新居 - 二川

  地図①弁天島-新居町
  ②新居町-潮見坂  ③潮見坂-一里山  ④一里山-二川

 
今回は、いよいよ遠江国から三河国に入る。


新居町駅-山頭火石碑
  新居町駅を下りてすぐ西にある小公園に種田山頭火(さんとうか)の歌碑がある。
昭和14年の2度目の遠州路の旅で 浜名街道を詠んだ句
  「水のまんなかの道がまっすぐ」
山頭火(明治15-1882~昭和15-1940)は、井泉水に師事し、自由律俳句の著名な俳人。
公園を下りて、国道1号は左に分岐するが、真っ直ぐ新居関所に向かう。

浜名橋
 浜名橋をわたるが、風情のある標柱があり歩道脇に浮世絵が置かれている。 
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 新居宿の規模は、本陣3、旅籠26、人口3474(天保14年(1843))であった。
新井宿のうなぎの蒲焼は、丸子のとろろ汁、桑名の焼き蛤とともに東海道の三台名物の一つであった。

新居関所
 宝永9年(1708)、中屋敷からここに移された。当初は幕府直轄であったが、元禄15年(1702)以降は三河吉田藩の管轄となった。
手前は復元された渡船場あとで、奥の建物は嘉永7年(1854)地震後再建された全国で唯一現存する関所建物である。
敷地は1丁四方(約109m平方)で、幕府が全国に設置した53の関所のうち最大規模を誇っていた。
厳しい検閲と船での渡しを避けて、浜名湖北岸の「本坂越え」(通称姫街道)を通る旅人も多かったという。

常夜燈と船囲い場
 関所前の道を南に向かうと、道幅が広くなっている個所があり、右側に屋形秋葉常夜燈があり、左手電話ボックスの脇に「船囲い場跡」の標柱がある。
 このあたりは、入江になっており、渡船をつないでいたところで、常時120艘が配置されていたという。

関所前に戻り、西に向かう。

無人島漂着石碑と紀伊国屋
 享保4年(1719)から元文4年(1739)まで、今の鳥島に漂着して21年間生きた乗組員3名(9人が死亡)が救出され、将軍吉宗に謁見した後、故郷の新井宿で歓迎を受けたことが記されている。

 その先に、旅籠を営んでいた資料館 紀伊国屋がある。(明治7年(1874)の大火後2階建となり、昭和36年まで旅館を営んでいたという)

疋田弥五郎本陣跡
 先でT字路となり、旧東海道は南に向かう。
その角手前右に、疋田弥五郎本陣跡、突当りに飯田武兵衛本陣跡、その少し先左の空き地に疋田八郎兵衛本陣跡の説明板がある。



            飯田武兵衛本陣跡→

寺道    隣海院
 飯田本陣の右に山側に入る細道があり、寺道入口の柱が立っている。
関所がこの場所に移転した時に、寺社が宿の山側の一角に集められたため、街道の西側を走る道を寺道といったという。
   本果寺           住吉神社         新福寺

街道景色
 旧街道はT字路から南に向かっているが、すぐ先右側に「寄馬跡」の石柱がある。

近所の助郷村から寄せ集められた人馬の溜まり場だったという。

街道景色  常夜燈
 しばらく行くと、秋葉山常夜燈がある。
 その先左には鳥居があり、細長い参道が続いている。寂れていて奥の広場には石碑や小さな祠らしきものがあるのみである。
池田神社という。

一里塚跡
その先の左手の一角に、小さな植え込みの中に一里塚跡の石柱と説明板がある。

西の入り口-棒鼻
 旧街道はその先で右折し、すぐ先で左にカーブする。そこに「棒鼻跡」という石柱と説明板がある。
新井宿の西境で土塁があり、桝形をなしていた。棒鼻とは、駕籠の棒先の意味で、大名行列が宿場へ入る時にこの場所で先頭(棒先)を整えたので棒鼻と呼ぶようになったという。

教恩寺
 南に向かい、国道1号線に突当る。1号線を100mほど西に進むと、旧街道は1号線から分かれてまっすぐ西に向かう。その交差点の北に教恩寺がある。
正安2年(1300)の創建といい、山門は江戸後期のものという。
境内には幹周り4.3mの枯れた銀杏の切株が残されている。

風炉の井
 国道をはさんで向かい側に「風炉の井」と呼ばれる石積井戸がある。
深さ2m、口径1.8mで以前はもっと深かったという。
言い伝えによると、建久元年(1190)源頼朝が上洛の折り、橋本宿に宿泊した時にこの井戸水を茶の湯に用いたとされる。

橋本宿
 信号から分岐し、旧街道を少し進んだところ-右側の民家の門前に「橋本宿」の石柱が立っている。
「橋本」は棒鼻の南の国道との交差点の名前ともなっているが、橋本宿は、以前、陸続きであった東に位置する舞阪までの間の宿場であり、浜名川に架かる橋の近くにあったという。明応7年(1498)の津波で水没し、今切りの渡しができて新井宿に移っていったという。

