・・・・・・・・・・・・・・   日本橋から下諏訪宿まで    甲州街道の旅   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・


6.猿橋-笹子


          地図: 猿橋ー大月  ②大月ー猿橋  ③初狩ー笹子

 

猿橋駅から北に向かい、三島明神の西にある阿弥陀寺からスタートする。
 

阿弥陀寺  一里塚跡標柱
 
    阿弥陀寺と彫られた大きな寺標の脇に、石塔が並んでいる。
その後ろ側に標柱がたっており、一里塚跡と書かれているようだ。殿猿橋一里塚または殿上村一里塚といわれた。

国道から分岐 
 
   右手の山梨中央自動車の建物の先を右手にはいり、のどかな街道歩きとなる。
 
右手奥に、岩殿山が見えて来る。
この先、大月まで 存在感のある景色である。

駒橋発電所 
 
    桂川の左岸にある東電駒橋発電所に水を送る巨大な送水管があらわれる。 明治40年(1907)建設当時は日本最大の水力発電所だったという。

 送水管の脇にある坂道を上っていく。

中央線踏切
 
   中央線の踏切を渡る。
この付近に駒橋の関所があったという。 


 国道にぶつかるが、すぐに、右に分かれて進む。
 駒橋宿となる。

駒橋宿
 
   駒橋宿は、本陣、脇本陣はなく 旅籠4軒の小さな宿だあった。
  右手に厄王大権現社がある。
角に駒橋宿の標柱が立っている。

厄王大権現社
 
   境内の奥にいくと、崖下に中央線が走り、その先には岩殿山がみえる。 










 寛政5年(1793)の秋葉常夜塔があり、横に、丸石を載せた道祖神がある。
 他では見ない形である。

宿の景色 
 
 <旅籠 橿屋跡  
     

少し先で国道から右手に分岐していく。    

国道から分岐
 
 少し先、左手に北京亭という建物があるところで、旧甲州街道は国道から右手に分岐していく。  
その先に岩殿山「がそびえている。

 国道をそのまま進むと、三嶋神社があるので先に立ち寄ることにした。
 

三嶋神社
  
 大きな赤い鳥居のある参道をすすむ。
 平安のはじめこの地方が開拓され、村落が生まれつつある頃、大同元年(806)、伊予国「愛媛県)大三島の大山祇神社より勧請されたという。
 大月の総鎮守で、かって境内にけやきの巨木があり、これが大槻と呼ばれていたことから、大月の名ができたと言われている。

岩殿山
  
   一旦分かれた旧街道に向かうため、神社前の道をまっすぐ北に向かう。 正面に岩殿山がそびえる。
中央線に沿って西にすすみ、大月駅前を通って、今の平和通りを進み、国道に合流する。

 <大月駅前>       <国道に合流>   

このあたりから 大月宿となる。

大月宿  本陣跡碑
 
 大槻宿は、本陣1、脇本陣跡2、旅籠2の小さな宿であった。
市役所のさきに、明治天皇召喚所の碑が立っているところが、溝口本陣のあと。

      近くのビルの燕の巣




   

大月追分 








 まもなく桂川に架かる大月橋の手前で、富士山方面に向かう富士道との分岐点の大月追分となる。
 江戸時代に盛んになった富士山を訪れる「富士講」のルートである。
ここから甲州街道から分かれ南に向かい、富士吉田市の上吉田の浅間神社で祈願し、富士山頂を目指した。


 津島牛頭天王社の祠、馬頭観音、文政13年(1830)建立の常夜灯がある。
 




その隣には、3つjの道標が並んでいる。
  右側:「右甲州道中 南無阿弥陀仏 左富士山道」、
  中央:「右甲州道中 左ふじミち」(文久2年(1862))、
  左側:「右甲州街道 左富士街道」(昭和2年)

大月橋
 
   大月橋から眺めた桂川の上流。 
ここからは、甲州街道は笹子川に沿って西に進む。

橋の西側には、「国道20号:東京から95km」の標柱がある。



 まもなく街道は右に向かう大きなカーブとなるが、その左手に下花咲宿の標柱と石塔群があり、その右手に一里塚跡がある。

下花咲宿と一里塚跡
 
 花咲宿は下花咲宿と上花咲宿の2つの宿で一つの宿場の業務を担い、月の前半15日を上花咲宿、後半15日を下花咲宿が勤めた。
下花咲宿は本陣1,脇本陣2,旅籠22軒、長さは4町16間で、比較的中規模の宿であった。
 
