知立(池鯉鮒宿) - 熱田神宮前(宮宿)

   地図①知立-富士松
 ②富士松-前後 ③前後-鳴海  ④鳴海-本笠寺
         ⑤本笠寺-神宮前 

 宮宿=七里の渡しを目指すため、宿泊していた東岡崎を早めに出発し、知立駅に向かった。

都築屋前から出発
 知立駅から北に200m程進み、旧東海道に出る。昨日の到着地点の交差点を左折して、、都築屋前から西に向かう。この右側には脇本陣があったという。
 200m程先のT字路を右に行くが、そこには目新しい石柱があり、「鳴海」の方向を示している。。

知立古城の跡
 左に公園があり、江戸初期の屏風絵が説明版として立っている。

知立神社の神官 氷見氏の居城で、桶狭間の合戦後に織田軍により落城し、のち 刈谷城主水野忠重が信長を迎えたという。
江戸初期には将軍上洛用に旅舎とされたが、元禄期の地震で倒壊し、再建されなかったという。
(「池鯉鮒宿見て歩きマップ」知立市歴史民俗資料館より)

了運寺
 突き当りに了運寺がある。鐘楼門がひときわ目立つが、知立神社の別当の神宮寺の一坊として開かれたのが始まりという。西に向かうと次の角に 「元祖あんまき 小松屋本家」と分厚い板に彫られた看板のある店がある。
その前に、あまり見かけない形の屋根のある常夜燈がある。池鯉鮒大明神とある。-弘化4年(1847)

総持寺跡
 その先国道を地下道で渡るが、入り口右側の空き地の隅に「総持寺跡大イチョウ」という説明版がある。それによると、「元和2年(1616)ここに玉泉坊を創建、貞享3年(1686)総持寺と改称、明治5年(1872)廃寺となり・・・・その後、西町新川(知立神社のすぐ先に)再建された。」という。。

知立神社入り口
 国道を過ぎると道は北に向かう。
少し先の右に入る道に「延喜式内知立神社」という大きな石柱が立ち、入るとすぐ両側に安永7年(1778)の常夜灯がある。
その先が知立神社である。
 境内に入って、すぐ正面に歴史を感じさせる「多宝塔」がたち、南側(右)に大きな鳥居が立ち、本殿は左の奥にどっしりした姿を構える。

知立神社
 夏の暑い盛りの朝方で、参拝者はおらず、たまたま宮司さんがおられて神社の話を聞くことができた。さらに数冊の神社の略記や、考察・七不思議など数冊の小冊子をいただいた。
 社伝によれば、景行天皇の時、日本武尊が東国平定の折建国の祖神=四神を奉斎したのが始まりという。
式内社で、三河国の二の宮で、池鯉鮒大明神と称され、弘長元年(1261)には正一位に列せられた。江戸時代には、三島大社・熱田神宮とともに「東海道三大社」に数えられた。
知立神社 多宝塔
 案内板によると 「社伝によれば、嘉祥3年(850))天台宗僧円仁が神宮寺を創立し、多宝塔を建立した。後知立神社の別当寺となった。現存する多宝塔は、永正6年(1509))重原城主山岡忠左衛門が再建した。三間二層の塔であり、正面に桟唐戸を配し、左右には連子窓、他は嵌板張りである。
屋根は柿葺で、塔高は約十mあり、室町時代の建築である。明治の神仏分離令の際には、祀られていた愛染明王を総持寺に移し、相輪を除き、瓦葺にかえ、「知立文庫」と名も替えて、取り壊しの難をのがれた。 知立市教育委員会 」とある。
知立神社 石橋
 本殿に向かう途中に、柵で囲われた太鼓橋がある。
説明版によれば、「この橋は、すべて花崗岩で組まれ、全長6.6m、幅2.4mで、厚さ12cmの石の板19枚が並べられている。欄干石柱に享保17年(1732)と刻まれている。
 東海道名所図会には、「石橋は神薙(ひもろぎ)の外にあり、池を御手洗という、片目の魚ありとなん」と書かれている・・・・」とある。