浜名旧街道
 浜名旧街道という名前が付いている道を西に向かうと、松並木が始まり、紅葉寺跡のサインがある。石段を上がった境内跡には、石仏・石塔があり、昔の寺跡の雰囲気が良く出ている。建久元年(1190)頼朝上洛の折り、橋本宿で寵愛を受けた長者の娘が後に出家して妙祖と名乗り、高野山より毘沙門天を勧請して建てたという。
       

松並木
 旧街道は緩やかな上り坂で山裾に沿って進み、復元された松並木が続く。 
左手には田畑の先に海岸沿いの松林と遠州灘がみえる。


       紅葉寺の石段から海岸方面の眺め→

藤原為家・阿仏尼歌碑
 しばらく進んで広い十字路を過ぎると、藤原為家・阿仏尼の歌碑が立っている。為家の歌と、為家の側室となりその没後出家した阿仏尼が、鎌倉への下向のおり詠んだ十六夜日記にある歌が刻まれている。

阿仏尼 
     「わがためや 浪もたかしの浜ならん
                 袖の湊の浪はやすまで」

大倉戸 立場跡
  松並木が終わり、広い道が狭くなって旧街道らしい道幅となって、大倉と集落に入る。その手前に、立場跡の石柱がある。、代々加藤家が勤めていたという。
 
 説明板には、「立場では旅人を見ると湯茶をすすめたので、ある殿様が『立場立場と 水飲め飲めと 鮒や金魚じゃあるまいに』という戯歌を詠んだという話が残っている」とある。

道の景色   東新寺 

   ろうばい                    秋葉神社と金比羅宮
   

 明治天皇野立所阯 (明治元年-1868)    遠州灘
  

火穂(ほずめ)神社
 しばらく進むと、右側に火穂(ほずめ)神社の鳥居と石段がある。
火災で古文書消失のため創建不詳。白須賀宿の鎮守。
入口広場の手前に大きな白須賀宿マップが立ち、これから向かう境川までの説明がある。

元宿 一里塚・高札場跡
 神社から数百m進むと、かっての宿場らしい町並みが始まる。この辺りは、最初の白須賀宿があった所で、宝永4年(1707)の大地震と津波で壊滅し、これから訪れる「坂上」に「移転した。

 右側の民家の角に「一里山旧址」という古い石柱と「高札場跡」の真新しい石柱が立つ。

道の景色   神明神社

長屋門のある民家          蔵法寺
  

潮見坂へ
  400mほど先で旧東海道は右へ曲り潮見坂を上って行く。潮見坂下の道標があり、「右旧道 左新道」と刻まれた石柱がある。
 
 ここから坂を上って行き、どのあたりが遠州灘が一番良く見えたのかを確認するために、振返りながら進む。

 潮見バイパスの道路が邪魔をしてよく見えない。

うなひ(うない)の松 (坂のうなじの位置)
 坂を上って左へカーブする所に、右から合流する山道があり、右へ少しいくと、石碑と説明板がある。
文明8年(1476) 駿河守今川義忠を葬った上に植えられた松で、昔から枝を一本折っても「オコリ」をふるったと恐れられていた松という。切株の所に新しく小さな松が植えられている。

潮見坂から振り返る
 左へカーブして更に上っていくと、左から広い道が合流してくる。その先に潮見坂の説明板が立つ。クリックすると拡大
「西国から江戸への道程では、初めて太平洋や富士山を見ることができる場所として、旅人の詩情をくすぐった場所」とある。
予想していた景色とは違うが、昔の景色を思い描きながら振返って遠州灘を眺めた。

潮見坂上
クリックすると拡大  坂を上りきると台地がひろがり、「おんやど白須賀」という休憩所・展示室がある。
旧道はこの先の白須賀中学校の敷地を通っていたという。

潮見坂公園跡
 道は左へカーブするが、すぐ先には潮見坂公園跡がある。
ここは、織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張へ帰る時、徳川家康が茶亭を新築して、信長をもてなした所といわれる。

道の景色
 中学校を過ぎると、旧東海道の町並みの残る道が続く。T字路の先を左に入ると、十王堂、その先に禮雲寺がある。



民家

道標「鷲津停車場往還」
 明治21年(1888)開業の鷲津停車場へ通じる道。

白須賀宿の東桝形
 緩やかな下り坂が続き、道が桝形となっている。宿の東の入り口で、「曲尺手(かねんて)」の説明板が立っている。

白須賀宿のデータ:本陣1、脇本陣1、旅籠27、人口2,704(天保14年(1843))


町並み

本陣
 道に面した家には、「内田屋」近江屋」などの旧屋号の名札が架かっている。
小さな宿場だったので、大名行列は素通りするものが多かったという。(例外:池田綱政)

