二川 - 吉田(豊橋)- 御油

  地図①二川-豊橋瓦町
  豊橋瓦町-下地  ③下地-小田渕  ④小田渕-御油



 今回は、明治になってから豊橋となった吉田宿を通り、松並木で有名な御油・赤坂を経て岡崎に向かう。豊橋から先は、JR東海道本線が南側に分かれ、旧東海道に沿って走る鉄道は名鉄名古屋本線となる。

渥美奥郡(おくごおり)道の道標
 二川駅の前が、すぐ旧東海道で西に向かうと、道標が立つ。
「伊良胡阿志両神社道」「右東海道」「左渥美奥郡道」とあり、渥美半島の阿志神社、先端の伊良胡岬の近くにある伊良胡神社へ通じる渥美奥郡道の分岐点にあったもので、今の分岐はすぐ先にある。
明治33年(1900)に建てられたもの。

岩屋観音銅像と火打坂
 その先で自動車道を横切り、坂を上って行く。坂の手前、左手の先に、視聴覚教育センターの白いドームが見え、更にその先の岩屋山の頂上に岩屋観音銅像がはるかに見える。途中に天平2年(730)行基が開いたと伝わる岩屋堂があり、頂上の観音像は明和2年(1765)に建てられ、戦後再建されたという。今回はスキップした。
 緩やかな「火打坂」を上り、信号で左折する。(旧街道はその手前を左に回り込むが、通れない)

街道風景
 街道は西北に向けてほぼ真っ直ぐに進む。
広くなった道路には松が植えられ、切株が保存されていたり整備されているが、その先 右側にある清晨寺(せいしんじ)を過ぎてからは、狭くなる。

飯村(いむれ)一里塚
 数百メートル先で国道1号線と合流する。三角地帯の先端の電柱の脇に、「飯村一里塚跡」の石柱が立つ。
石柱の向きは、国道に向かって立っており分かりずらい。
 
 ここからは交通量の多い国道の歩道を、約2km・・・瓦町の交差点を過ぎて東八丁の交差点(五叉路)まで・・・歩く。

街道風景

  <七富士稲荷大明神
> (左側)

   <寿泉寺>  (瓦町交差点角)    <瓦町不動院> (右側幼稚園の裏手)
 

新町の大灯籠 と吉田宿



 東八丁交差点の歩道橋の北側に大きな秋葉山常夜燈がある。文化2年(1805)吉田宿の東惣門前に建てられてたもので、新町の大灯籠として吉田の名物であったという。
 この地は、鎌倉時代から東海道の要所として栄え、豊川河口に今橋が架橋され、町名も今橋といっていたが、慶長5年(1600)頃池田輝政の城主時代に、縁起の良い「吉」にちなんで吉田と改名されたという。 江戸時代に入ると、宿場町として栄えたが、もともと城下町なので鍛冶町・札木町などなどの名前が今でも残る。

 天保14年(1843)時点では、本陣2、脇本陣1、旅籠65、人口5277の規模であり、御油宿、赤坂宿と並んで、飯盛女が多かったことでも知られるという。
 歩道橋の南側には東惣門のミニチュアが建ち、説明板がある。 ここから鍛冶町に入るが、鍛冶町の東側で、東海道にまたがって建てられ、門の脇には番所があったという。惣門は、朝六ツ(6時)から夜四ツ(午後10時)まで開けられており、それ以外が一般の通行は禁止されていたという。                   国道を走る路面電車

曲尺手(かねんて)門跡
 歩道橋をおりて、すぐ先の小道を南に進み、突当りの二本目の道を右折する。すぐ先の右側の奥には造立稲荷大明神がある。
 300m弱先の中央分離帯のある道路を横断するが、北側分離帯の中に史蹟「曲尺手(かねんて)門跡」の石柱が立つ。
この先の大手門などとともに、東海道から吉田城へ通じる門の一つ。
ここから100mほど先を左折し、20mほど行って右折し、札木通りに入る。城主池田輝政が作った城防備のための道路で町名でもある。

龍拈寺
 札木通りを先に進む前に、通りの一本南側に位置する龍拈寺(りゅうねんじ)に立寄る。コンクリート造りの本堂の南側に、龍拈寺山門と説明板が建つ。大永年間(1521~27)に吉田城主牧野信成の創立という。山門は元禄6年(1693)建立され宝永の大地震で傾いていたものを修復、昭和の戦災時にも類焼を免れたという。
 もとの材木通りに戻り、西に進む。→

