籠


    2階から見た
       街道→

西町常夜燈
 すぐ先で南北に走る道と交差するが、その手前角に西町常夜燈がある。文化10年(1807)建立。向かい側には高札場があったという。

 すぐ先が湖で、新居宿まで行く渡船場があった。

舞阪と新居との間=「今切(いまぎれ)の渡し」の由来
 もともと舞阪と新居の間は陸続きで湖水から流れる川に貞観4年(862)には「浜名橋}が架かっていたという。
明応7年(1498)の津波で湖水と海が通じ、永正7年(1511)の大津波でその間が広がり、当時は陸地が今切れたので「今切」とよび、その間を渡る船を、「今切の渡し」と呼んだという。
写真は、海側を走る今の国道1号=浜名バイパスと浜名大橋。

本雁木跡(ほんがんげ)
 真っ直ぐに進んだ所が本雁木(ほんがんげ)、北には北雁木、南には南雁木(渡荷場-とうかば)の3ヶ所の渡船場があった。
雁木とは階段状になっている船着場のことで本来は「がんぎ」と読むが舞阪では「がんげ}といっているという。(説明板より)
北雁木は身分の高い武家・公家用、 本雁木は武家用、南雁木は庶民の利用と荷物の積み降ろし と使い分けられていたが、旅人に最も多く利用された主要な渡船場は、この本雁木であったという。

渡荷場跡と水神社
 本雁木から南へ100mほど行くと小さな鳥居と祠がある。
その手前に「渡荷場跡」の説明板が立つ。
西側に渡荷場の石畳があったという。神社はここから30mほど東にあり、港の工事の関係でここに移されたという。

元の本雁木に戻り、北に行き北雁木に向かうがその前に指月院跡に向かう。

指月院跡
 すぐ先の右にはいる細い路地を道なりに進むと、整ったお堂がある。
もと十王堂があっ場所に、正徳2年(1712)、舞阪生まれの僧が指月院を建立したという。黄檗宗の寺という。

北雁下跡
 元の道に戻ってきたに行くと、道から幅10間(18m)の石畳が湖まで続いている北雁木がある。
明暦3年(1657)から寛文元年(1,661)にかけて構築されたという。
3ヶ所の雁木のうちで、雁木の遺構の残るのはこの北雁木だけという。
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那須田又七顕彰碑
 北雁下から北に向かう右側の一角に石碑がある。
那須田又七は、舞阪宿の村役人・宿役人を長く勤め、海苔養殖の基盤を作り、また飢饉のときには私費を投じて救済事業を行ったという。
安政5年(1858)に顕彰碑が建てられた。


その先で弁天橋をわたる。

弁天橋からの景色
   

弁天神社
 弁天橋を渡り国道1号線と合流してすぐにある。
宝永6年(1709)江戸白銀町の松葉屋喜兵衛が幕府の許可を得て、今切の渡しの安全のために創建したという。
説明板には天女の伝説が書かれている。

弁天島から新居町へ
 東海道線弁天島駅を右に見て国道一号線をひたすら西に進む。
今切の渡しはこの南側あたりをを新居町へ進んで行った。

西浜名橋を渡り新居町に入り、ほぼ1kmほどで新居町駅入口となる。

当初の新居関所=慶長5年(1600)設置された関所と渡船場は、駅から西にある今の関所跡から南東方向に位置していた。途中にはその場所に行く直接の道がない為、一旦駅まで進み南東にもどることになる。

大元屋敷跡(当初の関所の付近))
 駅入口から南へ400mほどの新居高校の角を左折する。東へ300mほど行ったところ右側に小さな公園があり、説明板がある。
江戸初期に作られた新居関所(今切関所といった)と新居宿は元禄12年(1699)の災害で中屋敷に移転するまでこの地にあって、大元屋敷といった、という。東端に関所があり西に宿の町並みが続いたという。

中屋敷跡
 そこから引き返し、約250m先の道路の北側の歩道(新居高校のグランドの東端付近)に、説明板がある。

大元屋敷から、今切の関所と宿の一部が移転してきたところで、宝永4年(1707)の大地震・津波で大きな被害を受け、現在の新居関所のある街に移転したという。

新井町駅へ
 新居町駅に戻る。
途中の浜名川にかかる関門橋から眺めた新井関所の方角。
 散策日 2011年1月14日    浜松駅-新居町駅
 参考
 「東海道五十三次を歩く」3     児玉幸多 監修