御油 - 岡崎

   地図①御油-長沢
  長沢-藤川  ③藤川-大平  ④大平-東岡崎

 今回の楽しみの一つは、御油の松並木である。
名鉄名古屋本線の御油駅から西へ、音羽川をわたり300mほどで、旧東海道に戻る。

本陣跡
 直角に曲がってきた東海道が、ここから再び西北に向かう。すぐ左に本陣跡がある。4軒あったうちの、鈴木半左衛門が営んでいた本陣という。
 その先になまこ壁の蔵の「イチビキ」の工場がある。安永5年(1772)大津屋として創業した味噌醤油醸造会社である。

東林寺
 次の角を左に入ると、東林寺がある。永享年間(1429~41)の創建といい、本尊の阿弥陀如来は、鎌倉初期の中央仏師の作と推定され、それは奥州に下る義経と契りを結んだ三河矢作の浄瑠璃姫の念持仏、との言い伝えがあるという。
             御油の町並み→
十王堂
 松並木が始まる地点の左に、十王堂がある。明治中頃の火災の後再建されたものというが、江戸時代から絵図に印されていたという。
 600m続く松並木が始まる右手にある石碑によると、当初600本以上あった松は、終戦頃には200本近くに減ったが、旧東海道に現存する松並木のうちでは昔の姿を最もよく残すものとして、昭和19年国の天然記念物に指定された、という。

御油 松並木の景色

赤坂宿 東見附跡
 松並木が終わり小さい川を渡ると、赤坂宿に入る。
右角に東見附跡の案内板が立つ。

寛政8年(1796)に、東の見附はここから少し先の関川神社の前に移築され、明治7年(1874)取り壊された。
また、西の見附は杉森八幡社入口付近にあったという。

赤坂宿 景色
 御油宿と赤坂宿の間は、東海道の宿駅間では最も短い16町(1.7km)で、それは問屋場の間の距離であり、実際には御油の出口からは900m離れているだけである。赤坂宿は御油と同じく歓楽街として名高く、享保4年(1733)には、家数400軒のうち83件が旅籠であったといい、各旅籠では2~3人から7~8人の飯盛女を置いていたという。
天保14年(1843)のデータでは、本陣3、脇本陣1、旅籠62、家数349、人口1304という。

関川神社
 100mほど先に、推定樹齢800年といわれる楠の巨木がそびえている関川神社がある。
 鳥居の脇には芭蕉が御油―赤坂の短い距離を詠んだ句碑が立っている。
 「夏の月 御油より出でて赤坂や」
          
                      町並み→

長福寺
 しばらく先の左に入る細道の正面に、長福寺の山門があり、その前には信州善光寺出張所と刻まれた石柱が立つ。赤坂長者、宮道弥太郎長富が、娘の力寿姫(三河国司大江定基との分かれを惜しんで自害した)の菩提を弔うために創建したという。
本尊の聖観世音菩薩は、大江定基が力寿姫の菩提を弔って寄進したとされる。11世紀~12世紀前半の作品といわれる。

問屋場跡と本陣跡

 すぐ先の民家の前に問屋場跡があり、斜め前には、大きな門が出来ている本陣跡がある。
松平彦十郎家が勤めた江戸時代初期から続いた本陣で、宝永8年(1711)の町並図によると、4軒あったうちの一軒という。(後には3軒)

尾崎屋
 すぐ先の三叉路には、小公園があり、復元された高札場や、赤坂宿のまつりや、町並みの大きな掲示板がある。
 そのすぐ先に、昔の面影をそのまま残している建物がある。
 「尾崎屋」で、「曲物 民芸品 製造卸問屋」 という看板が2階の軒先に掲げられている。
明治元年(1868)創業という。

大橋屋
クリックすると拡大 大旅籠の形態が良く残っている大橋屋がある。慶安2年(1649)の創業で、明治4年(1871)ごろまでは「伊右衛門鯉屋」といった老舗旅籠である。この建物は、正徳6年(1716)建築という。
今も旅館を営んでおり、次回訪れたときには宿泊したいと思いつつ、あとにした。

赤坂 陣屋跡
 大橋屋の右脇に「赤坂陣屋入口址」とある白い石柱が目立たずに立っている。そこから100mほど行った右手には広い駐車場の前に「赤坂陣屋跡」の説明板がある。
 当初の陣屋は三河の天領支配の中心として、ここ「大藪」の地に設けられていたが、元禄2年(1689)に先ほどみた大橋屋の脇の奥の神木屋敷に移され、幕末に「三河県役所」と改められ、その後明治2年(1869)、ここに再び移されたという。