総持寺
 神仏分離令で廃寺となったのち、昭和初めにここに再建された。
 境内の一画に「徳川秀康之生母 於萬之方誕生地」と刻まれた石碑が立つ。
 家康の側室「お万の方」の生誕地とされている。父は知立神社の神主兼知立城主氷見貞英(或は吉英)で、母は刈谷城主の娘であったという。

道の景色
逢妻川を渡ると刈谷市に入る。しばらくすると、国道1号に合流する。
     

刈谷一里塚
 交通量の多い国道の左側の歩道を数百m進む。
一里山歩道橋があり、南側の橋脚の根元に小さな石柱が立っている。
一里塚があったところで、この地には松が植えられていたという。

この先で、旧東海道はわずかな区間であるが国道から分岐しているので、ここで右側の歩道にわたる。
次の合流地点では、再び歩道橋を渡り、南に分岐していく。

十王堂
 歩道橋を降りて、国道から分かれ、ここからしばらくの間は、旧東海道の面影の残る静かな道を歩く。
 すぐ右側の普通の民家風の建物のアルミの格子窓の中に、馬頭観音などの石仏が安置されている。

道景色-長屋門
 左側には 大きな長屋門のある民家がある
このあたりから国道1号線と並行して進む静かな道が続き、所どころに古い軒先のある民家が点在する。ゆっくりとした時が流れる雰囲気で、暑さも忘れるぐらいである。

洞隣寺
 少し先、左手に洞隣寺がある。
 天正8年(1580)開山、開基は刈谷城主水野忠重とされる。入り口には寛政8年(1796)の年号のある常夜燈が立つ。

いもかわうどん
 すぐ先の角に、小さな石の祠と常夜燈があり、その手前に「旧『芋川』の地 = ひもかわうどん発祥地」と記されている木柱が立つ。
 その脇には説明石碑があり、「東海道の紀行文にいも川うどんの記事がよく出てくるが、この名物うどんは{平うどん}で、東に伝わって{ひもかわうどん}となった。」としている。


道の景色
      

堺橋
名鉄富士松駅を左に見てさらに進み、国道1号線を地下道でくぐる。
間もなく、境川に架かる境橋を渡る。三河国と尾張国の境で、慶長6年(1601)伝馬制度がもうけられてほどなく、橋が架けられ、中程より西は板橋、東は土橋で、長さは約24m、幅4.5mという。その継ぎ橋は何度か流され、明治になって欄干付の土橋となったという(説明板)。

 橋を渡ると土手の道路脇に、自然石に刻まれた烏丸(からすま)と称された藤原光弘の歌碑(境橋の継ぎ目を詠んだ)と説明板がある。

道の景色

すぐに伊勢湾岸道をくぐり国道と合流する。
数百m先で、阿野一里塚の看板を見ながら、左に分岐する。
  
豊明駅前交差点

西蓮寺                    阿野一里塚のサイン
   

阿野一里塚
 左右両側に塚が残っている一里塚であるが、小公園となっており、塚自体も小さくなっている。   右側→

松並木の名残
 緩やかな坂の先に大きな松の木が見える。豊明小の前に説明板があり、「松並木の一本で、市内で数少ない名残の松である。」と大事にしている様子。

 すぐ先に、「三田皮フ科クリニック」の大きな看板のある建物がある。
江戸時代から続く医者の名家であるという。

道の景色
 
名鉄の前後駅前交差点を過ぎて国道1号線と合流するまで、道標や石碑をみながら1.5kmほど進む。

  さなげ道 道標

 前後神明社の常夜燈            寂応庵跡石碑
   

桶狭間古戦場跡
 国道と合流したあと、名鉄のガードをくぐった先の左手に、桶狭間古戦場跡の公園がある。
 永禄3年(1560)織田信長が今川義元の陣地を急襲して打ち取った所と伝えられる。
→ 七石表(しちせきひょう)と呼ばれる今川義元の戦士した場所を示すもっとも古いもの。明和8年(1771)尾張藩士により建てられた。
 弔古碑(文化8年(1809)に建てられた桶狭間の戦いを回顧している)や、小さな塚に明治5年建てられた「義元の墓」もある。

