小田原湯本−箱根町     地図@湯本〜畑宿   A畑宿〜箱根


  東海道のなかで、まさに江戸時代の面影が一番強く残っている街道を散策できるルートである。
天気もよく、箱根湯本から早川を渡り関所の先の箱根町までの、急な坂道、石畳、杉並木などなどを大いに楽しめる日となった。
矢立の杉の石碑
箱根湯本駅から国道を三枚橋までもどる。
北側(橋の反対側)の歩道のバス停脇に、矢立の杉の石碑が小さく建っている。
昔この付近に矢立の杉という老木があったという。
曽我兄弟をはじめ、武将が戦勝祈願のためこの杉の下を通ると、この杉に矢を立てたという
三枚橋
三枚橋は、早川には2つの中州があり水流が三筋に分かれていたから橋が3本あったことから由来するという。
クリックしうと拡大その後2本から1本となり、幕末には土橋であったという。新選相模国風土記には「長さ22間(約40m)幅1丈(約3m)余」とある。(岩崎宗純「箱根路 歴史探索」より。
遠くに二子山がくっきりと見える。

  当時の写真は、「箱根彩景」(箱根町立郷土資料館)による。
白山神社
急な坂道を登り、湯本小学校を過ぎた左手に白山神社がある。
江戸時代には早雲寺の門前に「白山権現」の名前で鎮座していたが嘉永年間(1848-1853年)に今の場所に移されたという。
早雲寺
神社の斜め向かい側に山門があり、「この地が『ヒメハルゼミ』の県下唯一の生息地であり、町の天然記念物」という案内板を見て中門を入る。
北条氏二代目北条氏綱が父の伊勢新九郎長氏(早雲)の遺言で、大永元年(1521年)に建立した。
秀吉の小田原攻めにより焼失し、早雲、氏綱の墓も不明となったが、滅亡後82年後の寛文12年(1672年)、狭山北条家が早雲寺の境内に「北条五代の墓」を建てた。隣に、文亀2年(1502年)この地で亡くなった連歌の巨匠 飯尾宗祇の供養塔が建つ。
北条五代の墓 宗祇の供養塔       枯山水の庭園
 
稲荷型道祖神
早雲寺のすぐ上に稲荷型道祖神があり、その先の右手にも同じ型のものが、広い場所をとって建っている。
  
正眼寺
しばらく進むと、左手に正眼寺の参道が見えてくる。この付近は若干緩やかな勾配であり、この手前あたりには高札場があったという。

 正眼寺の創建は明らかではないが、鎌倉時代、箱根地方に広まった地蔵信仰の中から生まれたという。
正眼寺 灯籠と石造大地蔵
境内左手に一基の石灯篭が建つ。その竿に『早川庄湯坂勝源寺燈籠 応永二』(1395年)という銘文があり、この地方最古の石灯籠であるという。その竿と台座部分が当時のもので、笠、火袋は後でつけられたものという。
 隣に大きな地蔵が建つ。これは風祭の紹大寺に祀られていたものが明治11年にここに運ばれてきたもの。紹大寺は黄檗宗(おうばくしゅう)の寺のため、中国明様式の顔立ちである。
正眼寺 曽我堂
本堂左手から墓地をぬけて山を登ると曽我堂がある。なかには木造地蔵菩立像2体が祀られているという。これは曽我兄弟を写したものといわれ、うち一体の胎内から地蔵阿弥陀観音混合印仏が発見され、「康元元年(1256年)」の年号が記されているという。
 境内には、曽我五郎が病回復の証に槍で石を突いたという言い伝えのある石や、江戸前期に、冬木屋上田家が建立した供養塔などがある。
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正眼寺のあった付近の街道風景(湯本方面を見る)

当時の写真は、「箱根彩景」(箱根町立郷土資料館)による。
道祖神
正眼寺を出てしばらくすると、左手に2つの道祖神が並んでいる。このあたりから、湯本茶屋村に入ることになる。
右が稲荷型道祖神で、左が手を握り合っている双立型道祖神である。
ここの坂を登り切ると、少し平坦な道が続く。
一里塚跡
村の中央に立場、高札場があったという。右手に一里塚跡の石碑と案内板が建っている。江戸から22番目の一里塚である。