吉田城大手門跡
 札木通りの一つ目の信号を北に向かい、吉田城を訪れる。
一つ目の角に吉田城大手門跡の標柱が立つ。
天正18年(1590)池田輝政が吉田城を拡張した時、東側の飽海口からこの地に移したという。明治初年取り壊された。
 その先電車通りをこえると正面に、戦災を免れた豊橋公会堂がある。
 その先、豊橋公園として整備された一角に吉田城址がある。三の丸口門跡から入る。

吉田城  冠木門跡


吉田城 隅櫓
 吉田城ははじめ今橋城と称し、永正2年(1505)牧野古白が今川氏親の命により築城した。
今川家衰退後、永禄8年(1565)家康の家臣、酒井忠次が城代となり、家康関東移封後は秀吉配下の池田輝政が天正18年(1590)に入り拡張と城下町の整備を行った。
10年後、輝政は播磨―姫路に移封となり、江戸時代は譜代大名が入り、明治に至る。
 天守閣はなく、本丸を中心にして複数の櫓があったが明治6年(1873)焼失。
今ある隅櫓は、本丸の鉄(くろがね)櫓の跡に、昭和29年(1954)に建てられた。             明治初年 豊川からの吉田城クリックすると拡大クリックすると拡大

札木通り 高札場跡

                        問屋場跡
 もとの札木通りに戻り、西に進む。
戦災で宿場の町並みはなく、広い歩道の所々に標柱が立ち、札木町の往時のにぎやかさを偲ばせる。
 戻った角に、豊橋市の小さな道路元標の石柱がある。ここは高札場跡という。
 その先NTTビルの前-札木交差点の手前-に問屋場跡の標柱が立つ。

脇本陣跡(通りの左手)

本陣跡(通りの右手)
 交差点を越えると、本陣の清須屋与右衛門 建坪327坪(1,080㎡)と 東隣に江戸屋新右衛門 建坪196坪(648㎡)の2軒の本陣が並んでいた。
 本陣の斜め向かいに、脇本陣跡がある。
 その先には、洒落た店構えの菜飯田楽の老舗「きく宗」がある。文化年間(1804~18)の創業という。

湊町公園と芭蕉句碑
 旧東海道は、松葉公園のある交差点で右折し、北に向かう。
国道23号を越えた所に、西惣門のミニチュアが建つ。
ゆるい坂を下り豊川に向かう。100mほど先の角を左折して更に100m先右手に湊町公園がある。
奥に、築嶋弁天社の祠があり、其の前に芭蕉が貞享4年(1687)に吉田の旅籠で詠んだ句がある。
 『寒けれど二人旅寝ぞたのもしき』


湊神明社
 公園の左手には、湊神明社がある。湊町・船町の鎮守で、由緒によれば、白鳳年間(661~85)の創建という。

 元に戻り、次の船町交差点で右折、豊川に向かう。

 豊川は、『風土記抄』に「当国(三河)に、三つの川あり、一に男(乙)川といひ、二に豊川といひ、三を矢矧(はぎ)川といふ。故に三河の国と号す」とあり、国名の由来になった川である。

豊橋(とよばし)



 江戸時代は、吉田大橋と呼ばれ、矢作橋、瀬田唐橋と共に東海道の三大大橋といわれた。
 昔の吉田大橋は長さ約120間(約216m)で、この位置より73m南に架かっていて、その場所には小公園があり、明治12年(1879)に架けられた豊橋親柱が残されている。
また、そこにある石碑によれば「淀ノ橋・京橋・矢作橋・瀬田唐橋とともに、幕府直轄の五大大橋といわれた」という。

 今の豊橋のたもとまで戻ると、船町の説明板がある。
この地に最初に村を築いたのは浅井長政の一族、浅井与次右衛門らおよそ80名で、その後天正18年(1590)浅井長政が城下町を拡張した際、船町となったという。
江戸時代に入ると「吉田湊」として、豊川船運の終点としてここで廻船に積みかえられ、江戸に向かう航路の起点として栄え、また伊勢参りの旅人も多かったという。
豊川の西側の浅瀬には しじみを採る人がいた。

豊川稲荷遙拝所
 橋を渡るとすぐ、左折し土手下の道を西北に進む。
少し行くと、右に豊川稲荷遙拝所と刻まれた石碑が立ち、右手前には石柱の部分が道標になっている常夜燈が立っている。
安政2年(1855)の年号で、「左吉田町 右御油道」と刻まれている。
以前とは、その向きが違っている場所から移されたのだろうか?