 向かい側の高徳院の斜面には石仏が並び、その中に円筒形の「徳本の名号碑」がある。
徳本行者がこの地を訪れて戦死者を弔うために建てたもの。(文化・文政のころ-1804~1829)

間宿・有松の入り口
 しばらく行ってから国道から分岐-「大将ヶ根」のY字路を右に入る。100m程先右の地蔵の祠のの先には小さな橋があり、そこから間宿の有松に入る。

しばらく行くと延命地蔵尊の祠がある。このあたりから、古い趣のある町並みが続く。


町並み
    
 白壁-山車会館              明治中期の建物を改造-うどん屋(昼食)

有松絞の開祖の石碑
クリックすると拡大 すぐ先左の駐車場の脇に、広重の絵「五十三次 鳴海-名物有松絞」が掲げられている。


 その奥には、有松絞の開祖・竹田庄九郎の石碑が立つ。
説明版によれば、「有松絞は尾張藩の移住奨励策により、慶長13年(1608)知多郡阿久比庄より移住してきた竹田庄九郎が創始したといわれる。築城工事で名古屋に来ていた豊後国のものが着用の絞染衣類にヒントを得て、九々利染の業を考案したという。・・・寛永18年(1641)には二代藩主徳川光友に馬の手綱が献上された。その後二代庄九郎の時に三浦絞と呼ばれる新しい染めが開発され、藩の保護もあって急速に発展した。」という。

服部家住宅
 向かい側には、蔵と主屋が連なる「服部家住宅」がある。(屋号=井桁家
 )有松の絞問屋としての代表的な建物という。
蔵は、土蔵造りで腰に海鼠壁を用い、主屋は、塗篭造(ぬりごめづくり)で卯建(うだつ)がある。
商い中の看板が出ている。

 その先に「有松町並み保存地区の説明版」がある。
「天明4年(1784)の大火で、有松村ほとんどが消失した。村の復興にあたり、建物は従来の茅葺を瓦葺にし、壁は塗籠造り、2階の窓は虫籠窓に改め、当時の防火構造で作られた。豪壮な商家が建ち並ぶ現在の町並みは、この時に形成された。
商家の建物は、中2階建切妻平入りで、1階の前面についている半間の土庇の下は、昔は当時の店頭販売の為に大きく開かれていたが、今は格子がついている・・・」

竹田家住宅

岡家住宅                小塚家住宅
   

有松一里塚
 商家の家並みのはずれには、有松天満社の参道入り口に天保13年(1842)建立の常夜塔が建つ。
 その先には、明治6年(1873)に有松で制作されたという、神功皇后のからくり人形を乗せた山車が納められている山車庫がある。

 名古屋第二環状道の高架したに新しく復元された一里塚がある。

鳴海宿入り口
 数百m先の平部北交差点の先に、大きな常夜灯がある。
鳴海宿の東の入り口で、「平部(ひらぶ)町常夜灯」といわれ文化3年(1806)に設置、道中でも有数のものと言われたという。
 昔は、「遠くなり近くなるみの浜千鳥なく音に汐のみちひをぞ知る」と詠まれたように海が近かったという。
鎌倉時代には鎌倉街道が通り、戦国時代には、織田・今川両勢力の接触地点で、鳴海城がもうけられた。江戸時代は有松と同じく鳴海絞が名産であった。
 鳴海宿ー本陣1軒、脇本陣1軒、旅篭68軒、人口3,643(天保14年(1843)

猩々発祥の地
所どころに連子格子の家が残っている。

金剛寺の向かい側に「小林畳店」があり、その電柱に「猩々発祥の地」という看板があり、他にも何か所かに架かっている。この地域で行われるかぶり物の祭りで、2m以上の「猩々人形」が子供を追いかけ、撫でられた子供は病気にならないという。
.
中島砦跡

 少し先で扇川を渡るが、橋の手前を左に入り、次の角をもう一度左折して少し行くと民家の垣根に「中島砦跡」の表示がある。
永禄2年(1559)、織田信長が今川義元の侵攻に備えて築いた城で、翌年の桶狭間の戦いでは、梶川平左衛門尉が守将となり、今川勢と戦ったという。