この同じ一角に「白川洗石生家跡」の碑が建っている。
白川洗石は、江戸時代に始まった手彫りの彫り込み象嵌技法に、明治25年ごろ『糸のこミシン引き抜き木象嵌(もくぞうがん)技法』を開発し量産加工することに成功、その普及に努めたという。
これは、寄木細工とともに、有名な箱根の伝統工芸である。
旧道入口
右手に下る道が見え、そこに箱根旧道入口という案内板が建っている。
ここでは「、延宝8年(1680年)の舗装、255m続く」という簡単な説明だが、これから先、石畳の歴史や構造など詳細な説明が各所で出てくる。
馬の飲み水桶・・・・この辺りは「馬立場」といって馬子が一休みしたところ。
石畳
箱根の最初に出会う石畳であり、樹木のした、斜面に造られているため結構滑りやすくなっている。
猿沢と猿沢橋
途中小さな沢が流れ、上を見上げると県道とその上に箱根新道の橋が見える。このあともこの3つの道路が交わりながら箱根を登ることになる。
県道と合流
坂の最後に福寿院ののぼりがあり、すぎると県道-自動車道と合流する。旧東海道の石標があり、ここからは、この自動車道を歩くことになる。
400mほど進むと、右側から来る登り道と合流するが、その前、右側に、近くのホテルの案内板とともに「観音坂」の石碑がたつ。
この辺りは、古堂という地名で呼ばれ、板橋にある板橋地蔵尊の地蔵堂がここにあったという。永禄12年(1569年)に遷座したという。
葛原坂
そこからほぼ真っすぐに伸びた坂道を進み、左にカーブしている地点に葛原坂の案内板がある。

「須雲川村境にあり、登り一町ばかり」と新編相模国風土記に書かれている。
視界が開けてくる。
須雲川集落
二之戸橋をすぎると、右手に初花の滝碑があり、その先左手の岩崩れ防止網の前小さな道祖神がある。ここから須雲川の集落に入る。
                街道風景  
駒形神社
左側の急な斜面に、須雲川村の鎮守で駒形権現社として知られた駒形神社の鳥居が見える。、石段の途中に文政2年(1819年)建立の木食勧正の名号碑がある。
木食勧正は、米穀を断ち木の実を食べて諸国を巡って修業する僧=木食上人のうちの一人で、文政年間(xxx)には、特に関東地方で加持祈祷を行って、雨乞い、病気平癒などの活動で多くの信者を集めた。
参道には、庚申塔などの石塔が並んでいる。

左の二つ・・・宝暦2年(1752)と享和2年(1802)の供養塔
鎖雲寺
すぐ先、左に霊泉の滝という小さな滝が流れ、石段を登ると鎖雲寺である。[江戸の初めに早雲寺の山内にあった一庵を引いて建立された]という。
 浄瑠璃「「箱根霊験躄(いざり)仇討」で知られる飯沼勝五郎とその妻・初花のお墓があり、詳しい説明板もある。
弘法のイボ取り水
須雲川に架かる橋を渡って、ここからまた急なな杉木立の坂道を登るという気構えを新たにする直前、すぐ右に、石碑が建っている。
ガードレールの向こう側の灌木に隠れるように苔むした大きな石がわかりにくい。中央のくぼみの水をつけるとイボが取れるという弘法伝説である。

橋の手前、左側には須雲川自然探勝歩道の案内板がある。
          橋から下流の眺め
女転し坂の合流地点付近
県道は橋をわたると石碑を右に見て右に登り箱根大天狗山神社の門を過ぎて左へ急カーブして進むが、旧東海道は、橋を過ぎてすぐ斜面を登っていたという。 
箱根道の難所の一つで馬に乗った婦人が落馬して死んだことから「女転し坂」と言われるようになったという案内板が県道との合流地点付近に立っている。
割石坂
しばらく進むと東京電力発電所を過ぎた後、右手にはいる道標がある。
「割石坂  曽我五郎が富士の裾野に仇討に向かう時、刀の切れ味を試そうと路傍の巨石を真っ二つに切り割ったところ」という案内板があり、この石段を登る。
ここからは、須雲川自然探勝歩道と同じ道をすすむことになり、畑宿まで1000mと記されている。
当時の石畳
この坂の途中から当時の石畳が残されている。