杉森八幡社 と 赤坂舞台
 200mほど先に杉森八幡社の鳥居が立ち、「赤坂の舞台」という標柱がある。
大宝2年(702)持統上皇が東国巡幸の時、伊勢神宮領御厨址に大神宮・八幡社を勧請し神鏡を納めたと伝えられ、八幡社はその時の行在所跡に創建されたという。
 
 境内奥に「赤坂の舞台」がある。赤坂宿では人形浄瑠璃、明治以降では歌舞伎が演じられていて、この舞台は明治5年(1872)に芝居愛好者が中心となって造られたという。奈落はなく、舞台上でまわる回り舞台である。
赤坂宿 西見附跡
クリックすると拡大 すぐ先に西見附跡の標柱がある。斜め前には十王堂の標柱も立つ。

 そのうち両側に田畑が目立ち始める。
         西側の山の景色→

栄善寺

  数百メートル進んだ道端に石柱が立ち、大日如来 弘法大師自作、栄善寺とある。
そこから山側に細道をすすむと、長い年月を感じさせる石段があり、右手には石の祠や石仏が並んでいる。
本堂前の説明板によると、「文永9年(1272)、円空立信の創立で浄土宗の寺。本尊の大日如来は弘法大師が刻み、盲目の村人の息子の目を治したという話がつたわる。享禄3年(1530)の山崩れのあと、大日如来が出てきて寺を再建した、という。 自然石石段は平安様式といわれ、本堂も二層式で大変珍しい」という。
境内には、台座に寛延元年(1748)と刻まれた石仏がひっそりと立ている。
 小さいが、静かで心やすらぐ落ち着いた雰囲気のお寺であった。

秋葉山常夜燈
 200m先に寛政12年(1812)秋葉山常夜燈があり、その前に自然石に「善光寺分身如来道」と刻まれた道標がある。
 細道の先には、洞泉寺と右手山の奥に八王子神社がある。

長沢一里塚
 この先で音羽川を渡り、有料道路の高架下をくぐる。
少し先から道路が拡張されているが、その左側に一里塚の標柱が立っている。
左側に山を見ながら旧東海道はまっすぐ西北に進む。

長沢城跡
クリックすると拡大  右側に長沢小学校のグランドがある石垣に「長沢城跡」の説明板がある。
「長沢は、東西三河の境目にあって、西側から山が迫り、東海道を挟んで南に岩略寺城、北に長沢城があった。  寛永11年(1634)家光上洛の時には、休憩所として立てられたといわれる長沢御殿が小学校敷地内にあった。」

観音堂と板碑
 小学校の先、右に上る道があり、正面石段を上ると観音堂がある。堂の手前に板碑が立つ。「長沢の三尊種子板碑」とよばれ、「高さ1.9m幅0.4m、最大厚さ0.35mの雲母片岩質の自然石に、三字の梵字が薬研彫りで彫られ、正安二と刻まれている。
正安2年(1300)というのは愛知県下最古の在銘板碑である」という説明があった。
関東地方でよくある板碑とは別の石で、興味深いものであった。

道の景色

 しばらく行くと、左側の音羽川が街道近くなり、すぐ再び離れていくが、道静かな町並みを進んでいく。
右側の寛永10年(1798)の秋葉山常夜燈をすぎ、左側には古い建物がならぶ。
    

観音堂跡  磯丸「みほとけ」歌碑
 右側の石垣の上に、「磯丸みほとけ歌碑」と書かれた、白い石柱がある。左奥に大きな自然石の歌碑が立つ。『東三河を歩こう』というHPに、この歌碑は「弘化3年(1846)観音堂の尼・妙香尼が落馬死した旅人の供養のために、糟谷磯丸に歌を依頼して立てたもの」という。
 「おふげ人 衆生さいどに たちたまう このみほとけの かかるおかげを    八十二翁 磯丸」  (同HPより)
磯丸は伊良湖村の漁師で多くの歌を残したという。

国道1号線と合流
 すぐ先の秋葉山常夜燈と小さな祠の先で川を渡り、その先で国道1号線の左側を進んだあと、すぐに合流する。ここからは交通量の激しい一号線の歩道を歩くようになる。緩やかな上り道である。