瑞泉寺
 扇川を渡ると歴史のある堂宇がならぶ瑞泉寺がある。
鳴海城主安原宗範が応永3年(1396)?創建(開山は大徹禅師)、文亀元年(1501)現在地に移った。
 宝暦6年(1756)に建てられた山門は、宇治市の黄檗宗万福寺総門を模したものという。



寛延元年(1748)の鐘楼→

道の景色
 瑞泉寺から宿場の中心に入る枡形まで200m位、古い家並みが残る

←枡形手前にある安政4年(1857)創業の菓子屋。






→その脇の道右側の千代倉家の板塀。千代倉家は大地主で酒造家だった。江戸後期に本陣を務めた下郷家の本家という。

枡形(曲尺手)
 ここから右・左と曲がり宿の中心部となる。
西に進む道-左側に生涯学習センターがあり、そこに江戸時代に東の問屋場があったという。→

札の辻-高札場
 その先が本町交差点で、札の辻と呼ばれた。
江戸時代にはこの東北角に高札場があったというが、今は、交差点から北側、70mほど坂を上がったところに新しく復元されている。

 すぐ先に石段と「鳴海神社創祠 天神社」の大きな石柱がある。日本武尊の東征に由来して創建された鳴海神社が、ここに鳴海城が築城された時に北500m程の現在の場所に移転し、城の鎮守として天神社が創建された。
石段の上-一番奥に小さな祠がある。

鳴海城跡
 石段の正面に「史蹟 鳴海城阯」の石柱と その隣に石碑、説明板がある。
 根古屋城ともいい、応永年間(1394~1428)足利義満配下の安原宗範が築城したといわれる。その後織田家の支城となったが、織田信秀の死後、今川方に寝返った。
 永禄3年(1560)の桶狭間の戦いでは、今川義元の武将岡部元信が配され、義元戦士後も最後まで立てこもって奮戦したという。その後、信長の家臣 佐久間信盛、正勝らが城主となったが天正18年(1590)廃城となったといわれる。
 

圓道寺
 道を挟んだ向かい側には鳴海城址公園があるが、スキップした。
道を渡り、交差点に戻る途中に圓道寺がある。説明板によると、今から400年程前の天正年間に猿堂寺と号し、その後庚申堂と変遷した。今も庚申の宵に庚申行事を行っているという。本堂の屋根に三猿の像がある。

誓願寺  芭蕉堂
 南隣の誓願寺の前に、「芭蕉最古の供養塔」の説明板が立っている。
境内の南奥に、安政5年(1858)永井荷風の曽祖父・永井士前とその門人が建立したという芭蕉堂がある。

その脇に高さ60cmほどの青石の自然石の供養塔が立つ。「芭蕉翁」と 元禄7年(1694)10月12日の没年月日が刻まれている。芭蕉が没した翌月、芭蕉門下が追悼句会のおり、如意寺に建てられたもの。

その脇には 文政2年(1819)秋建立と刻まれた徳本名号塔がある。
鳴海宿本陣跡
 本町交差点から西100m左に山車車庫があり、その手前に本陣跡の説明板がある。.幕末の頃の規模は、間口39m、奥行51m、建坪235坪、総畳数159畳であったという。
その先の作町交差点のT字路で右折して北に向かう。
江戸時代は、鳴海宿から宮宿にかけて、南側は海だったという。
              道沿いの旧家→

東福院
 100mほど北に、右に向かう細い道があり少し進むと、かっては鎌倉街道沿いにあったという東福院がある。
山門の梁には、天正年間の鳴海城の『城門ノ梁』が使われている。(張り紙)

丹下町常夜灯
 しばらく行くと成海神社と刻まれた石柱があり、その少し先に
常夜灯がある。
鳴海宿の西に入り口-丹下町に、寛政4年(1792)に建てられた。
平部帖の常夜灯とともに鳴海宿に東西の入り口に残っているのは貴重。
鉢ノ木貝塚
 しばらく北に進む。右手丘陵が広がるところに鉢ノ木貝塚説明板がある。
「縄文時代早期から前期にかけての貝塚で、貝層はバイガイを主としている。下部からは、縄文のあるやや厚い土器や、薄手の細線文土器、上部からは、羽状縄文、爪形文を施した平底の深鉢型土器を出土している。野村三郎氏により発見された。」