<馬頭観世音(文字と彫り)>  
                         <芭蕉句碑> 天保4年(1842)建立
     しばらくは
      花の上なる
          月夜かな




<徳本念仏塔、庚申塔、など>








<復元された一里塚跡>    <宝暦7年 花咲宿絵図>
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宿の景色 
 
    
 
本陣 星野家
 建物の前に「本陣」の石碑と、「明治天皇花咲御小休所」の石碑がある。
星野家は 本陣とともに庄屋、問屋、名主を兼ねていた。

上花咲宿 
 
   まもなく大月インターがみえるが、この辺りから上花咲宿となる。
   本陣 1,脇本陣2,旅籠13軒。
街道の名残を留めるのは、インターの工事の際に、移築されたらしい、大きな自然石に刻まれた道祖神が建っているのみである。

インターのガードしたをくぐったすぐ先の左手に、「尾曽根峠」の道標がる。





 南の山の方に向かっている道がある。
甲州街道が整備される前まで、武蔵と甲斐国を結ぶ尾曽根峠越えの道で、「鎌倉街道」と呼ばれてた。

 道の景色
 
    真木橋で、笹子川を渡る。


親鸞上人の名号碑がある。

その先に真木諏訪神社があり、立ち寄る。




真木諏訪神社
 
    真木諏訪神社の創建は不明。古くから信濃の諏訪大社の分霊が勧請され、真木村の産土神とし、当初は狩猟の神、その後牧場の守護神、そして中世からは武神として信仰されてきたという。

 現在の本殿は、文政10年(1827)に再建されたもので、「社殿全体には禅宗の高僧の伝説や道教の神仙などを模した彫刻や、龍や獅子、植物などの縁起の良い彫刻施されている。」(大月市 HP より)
  <本殿の彫刻と説明板>
(各々 クリックすると拡大)クリックすると拡大

 
 
    

中央線南側の道を進む 
    国道を進んで「源氏橋」で、国道をはなれて、笹子川をわたり、中央線を渡る


しばらく中央線に沿って進むと、「甲州砕石」の事業所があり、そのまま敷地の中を進んで行くような気配である。


その中を道なり進んでいくと、ようやく一般道となり、民家が現れる。
 
石仏群
 
  左側に、石仏群がある。すぐ先が、中央線の第7甲州街道踏切である。  

聖護院道興歌碑
    渡るとすぐ右側に、細長い石碑が立っている。
 道興は、関白 近衛房嗣の子で、仏門に入り大僧正となって総本山聖護院の門跡を勤め、諸国を行脚してその様子を「廻国雑記」に記している。
 この地を通るときに詠んだ歌:
  「今はとてかすみを 分けてかえるさにおぼつかなしやはつかりの里」
 (高さ135cmの自然石柱で文化3年(1806)建立)

下初狩宿
   国道20号線と合流し、下初狩宿にはいる。

 下初狩宿は、本陣2, 脇本陣2,旅籠12軒 で、問屋業務は、この先にある中初狩宿と半月交代だった。



 両側には、当時の面影野残る建物が続く。

本陣 奥脇家
 
    本陣の建物は、慶応年間(1865~68)の建築という。

  斜め向かいが、脇本陣大野家。







 
 下初狩中と刻まれた廿三夜塔。傍らに明治40年(1907)建立の常夜燈がある。
 
中初狩宿
 
   すぐに中初狩宿となるが、下初狩宿よりは、新しい軒並みが続く。
 
中初狩宿は、本陣1, 脇本陣1,旅籠25軒であった。

首塚
 
   左手山側に首塚があるというので、少し寄り道になるが行くことにした。
 バス停唐沢橋の手前に小さな標識があり、左手に向かう。




 中央線のガードをくぐり、(小さな川が流れている)奥に進むと、標識がある。、林の中に広場があり、「小山田左兵尉信茂顕彰の碑」と刻まれた石碑が建っている。
 小山田氏は、都留郡を支配した豪族で、武田氏滅亡後、捕らわれて、甲斐善光寺で処刑された。
 