国道の右上を、名鉄名古屋本線が走り、更にその右上奥には東名高速が走っている。

本宿村
 
 合流して約1.5kmひたすら歩き、本宿深田交差点を過ぎると、本宿(もとじゅく)の石碑と大きな「是より西 本宿』と書かれた説明板がある。
 それによると、本宿は往古から街道と共に開けた地で、中世以降は法蔵寺の門前を中心に町並みがつくられ、鎌倉街道が東海道の南・・法蔵寺裏山を通り鉢地から宮路山中に続き、近世に入ると、東海道の赤坂宿と藤川宿の中間に位置する「間宿」として栄えたという。

御草紙掛松
 道は緩い下り坂となり、新箱根入口の信号の先で、国道1号線から分岐する。真新しい石柱の道標がある。100mほどで法蔵寺である。入口左に石柵の中に植えられた若い松がある。
家康が幼少時代に過ごした法蔵寺で、手習いに励んだおり、草紙を掛けたことから呼ばれて親しまれてきたが、昭和55年(1983)に枯れ、今の松は平成18年の松で4代目という。

法蔵寺
 大宝元年(701)行基の創建、法相宗と伝わる。その後浄土宗に改宗し法蔵寺とし、嘉慶2年(1387)に松平家初代親氏(ちかうじ)が堂宇を建立したという。家康が幼いころ手習いや漢籍を学んだとされ、桶狭間の合戦以後、法蔵寺に守護不入の特権を与えるなど優遇したという。
 
山門の先左手に日本武尊の伝説のある『賀勝水』といわれる井戸がある。
石段を上ると鐘楼門がどっしりと構え、広い境内には巨大な「イヌマキ」がある。
 

本堂左手奥には、近藤勇の首塚がある。慶応4年(1868)に東京板橋の刑場で処刑された勇の首は、京都で晒し首とされたが、同士が持ち出しここに埋葬されたという。
      

本宿の街道風景
   

陣屋跡と代官屋敷
 静かな街道を進んで行くと、左手に上る細道がある。その正面に、本宿の陣屋跡だった、という病院がある。
入口の説明板によると、「元禄11年(1698)旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家の子孫)が知行所支配のため、陣屋を設け以降明治まで存続、陣屋代官職は、富田家が世襲し、屋敷は病院の駐車場脇にあり、文政10年(1827)の建築」という。

欣浄(ごんじょう)寺  十王堂
 少し先の角に十王堂跡の説明板がある。ここに十王堂跡があり、今は左手奥の欣浄(ごんじょう)寺境内に移されている。
本尊の地蔵菩薩座像は鎌倉末~室町の作といわれる。

本宿一里塚跡
 100mほど進んだ右手の民家の角に、一里塚跡の石柱がある。
その先左側に薬師如来と刻まれた古い石柱が立ち、しばらく進むと、長屋門のある民家がある。宇都野龍碩邸跡で、宇都野家は宝暦年間(1751~63)から
医者を開業、七代目龍碩は、蘭方医で、安政年間に当時としては画期的な植疱瘡(種痘)を施した、という。

道の景色(1)
 その先で国道1号線と合流する。大きな説明板があり、本宿村の出口となる。
 しばらくの間国道沿いに進み、途中から右側歩道に移る。
右手の名鉄の線路の先にのどかな田畑/山並みが広がる。

道の景色(2)
 旧東海道は、右側の山が迫るあたりから、国道から分岐し、名鉄線に沿ってすすむ。
名鉄の名電山中駅を過ぎて、右手の相馬稲荷大明神、興円寺の石柱と祠などを見て、山中町を進む。
途中には「舞木町の由来」や南西1kmほどにあった山城の「山中城」の説明板がある。

山中八幡宮
 舞木町西交差点で国道1号線に合流する。
国道を真っ直ぐ進む代わりに交差点を横切り、南西に向かい山中八幡宮を訪れる。国道の脇に文政4年(1821)の「御開運御身隠山」の大きな石碑が立ち、その先の田圃の真中を通る参道に天保4年(1833)建立の大きな秋葉山常夜燈があり、そこから100mほど先の鳥居に向かう。
文武天皇の時代(697~707)にこの地にいた山中光重の創建とされ、天文年間(1552~55)に焼失後、松平広忠(家康の父)が再建したという。
「鳩ヶ窟 
 石段を上り、本殿の手前を左に進むと林の中に洞窟がある。
家康の家臣菅沼定顕が、上宮寺から糧米を強制徴収したことに端を発した三河一向一揆で、門徒に追われ家康がここに身を隠し難を避けた・・・・鳩が飛び立ったため、人はいない、と追手が立ち去ったという。
 鳥居まで戻り、山裾を回って国道にいく。歩道を行き、国道が右に大きくカーブする手前で、旧東海道は左に分岐する。
藤川宿に入る。