道の景色

三王山交差点で第二環状線を横断して西に向かう。赤坪町交差点の少し先で東海道は西北へ向かう。

天白川/天白橋

知多郡道への分岐点            分岐点の地蔵
       

笠寺一里塚
 すぐに、存在感のある一里塚の姿が目に入る。
東塚のみ現存しており、高さ約3m、直径約10mの円丘上に、2.6mの榎がしっかりと根をおろしている。

笠覆寺(りゅうふくじ) <笠寺観音>
 天平8年(736)、呼続(よびつぎ)の浜に流れついた流木に禅光上人が十一面観音像を刻んで安置し、小松寺と称したのが始めといわれる。
その後、延長8年(930)藤原兼平と玉照姫(雨に濡れた本尊の観音に自分の笠をかぶせたという伝説が残る)が、現在地に寺を再興し、「笠覆寺]と名付けたという。
嘉禎4年(1238)阿願上人が再興、現在の堂宇は多くが江戸期(正保~宝暦年間)の再建という。
<山門(仁王門)> <芭蕉の千鳥塚 と 武蔵の供養碑>

       文政3年(1820)建立
左=千鳥塚
享保14年(1729)芭蕉の36回忌に建立された。「星崎の闇を見よとや啼き千鳥」芭蕉貞享年(1687)笠寺へ。

右=「新免宮本武蔵守玄信碑」とよばれ、武蔵の弟子の子孫らが百回忌を記念し延享元年(1744)に建立した。
<本堂> <多宝塔>                   <鐘楼>

←江戸時代初期 正保年中( 1644~47)

   →貞享元年(1684)再建
阿願在銘の梵鐘は、尾張三名鐘の一つ。


戸部城跡
笠覆寺から商店街を西に行き、名鉄本線の踏切を渡り最初の角を右折して、東海道はまっすぐ北に向かう。
その前に寄り道をして、そのまま100m程直進し、左折した先の3叉路に、戸部城跡の石碑が立つ。戸部城または松本城と呼ばれた。(実際はここより西にあったという)。城主戸部新左衛門政直は、今川義元の家臣であったが、信長の計略にかかって義元に殺害されたという。

塩付街道
 もとの角に戻り、旧東海道を北上する。、「是より北 よびつき」 その先に 「戸部神社 塩付街道」とある真新しい石柱が立っている。少し先の清水稲荷神社の鳥居の脇に大きな石碑(宿駅制度制定四百年記念碑)が立ち、このあたりの様子を表している。・・・江戸時代、この東海道の西側は、「呼続浜」でここで造られた塩は塩付街道を通じて、小牧・信州に送られていた・・・・

 少し先左に入ると長楽寺がある。

鎌倉街道
 大きな通りを横断した次の角に「鎌倉街道」の石柱がある。昔の街道が通っていたといい、その街道を右に入ると、地蔵院がある。『湯浴地蔵尊』の石柱が立つ。

熊野三社
 少し先右手に長い参道がある。 信長の家臣 佐久間信盛が永禄3年(1560)山崎城に城主としていた時に守護神として祀ったのが始まりで、寛永4年(1627)山崎村と付近一帯の鎮守社として現在地に再建されたという。
このあたりから下り坂となり、「山崎の長坂」の石柱がある。
その先に「山崎城址 安泰寺」の石柱が立つ。100mほど北、山崎城のがあった所である。

「妙音院」道標
 山崎川を渡った右手に小さな公園があり、隅に
明治21年と刻まれた山崎橋の親柱があり、その手前に風化した道標が立っている。「 是・ 妙音院・・・」の文字が読める。
治承3年(1179)に平清盛の政変により太政大臣藤原師長(もろなが)は尾張へ流罪となった。その時の住居あとがここから200mほど東北にある妙音通りの嶋川稲荷にある。琵琶の名手で「妙音院」の号を持つ。