道の景色・石仏石塔群
    国道に戻ると、左側の小高い石垣の上に、多くの石塔石仏などが並んでいる。
 馬頭観音、地蔵尊(正徳元年(1711))、秋葉常夜燈など、道路整備に伴って集められたものだろう。

船石橋で、笹子川を渡る。

 船石碑
 
  橋を渡った左手に 大きな石碑が建つ。親鸞上人が舟形の石に座って説法を行った、という。
その石自体は、明治の水害で流された。

白野一里塚跡
 
  中央線が近づいてくるところ、滝子川という小さい川が流れており、滝子山登山道がある。
 坂を登るとすぐ左の広場に、双体道祖神があり、「一里塚跡 白野」の標柱が建っている。

  国道に戻ってすぐ国道から分かれ、西に進んでゆく

白野宿

    右手に中央道が走る山沿いの道の両側に、家がならぶ白野宿に入る。
本陣 1, 脇本陣 1,旅籠4軒で、阿弥陀海道宿と黒野田宿と三宿で一宿とし、問屋業務は月の内23日からも晦日まで勤めた。  

旅籠 よろず屋跡→






 宝林寺への参道をはさんで、左右に本陣跡の今和泉家、脇本陣跡の天野家があったという。



<宝林寺>

永正6年(1509)開基、天文元年(1532)建立と言われている。


<子神社>

国道に合流御、右側に子神社が見える。白野宿の鎮守という。






<国道から右へ分岐>
石井工業という工場を右折して、中央線のガードをくぐっていく。
ガードしたに「伝説 立板坂の立石」という標柱が立っているので、
少し戻って探す。

 
立石坂の立石
 
  石井工業の白い建物の奥に進むと、「鬼の立石」と書かれた標識が立っている。
その先に、大きな大きな自然石に「百八十八番供養塔」と刻まれた石塔がある。
、 
「立石」そのものは、見つからないで帰ってしまったが、調べると、更に奥の方にそれががあったらしいことがわかった。 

原地区
 
    ガードしたをくぐって中央線と並行して西に進む。
山の斜面に出来上がった街道である。
火の見櫓と公民館がある。
<旧家>  南側:道から相当下がっている。
 
稲村神社
 
    まもなく杉の大木がに囲まれた稲村神社がある。
 鳥居の前の由緒には 「吉久保 原 の氏神 嘉暦2年(1327)創建と古棟札に伝わる」 とある。

 境内には、石垣の上に「道祖神」と刻まれた大きな石塔がある。
「男根女陰両体道祖神」と説明板にあり。


親鸞上人念仏塚の旧跡 
 
 神社の向かい側に 石塔群がある。
「毒蛇済度舊蹟」 「親鸞聖人念佛塚」と刻まれた大きな石塔が2つと、その他色々な石仏がある。

この地に立ち寄った親鸞上人が 毒蛇になった葦ヶ窪の地頭の娘「よし」を、成仏させたという。

葦ヶ池跡
 
   神社の先は、中央線で遮られており「この先行き止まり」の看板があるところを左折する。

 左側に 「葦池」と刻まれた大きな石塔がある。
毒蛇となった娘が棲みついたところという。
 
阿弥陀海道宿
 
 笹子川橋を渡ると、笹一酒造の大きな建物がある。このあたりから阿弥陀海道宿となる。

 本陣1,脇本陣1,旅籠4軒であった。
前の白野宿と、この先の黒野田宿の3宿で合宿となり、宿業務を行っていた。
 行基が自作の阿弥陀如来像を安置した阿弥陀堂が、明治時代まであり、それが宿の由来となったという。

笹子駅
 
   笹子駅に到着。 
駅前広場に「笹子隧道記念碑」という大きな石碑が建っている。笹子隧道は明治29年(1896)に着工、明治35年(1902)に完成した。全長 1,656mは、当時東洋一の鉄道トンネル、という。
   
   
  散策日     2022年5月18日 JR 猿橋駅―笹子駅
  参考