藤川宿 東棒鼻跡


クリックすると拡大
 宿の東の入り口の「東棒鼻跡」が、宿囲石垣や立札など、広重の絵のままに再現されている。
 石垣の間を行くとすぐに「曲手(かねんて)」/「桝形」と呼ばれる直角に曲がる道となる。角に説明板と寛政7年(1795)の秋葉山常夜燈があり、そこから真っ直ぐに西に向かう。

    

 藤川宿は、鎌倉街道時代から存在した宿場町で、長さは9町20間(約1km)、天保14年(1843)時点、本陣-1、脇本陣-2、旅籠-36、人口1,213であった。

家並み-津島神社入口

格子戸のある家

明星院

 かって山中郷舞木にあったが、市場村が藤川宿加宿として移転したのに伴い、延宝3年(1675)に移転・建立されたという。
本尊は不動明王立像で、永禄5年(1562)扇子山の戦いで、家康が片目の不動によって助けられたという「片目不動伝説」がある。

この先で小さな橋を渡るが、東側が市場村、西が藤川村であった。
すぐ先右側に高札場跡の立札が立つ。

高札場跡(右側)

田口屋 格子戸            称名寺
   

問屋場跡

銭屋(ぜにや)
 江戸期の商家で、大屋根が前に出て樋がなく(今はある)雨水が直接下に落ちるようになっていた。
軒卯建(うだつ)が特徴で、庇の両端にあり、火災から類焼を防ぐ造りになっている。
隣の「米屋」も同様の造りとなっている。

本陣跡

脇本陣跡
 宿の中間あたりに位置して本陣跡があり、その少し先の脇本陣跡がある。本陣跡には資料館ができているが、脇本陣の門は当時のままで、一部修理されただけという。

 脇本陣の角を右折して、本陣跡の裏にまわると、むらさき麦の畑と石垣がある。

むらさき麦
 藤川宿の名物は「藤の花」とともに「むらさき麦」であったが、戦後収益性が悪く作られなくなっていたが、平成に入り栽培されるようになったという。
ここでは「紫裸」や「大公館」など何種類かの名前がついて、栽培されている。
ちょうど良い季節で、よく実った麦の穂を見ることが出来た。
 この先の西棒鼻の前でも栽培されている。

本陣の裏-石垣
 本陣の裏口にあたる所で、石垣がしっかりと積まれている。
その前には「からむし」の自生地がある。
「イラクサ科の多年草で、この付近では通称「ちょま」(苧麻)と呼ばれ、茎の皮をはいで取れた繊維で糸を紡ぎ、布を織るというもので、藤川では、からむし細工のかんざしや網袋、縄などが名物だったという。

西棒鼻跡
 脇本陣あとから300mほど先、藤川小学校の端に、西棒鼻跡があり、片側だけの宿囲石垣や立札など整備されている。歌川豊広が描いた藤川宿の浮世絵にある狂歌が紹介されている。
 「藤川の しゅくの棒ばな みわたせば 
         杉のしるしと うで蛸のあし」
 道の反対側には「むらさき麦」栽培地もある。

十王堂

十字路の向かい側には 宝永7年(1710)創建という十王堂がある。
 境内右には高さ1.65m自然石の大きな芭蕉句碑がある。
 「爰(ここ)も三河 むらさき麦の
    かきつはた      はせを」  
裏に、寛政5年(1793)再建とあある。

藤川一里塚

少し先の民家の前に一里塚の立札がある。

 そこから300mほど進むと、名鉄名古屋本線の少し手前で左に分岐する道が現れる。
土呂(現・岡崎市福岡町)、西尾(現・西尾市)、吉良(現・幡豆郡吉良町)方面へ出る道で、この道を「吉良道」と呼んでいる。
 


吉良道道標
 道標と説明板が立ち、正面には「西尾、平坂、土呂」 とその下に大きく「吉良道」と刻まれ、左面に「東都小石川住」とあり、建立は文化11年(1814)である。
また反対側には石像の安置された小さな祠がある。

名鉄線の踏切を越えると、すぐに藤川の松並木が始まる。

藤川松並木
 きれいに整備された松並木で、松の根元は路肩で守られている。

 数百メートルで、国道1号線に合流する。
合流後歩道を約1km弱進む。
阿弥陀寺を左に過ぎた先から、旧東海道は左へ分岐していく。

道の風景

坂下橋を過ぎた先-美合松並木

  乙川の手前-田園風景           乙川で、国道/大平橋に迂回する
   

大平川水神社
 国道で乙川を渡り、最初の道を西に100mほど進み、川で消えた旧東海道に出会う。
少し戻ると、西側に石の祠の水神社がある。
説明板によると「古くは、蛇篭堰堤の守護神として、大平川の中州に安置され、3回ほど移転しこの地に鎮座した」という。
神社の脇の道は久しぶりに見る舗装されていない旧東海道であった。