聖眼寺(しょうがんじ) 松葉塚
 その先に、広い寺境内が見える山門の前に、松葉塚の説明板の立っている聖眼寺がある。
 境内左手に、宝暦4年(1754)建立の古碑「松葉塚」を示す標石・・・左側の自然石の塚・・・があり、右側に、明和6年(1769)に再建された塚(亀の土台)が並んでいる。
貞享4年(1687)に立ち寄った時の句が刻まれている。
  『ご(松葉)を焼て手拭あふる寒さ哉』
 

下地一里塚跡
 聖眼寺の向かい側の土手には、豊川の洪水を防ぐために、約400年前に築かれたという9ヶ所の霞堤の状況などが記されている説明板が立つ。
 
 その先、下地の交差点の手前右側に、下地一里塚跡の石柱がある。道幅が狭くなり、古い町並みの残る通りとなる。
 元禄16年(1703)創業という“ヤマサン”の建物→

瓜郷遺跡
 数百m先の右に入る道に「瓜郷遺跡」の矢印があり、100mほど先に復元された竪穴住居がある。一帯は、低湿地に囲まれた自然堤防上に立地する弥生時代中期から古墳時代前期(2000年~1700年前)にかけての集落の跡という。
奈良県の唐津遺跡、静岡の登呂遺跡と共に、弥生時代の低湿地にある遺跡の一つで、貴重なものという。



道の景色  豊川放水路
 旧街道は西北にまっすぐ進んで行く。途中左手に秋葉神社の小祠があるが、それ以外は街道筋を想わせるものは何もない。魚市場を過ぎると、豊川放水路を渡る。豊川の洪水対策として霞堤が造られたが、更なる対策として、戦前、放水路の建設が始まり、中断後、昭和40年(1965)に完成した。
全長6.6kmという。

子だが橋の石碑
 橋を渡った少し先右側に数本の木が植えられ、石碑と説明板がある。昔小川に架かる橋に、この先の菟足(うたり)神社にまつわる言い伝えから、橋の名前がついたという。それによると、「神社には大祭の初日に最初にこの街道を通る女性を人身御供として生贄にする習慣があった。ある年、橋の上まで来た女性を見ると、故郷に帰ってきたわが子であり、苦しんだが『子だが止むを得ん』として神に奉った、という。
現在も、神社では12羽の雀を生贄に替えて神事が行われているという。」

菟足(うたり)神社
 才ノ木交差点を過ぎると、長い参道の神社がある。創立は、白鳳15年(686)という。説明板によると「秦の始皇帝の命で渡来してきた『徐福』の一行の子孫が秦氏を名乗り、神社を創設したという言い伝えがあり、生贄神事もそこから来ている」という。    文化元年(1804)の灯籠→
またこの一帯には、貝塚が広く出土し、縄文時代晩期の土器が多くみられるという。

道の景色
 古い町並みが続く。東にある五所稲荷神社への「道標」があり、飯田線の踏切に先には秋葉山常夜塔がある。
    

明光寺
 300mほど先には、明光寺があり、山門前に秋葉神社の祠や常夜燈がある。
 境内左には、多くの石仏が並んでおり、それらの左手前に、上の部分のない五輪塔がある。 説明板は「小坂井町大字宿と豊川市蔵子とが、川筋のことで争いがあり、地境にある五輪塔を奪い合ったという。上の部分は豊川市蔵子にある。」という。

伊奈立場茶屋跡
 更に500mほど進むと、左手に空き地が残り、石碑が立つ。
吉田宿と御油宿の中間にあたり立場茶屋が設けられ、茶屋という地名が出来たという。
 そのうち格式の高い加藤家は、茶屋本陣とよばれ、ここで売られる「良香散」という腹薬は、茶屋の地名よりも有名であったという。

迦具土(かぐつち)神社
 立場跡の斜め先に迦具土(かぐつち)神社があり、鳥居の左に文化6年(1809)の常夜燈がある。 
     

伊奈一里塚跡
 200mほど先の十字路に、格子戸のある山本太鼓店があり、横に伊奈一里塚の石柱が立つ。しばらく先の小さな川を渡った先に、「冷泉為村卿の歌碑」のサインがある。
 ←速須佐之男(はやすさのお)神社    