松田橋・八丁畷
 ここから瑞穂区に入り、工場や事業所が並ぶ中を西に向かう。
間もなく松田橋交差点で、歩道橋を渡る。ここからは国道一号線を進むことになる。歩道橋の階段下に小公園があり、松田橋の親柱(大正14年(1925)がある。
 この説明板によると、「天正3年(1575)織田信長が4人の道路奉行を置いて領内の道路を整備した際、「浜の道」(熱田~笠寺)が作られ、のちその道は東海道の一部たなり、このあたりは、八丁畷と言われた。井戸田村から浜新開への用水がこの東あたりで南北へ縦断しており、そこに架けられていたのが松田橋である。・・」

浜神明社
 次の角を右折、そのまま次の広い道路を渡った先のビルの間に浜神明社がある。かってはこのあたりは海岸で渡船場があったという。
境内右に「十七夜待開眼供養」と刻まれた
天正17年(1589)の月待供養塔がある。説明文によると、市内最古のものという。

道の景色
 国道1号線に戻り、左側の歩道を進み、東海道線の跨線橋の手前で国道から左に分岐していく。(国道の南下を並行して進む)
その先の東海道線の踏切の手前には地蔵堂がある。そのまま進むが、国道の新熱田橋を渡れないため、南にある熱田橋を渡って迂回することになる。
 国道に面して、神明社がある。
 境内には「右知多街道」の道標や「左 江戸道」と刻まれた道標が2基立っている。これは、これから行く伝馬町の一里塚付近から移されたものという。
伝馬町一里塚跡
 国道脇の歩道をすす進み、名鉄常滑線の高架したを左折する。このあたりの道は消えており、高架下あたりを通ってその先が枡形となっていたと思われる。
その先の三角地帯に木が植えられ 「宮宿」の歴史や地図が掲げられている。地図によると、一里塚はこの位置より北にあったようである。
 ここから東海道は西に進む。

宮宿:本陣2、脇本陣1、旅篭248、人口10,342  天保14年(1843)

姥堂
 すぐ先に新しい建物が「姥堂」として再建されている。
説明文によると、「延文3年(1358)法順上人が(熱田区神戸町の)亀井山圓福寺の厳阿(ごんな)上人に帰依して、この場所に創建したと伝える。本尊姥像は熱田神宮に在ったものをここに移したと伝えられ、姥像の衣紋に熱田神宮の桐竹の紋が描かれてあった。旧東海道筋にあったので古文書や古地図で存在が早くから知られており尾張名所図会にも搭載されている。・・・尊容から奪衣婆(だつえば)と見る説もあるが、両手に童顔の御像を奉持していること、熱田神宮伝来などから、日本武尊の母か宮簀媛命(みやずひめのみこと)ではないかとも想定されている…」
 姥堂のすぐ東にながれていた精進川に架かっていた橋が、裁断橋といい、江戸時代には宮宿の入り口になっていたという。
説明板と旧裁断橋桁石がある。

姥堂のお右側には「都々逸発祥の地」の碑もある。

鈴之前神社

 伝馬町一里塚跡(三角地帯)にある地図によると、姥堂の次の角を左折して二本目を右折したところに「徳川家康幽閉の地」と記されているが、整地-工事中で 説明板はなかった。
姥堂のすぐ先の鈴之前神社をすぎると、伝馬町 旧東海道と描かれたアーチがあり、その先の広い道路を横切るには、すぐ北の地下鉄伝馬町のある交差点まで行って迂回する。

ほうろく地蔵
 突き当りT字路の正面に地蔵堂がある。
ほうろく=焙烙・・・食べ物を炒ったり蒸したりするのに用いる素焼きの平たい土鍋のこと
 三河国重原村(知立市)の野原にあった地蔵を、焙烙売が荷物の片方の重しとして運んできて、売りつくした後海辺の葦原に捨てて帰った。この石仏を安置しようとしたが動かないので、下に台座と思われる角石がが見つかり、一緒にして祀ったという。

三叉の道標
 ここ伝馬町の西端は、東海道と美濃路(または佐屋路)の分岐点で、東海道は左に向かい七里の渡し舟着き場へ向かう。
 左角に小さな道標がある。
「東江戸かいどう」 「北なごやきそ道」 「南 いせ七里の渡し」 「是より北あつた御本社弐丁」などとある。こ道標は寛政2年(1790)建立当時のそのままの位置にある。