右側に本陣跡の石柱と説明板がある。

脇本陣跡

問屋場跡              夏目みかまろ屋敷跡
   

火防樹の槙
 夏目甕麿(みかまろ)・・・この地の酒造家で、宿場の名主を務め、本居宣長門下に入った・・・屋敷跡を過ぎて少し先に民家の間の土塁の上に槙の木が並んでいる。
 街道の両側3ヶ所に槙の木の防火林が築かれ、一部が残っている。
火事の延焼を食い止める為で、常緑樹で火に強い槙で、樹齢200年以上という。

庚申堂
 しばらく行くと右側に立派な屋根のついた庚申堂が立つ。
三河・遠江内で最も大きい庚申堂といわれ、天保12年(1841)に再建されたものという。

境宿
 旧東海道は西北に進んでいるが、町並みの少なくなるところで、三叉路となる。
角に谷川道の道標があり、向かい側の石塀のまえには「高札建場跡」の石柱がある。
この辺りは、境宿とよばれる白須賀宿の加宿であった。

境川
 旧東海道は左へ進むが、すぐ先で広い自動車道と合流し、すぐ細い道に分岐した後、また合流する。
その先の信号のある所で、境川を渡る。
三河国と遠江国の国境だったところで、今の静岡県と愛知県の県境でもある。
県境の川がこれほど小さいとは、驚いた。

細谷一里塚
 境川から200mほどで、国道1号線に合流する。
次の一里山交差点を過ぎるとすぐ、右側に小山と林があり、小さな祠がある。細谷一里塚で右側の塚のみ現存している。
説明板は 東西11m、南北14m、高さ3mといい、「一里山一里塚」と呼んでいる。

 ここからは、真っ直ぐ西北に進む国道一号線を二川宿目指して約4kmの距離を歩くのみである。

ミツ坂・源吾坂
 交通量の激しい幹線道路であり、右側の歩道を歩く。両側は広大な畑が続き、大型トラックがスピードを出して通りすぎ、午後jからは雨模様となって、ゆったりと旧東海道を思い描いて散策するどころではなかった。
 源吾坂のバス停を過ぎる辺りから、東海道新幹線の高架が見え始め、二川宿が間近ととなり、再び力が出てきた。

二川一里塚
 雨も上がり、東海道線の踏切をこえてすぐを左折し東海道線と並行して進む。
100mほど先の三叉路に一里塚跡の石柱がある。
その角の家は二川宿の案内所になっており、中には町の建物の整備をする以前の写真などが掲げられている。、

二川宿

二川宿は、もともと源吾坂付近にあった二川村と、今の二川駅付近にあった大岩村の二ヶ所に一宿の業務を扱わせたのを、正保元年(1644)に、一つにして現在の場所に宿場が出来たという。
宿の規模は、本陣1、脇本陣1、旅籠38、人口1,486(天保14年データ)

宿の景色
 ここから西の大岩神明宮あたりまで宿場の面影のある町並みが多く残っている。
 次の角を右に入ると、十王堂がある。
江戸初期に本陣、問屋役をつとめた後藤源右衛門の祖先が私庵として開いたという。

妙泉寺
 すぐ先右折すると参道があり、奥に妙泉寺がある。前身は貞和年間(1345~50)に日台上人が建てた小庵。

境内には、隣の十王院から移された寛政10年(1798)の建立された芭蕉句碑である紫陽花塚がある。

『阿ちさゐや 藪を小庭の 別坐敷』
 (元禄7年(1694)江戸深川で詠んだ句。)

二川八幡神社
 永仁3年(1295)鎌倉鶴岡八幡宮から勧請したと伝わる。二川村の氏神。
駒屋前の桝形南にあった文化6年(1809)の秋葉山常夜燈が境内に移されている。

宿の景色      駒屋

  東問屋場跡             旅籠清明屋
    

二川宿本陣 馬場家
 二川宿の本陣役は、当初の後藤家から紅林家に代わり、そして馬場家が文化4年(1807)から明治3年(1870)までつとめた。
本陣は、馬場家から市に寄付され、残されていた享保年間(1716~36)の表門、宝暦年間(1751~64)建築の主屋などが改修され、書院棟などが復元され平成3年に完成したという。


←上段の間

宿の景色     西駒屋

旅籠 壱屋                高札場跡
   

大岩寺
 元岩屋山麓にあって岩屋観音を奉仕した六坊中の一坊であったという。正保元年(1644)二川移転と共に現在地に移ったという。

西問屋場跡
 大岩寺から100mほど先の右側の民家前に石柱がある。
二川村が運営する東問屋場と、大岩村の運営していた西問屋場がある。

大岩神明宮
 しばらく先に広い十字路があり、北に進むと正面にある。
大岩村の氏神で、神社の由緒によると、文武天皇2年(698)岩屋山南山麓に創建祭司されたと伝えられている。のち正保元年(1644)大岩村の移転と共に現在地に移ったという。

建場茶屋跡
 十字路から200mほど先に立場茶屋跡の石柱がある。

この辺りから道幅が広くなり、二川駅が近い。
 散策日 2011年1月15日    新居町駅-二川駅
 参考
 「東海道五十三次を歩く」 4    児玉幸多 監修