→ 若宮白鳥神社遙拝所および冷泉為村卿の歌碑

旧東海道迂回
 少し行くと道の両側には小田渕の工業団地が広がり、しばらくすすんで国道一号線にぶつかる。
 旧東海道はここを横切ってから田畑の中をすすんで行くが途中で消えているために、国道の歩道を進むことになる。
正面には、御油から先の山並みが見える。
名鉄本線を越えてから、西北方向に分岐する道があり、これが旧街道の続きとなる。

国府の町並み

 国府(こう)には、三河国の国府が置かれていた。名鉄の国府駅の東200mの曹源寺のある所に、国府の国庁があったという。更にその東には、国分寺跡がある。

 道を進むと、右側の駐車場の隅に、細い石柱が立ちその上に半僧坊大権現と名付けられた小さな祠がある。
またその先には、寛政12年(1800)の秋葉山常夜燈があり、行基が彫った仏像を安置したという言い伝えのある薬師堂がある。        

極楽寺
 旧街道の西側には、数軒の寺や神社が並んでいる。
極楽寺は、国府小学校の前身である国府学校が、明治6年(1873)にこの本堂で開校したという。


                国府の町並み→

高膳寺
 その先を西にはいると、高膳寺がある。
 永正5年(1508)の創立というが、天保から、明治まで、ここには寺子屋が置かれていたという。
天保11年(1840)に生徒が建てた筆塚がある。
 
 元に戻ると、街道脇に大きな樹木の中に白塀の目立つ神社が見えてくる。

国府大社神社
 社伝によると、「天元・永観年間(978~985)、大江定基が三河の国司として在任した時、出雲大社より勧請した」という。
また「徳川14代家茂が、長州征伐に際して、慶応元年(1865)戦勝祈願のため短刀を奉納した」という。

御油一里塚
 
 右側の蒲郡信用金庫の駐車場の植え込みの端に、「御油一里塚跡」の石柱がある。日本橋より76里とある。

姫街道分岐
 すぐに東西に走る道と斜めに交差する。ここが姫街道の分岐点で、見附宿まで浜名湖の北を通っていた。
この道は拡張工事が終わったばかりで、道標や常夜燈が立っているという中日新聞の販売所(右写真)の隣には、何もなかった。そのうちに戻されるのか、または近くの寺に移されたか?戻ってくることを願うのみである。、

御油宿
 200mほど進むと、御油橋で音羽川を渡る。橋のたもとに小さな若宮八幡社がある。
御油の地名の語源は、持統天皇が近くの宮路山に行幸されたとき、油を献上したことに由来する。
宿の長さは、天保14年(1843)で、9町32間(1298m)、本陣4、脇本陣0、旅籠62、人口1298でクリックすると拡大あった。
次の赤坂宿まで16町(1.7km)しかなく、姫街道の分岐する追分宿でもあったので、客引きも盛んで、人口のうち女が738人で、そのうち半分以上が飯盛り女や遊女であったという。
遊女屋は最盛時には、30軒余りで、吉田・赤坂とならんで歓楽街として栄えたという。

ベルツ博士の妻―花夫人の実家跡
 昔の面影のそれほど多くない道をすすんでいく。
旧街道が右へ曲る前の角に立て札がある。
明治政府の招きでドイツから来日し、近代医学の祖といわれたエルウィン・ベルツ博士と明治14年(1881)に結婚した、ベルツ・花の実家のあとである。
明治38年に任期満了となった博士と共にドイツに渡り、博士の没後大正11年(1922)日本に帰国、実家の旅籠―戸田屋―と縁があった西明寺に供養塔を建てたという。

町の景色

                         高札場跡
 花のゆかりの地の向かいは、格子戸のある民家であり、その先・・・幼稚園の広い庭の角に高札場跡の立札がある。

問屋場跡
 右へ曲り、広場のある角に問屋場跡の立札がある。
旧東海道は次ぎの十字路で左折し、御油宿場の中心であった本陣などのある仲町を進む。

 この十字路を右に曲がると資料館であるがすでに5:00pmを過ぎていたため見られず。
名鉄本線御油駅に向かった。
 散策日 2011年5月20日    二川駅-御油駅
 参考
 「東海道五十三次を歩く」 4    児玉幸多 監修