歩道橋からの道筋
 この先は国道247号線が南北に通っており、歩道橋を渡る。 東海道は斜めに進んでいく。
 右下の角にあるのが「ひちまぶし」の発祥の店といわれる蓬莱軒である。その少し北側に、西本陣があったという。
 その先の十字路を右折した先の消防団詰所の前に「西浜御殿跡」の説明板がある。尾張藩二代藩主徳川光友が造営、東西36間(65m)の豪壮なものであったという。
 十字路に戻り南に進むと公園となっており、その先で新堀川と堀川が合流し、伊勢湾に流れている。

七里の渡し 渡し場
七里の渡し石柱の先に船着き場が再現されている。
ここから、桑名宿までは、海上渡船である。

熱田湊常夜灯>
寛永2年(1625)尾張藩の家老で犬山城主成瀬正房(正虎)が父・正成の遺命を受けて
正徳寺(ここから北に100m程の場所)の隣に建立し、その後現在地に移転した。今のものは、昭和30年復元されたもの。




<時の鐘> 
延宝4年(1676)尾張藩主第2代徳川光友の命により蔵福寺(熱田神宮の南)に設置された。戦災で焼失したが、鐘楼「は昭和58年に公園内に復元された。(鐘はそのまま蔵福寺に残っている

丹羽家住宅
 道を挟んで渡し場の反対側に2軒の建物がある。それぞれ説明板が立つ。
丹羽家は、幕末のころ脇本陣格の旅籠屋で、伊勢久と称していた。正面の破風(はふ)付玄関は格式の高さを示し天保12年(1841)の尾張名所図会には当家のものと思われる破風付玄関のある旅籠やが描かれている、といy。
 
<熱田荘>
数軒先に、」ある建物は、明治29年(1896)建てられた[魚半」という料亭であった。近世の町屋の形式を継承している、という。


熱田神宮
 予定通り七里の渡しまで到達し、最後に熱田神宮へお参りした。
熱田神宮前交差点の歩道橋で、2本の交差している道路を超え、
時の鐘が保存されている蔵福寺の脇を進んで、南の正門から入った。
熱田神宮は伊勢神宮につぐ由緒ある大社で、祭神は熱田祭神、ご神体は三種の神器の一つである草薙の剣である。

<佐久間燈籠>
 尾張 御器所(ごきそ)(名古屋市昭和区の西部?)城主 佐久間盛次の四男大膳享勝之が海上で台風に遭った際, 当神宮の守護を祈り難を免れたので、寛永7年(1630)その御礼として寄進したもので、高さ8.25m-日本でも数少ない大燈籠という。

    <信長塀>

永禄3年(1560)桶狭間の戦いで大勝した織田信長が、戦勝祈願のお礼として奉納した築地塀。

 <本宮>
広重の五十三次 宮
クリックすると拡大  広重が描いているのは、5月5日の神輿渡御の前身として行われていたもので、『馬の塔』という神事という。
 尾張・三河一帯で行われていたもので、威儀を正した行列が飾りたてた馬を牽く「本馬」と、荒薦(こも)を巻いた裸馬の綱に人々がつかまって走る「俄(にわか)馬」の2つがあったという。
 広重が描いているのは、前後2つの隊列があるが、いずれもこもをまいているので「俄馬」というものである。手前の男たちは揃いの絞の半纏をまとっており前の宿の有松絞という。
熱田神宮長塀(のぶながべい) 日本三大土塀。 永禄3年(1560)織田永禄3年(1560)5月19日未明、織田信長は桶狭間の戦いに赴く際、ここ熱田神宮で戦勝祈願を行いました。そして祈願を終えた信長は、わずか3,000の手兵を率いて、田楽狭間(桶狭間の北方1.5キロ)で休息中の今川義元の本陣を急襲し、これを討ち取りました。その戦勝のお礼として信長が寄進したのが写真の築地。築地塀(ついじべい・屋根のある塀)信長兵
 散策日 2012年7月28日    知立駅-神宮前駅
 参考
 「東海道五十三次を歩く」 4    児玉幸多 監修