道なりに進んで、国道1号線を大平町東の交差点で横切る。
 

つくて道 道標
 右に薬師寺を見てゆるい坂を上る。少し先右手に「つくて道」と彫られた道標がある。 もう1面は「東海道」とある。
「つくて」は、愛知県北東部の南設楽郡作手村(現:新城市)という。

その先の道を右折すると、真新しい白壁の塀が続く先に大きな門構えの建物がある。

西大平藩陣屋跡
 西大平藩は、大岡裁きで有名な大岡忠相が寛延元年(1748)に奏者番兼寺社奉行に就任し、三河国の3郡内で領地を加増され1万石の譜代大名となり、西大平に陣屋を設置したことに始まるという。7代にわたって西大平藩を治めた。
家臣の大部分は江戸藩邸に住んでいて、ほんの一部が詰めていたのみで、陣屋は明治維新で廃止され建物は東京の別邸として使用されていたという。
中は公園として整備されている。

大平一里塚
 元に戻って、旧東海道を進むと十字路があり、左側に大平一里塚があり、北側の塚の跡には秋葉山常夜燈や小さな祠などがある。
残されている南側の塚は、高さ2.4m、底部の縦7.3m、横8.5mという。榎は植えかえられたもの。

大平八幡宮の前
 その先で、国道1号線に合流する。
大平八幡宮の長い参道の前をすぎて、国道を進むが、東名高速入口のインターチェンジのため歩道は消滅するため、地下道を迂回する。次の交差点を越して、松並木の名残のある歩道を進み、いったん国道に合流し筋違橋をわたり、すぐに、右に分岐し上り坂となる。

冠木門と二十七曲り


壱番目の曲り角
 しばらく行くと南から来る道と交差する。その左角に冠木門のある小広場と石碑がある。
江戸時代にも冠木門があってここが岡崎宿の入口だった。
岡崎宿は、古くから街道の宿場として栄え、江戸時代には家康の生誕地として譜代大名が置かれ城下町としても繁栄した。

 天保14年(1843)のデータ:本陣-3、脇本陣-3、旅籠-112、人口-6,594

 大きな石碑には「岡崎城下二十七曲り」としてその解説がある。
二十七曲りは、天正18年(1590)家康の江戸入府の後、秀吉の家臣 田中吉政が岡崎城主として入城し、城下へ東海道を導き入れたことに始まり、のち本田康重が伝馬町を創設して以後、道筋が決定したという。

 その角を右折し(江戸時代はカーブしていたという)次ぎの左へ曲がる角が、1番目の曲り角で、石柱や石のモニュメントが並んでいる。
この先は、所々に距離と矢印を示す標柱が立っている。

伝馬町 と 伝馬町常夜燈
 600mほど行き、右折して伝馬町通りに突当り、左折する。宿場の中心であった伝馬町通りである。
 宿場内で最大であったという、今は移転された秋葉山常夜燈を見に行く。伝馬4丁目西交差点を左折し、またすぐ左折した細道の公民館の前にある。享和3年(1803)の建立という。

随念寺
 元の交差点に戻り、その北200mほどにある随念寺を訪れる。。
 山門の先、白土塀のある石段の上には大きな鐘楼門がそびえている。
永禄5年(1562)家康が家康の祖父-松平7代清康とその妹-久子の菩提を弔うために建立したという。

伝馬交差点
 通りに戻り、にぎやかな町並みを進む。
伝馬交差点の手前左側には、嘉永元年(1848)創業の仏具店があり、北側には、東本陣があった。
反対側の備前屋は天明2年(1782)創業(近くから移転)の菓子店である。
 東岡崎駅に行くのには、ここから南へ行くのが近い為、今回の旅は、ここで終了とした。


そこで、備前屋に入り、名物「あわ雪」に似た「あわ雪豆腐」というお菓子を土産に買った。…旧東海道の旅では初めてのことである。
ついでに、「 『傳馬町家順間口書 文政9年正月改 伝馬町』 およびその他の伝馬資料 備前屋 」という小冊子を頂いて来た。大いに参考になった。
 散策日 2011年5月21日    御油駅-東岡崎
 参考
 「東海道五十三次を歩く」 4    児玉幸多 監修