県道に合流した後、旧箱根街道とかかれた標柱のところで、県道と別れ左手に坂を下る。
大沢川を渡る
下った所が小さな沢で簡単は橋がかかっている。須雲川の支流で、大沢川である。、
江戸時代寛政10年(1798年)に土橋から石橋に変わり、小田原藩が改修することになっていたという。
この川の上流には箱根サンショウウオが棲んでいるという。
大澤坂
沢を渡ると大沢坂の石碑と案内板が建つ。説明板には「幕末の下田奉行の旅日記に『大沢坂または坐頭転ばしともいうとぞ、このあたり、つつじ盛んにて趣殊によし』と書かれている。当時の石畳の道が一よく残って入る坂」という。
                      
 
 石畳についての詳しい説明板 がある。

  <石畳の構造>           <斜めの排水路>
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畑宿-県道との合流地点
県道に出ると畑宿にはいる。江戸時代の宿駅制度上では宿場ではなく、小田原宿と箱根宿の中間にある「間の村」として賑わった。
有名な箱根細工のうち、挽物=ろくろ細工は戦国時代からら行われており、寄木細工は元亀年間(1570-73年)に石川仁兵衛によって始められ盛んになったという。
合流した先左側に風化した道祖神がある。
畑宿茗荷屋本陣跡
集落の中ほどに本陣跡がある。畑宿の名主で茗荷屋畑右衛門の屋敷跡で、下田領事ハリスが江戸に入る折の関所でのエピソードや、この庭園を鑑賞した話が説明板にある。
駒形神社
その先右側の奥まった石段のうえが駒形神社で、箱根山の地主神・駒形大神を勧請して、駒形大権現と崇めたという。創建の年代は不明・。 
境内には照心明神、菅原神社や太子堂が、それぞれの詳しい案内板とともにある。
庚申塔
県道は急カーブで右に登って寄木会館に行くが、カーブの手前の右の斜面に庚申塔が建つ。
左から2番目の庚申塔は、万治元年(1658年)の銘があり、箱根で最も古く、また、笠付角柱という形は神奈川県下で最も古いものという。
守源寺
旧東海道は、右にカーブせずにまっすぐに進む。
箱根旧街道の説明板などが立ち並ぶ手前右側が守源寺である。寛文元年1661年)建立という。
畑宿一里塚
ここで初めて旧街道に関する詳しい説明がある。それによると:江戸幕府は元和4年(1618年)旧来の湯坂道(湯本−湯坂山−浅間山−鷹ノ巣山−芦ノ湯―元箱根)を廃して、湯本三枚橋から須雲川沿い畑宿をとおり二子山南を経て元箱根に至る古い山道を広げて街道を作った。
延宝8年(1680年)幕府の手によりはじめて石畳が敷かれた。現在残っている石畳は、和宮内親王が徳川家茂のもとに降嫁されるにあたり、幕府が時の代官に命じて文久2年(1862年)に改修工事を完成させたものといわれる。
平均約3.6mの道幅の中央に約1.8mの幅に石が敷き詰められていたという。
今の畑宿一里塚は、発掘調査からももとに、直径が30尺(約9m)の円形に石積を築いて、礫を積み上げて復元したものという。

坂を登り切ると、箱根新道の上に石畳の橋が架かっているところを通る。なんとなく奇妙な場所ではある。
西海子坂(さいかちざか)
その先が、最初の難所である2町(約220m)余りの西海子(さいかち)坂となる。石畳の構造の説明板があり、脇に西海子坂の標石(登り2町)が建つ。
東海道名所記には「あまたの人 みな馬よりおりて 歩にてゆくもの 術ながりてあせをながし とち涙をこぼすもの多し」と書かれている。、・・・馬からおりて歩いて登るのだが、登る手だてもなく、トチの実ほどの涙をこぼしている・・・という。
橿木坂(かしのきざか)
県道に出てしばらくは七曲りのカーブの歩道を歩くことになる。バス亭を過ぎると、左に登る石段があり、登り口に標石(登り5町)と説明板がたつ。それによると、崖にカシの木が生えていたので坂の名がついたという。東海道名所日記には「けわしきこと 道中一番の難所なり。男、かくぞよみける。『橿の木の さかをこゆれば くるしくて どんぐりほどの 涙こぼる』」と書かれている
猿滑坂
石段を登り切ると、左に進み雲助の開設板をみて、しばらくはなだらかな道を進む。
急な坂道になって、猿滑坂-登り1町余り-の標石と説明板がる。猿でもたやすく登れないという坂で、県道で分断
されている。
追込坂
県道を横切り急な石段をのぼりまた合流してしばらく進むと、追込坂(登り2町半余り)の標石と説明板がある。甘酒茶屋までの緩い坂道の名前という。
笈ノ平
親鸞聖人が国府津の真楽寺での布教を終え文暦元年(1234年)に上洛する時、弟子の性信房と蓮位房の2人とここで別れたという。
「やむ子をばあづけてかえる旅の空 こころはここに残しこそすれ」という石碑が建つ。
甘酒茶屋と箱根旧街路資料館
県道を進むと、古い農家を移築して箱根町が管理する資料館と、甘酒茶屋がある。資料館には箱根街道や旅に関する物の展示やクイズ形式による説明など興味深い展示がある。
甘酒茶屋は、箱根八里の中で13軒あったうちの一つで、営業しているが外部を改修中であった
赤穂浪士の一人の神崎与五郎が江戸に向かう途中に馬子の丑五郎に難くせをつけられ詫証文を書いて穏便に済ませたという物語の舞台になっている。
実際は三島宿での話で、証文を書いたのは大高源吾で馬子の名は国蔵だったという。
於玉坂(おたまざか)
旧東海道は笈ノ平から茶屋の先までは、今の県道の南側を通っていたらしいが、茶屋の北側にある自然探勝歩道を進んでいくと、於玉坂の標石が右手に見えてくる。登り2町半余り
元禄15年(1702年)江戸に女中奉公に出ていた伊豆大瀬村の農家の娘お玉が関所破りでこの付近で処刑されたため、お玉坂となったという。近くにお玉ヶ池もある。
白水坂(しろみずさか)
県道に出て旧東海道に入る所に、大きな史跡箱根旧街道と刻まれた石柱と旧街道の説明板がある。ここからまた本格的な石畳が始まる。

右側に白水坂登り12間余り22mの標石がある。小田原攻めの際、秀吉の軍勢がこの坂にさしかかった時に北条氏の守備隊が二子山の中腹から多数の石を落したため、秀吉軍は小田原城を見ずに引き返したことから「城見ず坂」と伝えられている。
天ヶ石坂(てんがいしざか)
しっかりと整備された昔ながらの石畳の道を楽しみながらしばらく行くと、右側に大きな石がみえ点前に天ヶ石坂(登り7間余り13m)の標石がある。石の形が「天蓋」に似ていることからよばれるという。
この石が当時の畑宿と箱根宿の境界石であったという。
八町平
石畳が終わり開けた平坦な場所に着く。八町平と呼ばれ、この道の最高地点805mという。
箱根馬子唄の石碑が建ち、奥の小道をでると二子山が見える。
権現坂
ここから芦ノ湖畔の箱根権現一の鳥居までの下り坂となり、距離がおよそ8町(約900m)あるので、八町坂ともよぶ。
途中、車道と交差するがそこに、箱根旧街道の指標とともに、石柱が建つ。
「六地蔵菩薩江之道」と刻まれており(享保16年(1731年)建立)、ここは、北の精進池のほとりに鎌倉時代に建立された六道地蔵や、曽我兄弟の墓(伝)を通って、湯坂道に向かう分岐でもあった。
東海道の旅人は往復1里ほどある道をしきりにお参りしたらしい。
下ってすぐ先の鳥居のところに権現坂の標石と説明板がある。
いよいよ目前に芦ノ湖が見える。
ケンペル・バーニーの碑
さらに下って歩道橋を渡ると芦ノ湖畔最初の杉並木となる。
ドンキン地区杉並木という。
その先にケンペル・バーニーの碑・・2基がが建つ。
説明文のよると、ドイツの博物学者ケンペルはオランダ通称使節の一員として日本に来て、元年禄(1691年)とその翌年箱根越えをし、箱根の美しさを世界に紹介した。バーニーは、この地に別荘をもっていた英国の貿易商で、大正11年にケンペルの著「日本誌」の序文を引用し『自然を大切にするように』と碑を建てた。その碑が1基と、もう一つは、二人の功績をたたえる碑である。
賽の河原
国道一号線に出ると、箱根神社の一の鳥居がある。そこに石仏や宝篋印塔が並らんでいて、賽の河原と呼ばれる。
「賽の河原」とは子供が死んだ子供が行くといわれる冥途の三途の川の河原で、子供は親の供養のため石を積み上げて塔を作ろうとするが鬼が来て絶えず崩してしまう。そこへ地蔵菩薩が来て子どもを救済するといわれる。
江戸時代には、この湖畔に130基もの石仏・石塔が並び山側には5つの地蔵堂があったという。
身代わり地蔵
山側の成川美術館の入り口からすぐの国道脇に石仏、石塔が建ち、奥の石窟に阿弥陀像がある。説明板によると、宇治川の先陣争いで名高い梶原景季が箱根を通りかかった時、父の景時と間違えて切りつけられたが、この地蔵が身代わりになって景季を救ったという伝説がある。
芦ノ湖の風景
身代わり地蔵の前の湖畔から見た芦ノ湖…箱根神社の鳥居と富士山がくっきりと見えている。
一里塚・・・・葭原久保(よしわらくぼ)の一里塚
しばらく進むと歩道橋があり、急東海道はそこから左にはいって杉並木となる。手前左側に一里塚の石碑と説明板がある。
この一里塚の塚上の木は、通常の榎(えのき)ではなく、檀(まゆみ)が植えられていたという。江戸から24番目。
杉並木
吾妻岳地区杉並木で国道と平行して約650m続く。
杉並木の入り口には石碑や説明板がたち、並木の中の遊歩道もよく整備されており、箱根杉並木を代表する場所である。

東海道の松並木は慶長9年(1604年)から植えられており、樹齢は400年余りなのに対し、箱根杉並木の樹齢は最大で350年ぐらいという。
湿度の高い芦ノ湖畔では、松並木の成長おもわしくない理由で杉を植えるようななった契機が、寛永11年(1634年)の徳川家光の上洛の時の東海道整備の時ではないか、と田代氏は推測している。
箱根八里歌碑
杉並木が終わって国道を横断し、広い駐車場があるが、端に「箱根八里の歌碑」が建っている。<明治34年滝廉太郎作曲、鳥居忱(まこと)作詞>

その先の新しく整備された新谷町地区杉並木を通って関所に向かう。
箱根関所跡−江戸口御門
ここに関所が設置されたのは、元和5年(1619年)と伝えられ、明治2年(1869年)まで続いた。
現在の関所及びその周辺は、全く新しいたたずまいを見せている。
伊豆の韮山町の江川文庫から、江戸末期に行われた箱根関所の解体修理に報告書が発見され、それをもとに京口御門、江戸口御門をはじめとして大番所などの各建物の復元や、千人溜まりや石垣などの構造物の修復が平成19年春完成し、往時の姿によみがえった。クリックすると拡大
三島町との境から見た小田原町/関所跡方面
関所跡から国道へ出て右折すると、「小田原町」となる。
その先の箱根登山鉄道のバス停/営業所の付近から、三島町になる。
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当時の写真は、「箱根彩景」(箱根町立郷土資料館)による。
 散策日 2008年12月12日    箱根湯本―箱根町
 参考   「あるく・見る 箱根八里」     田代道彌
    「箱根路 歴史探索」            岩崎宗純