*******鎌倉 「山ノ道」(山沿いの道)********* 9.鬼石-藤岡 「山ノ道」 最終回 地図: ①鬼石-浄法寺 ②浄法寺-美九里東 ③美九里東-藤岡
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本庄駅から利根川の支流である神流川上流の神泉総合支所行きのバスに乗る。 途中 八高線の児玉駅近くになると、右手の山奥に浅間山が見えてくる。 バスで神流川を渡る橋から、今日歩く予定の神流川下流の景色がよくわかる。 前回、神流川を渡った上武橋の北片にある 鬼石(おにし)郵便局手前のバス停 「織茂」で下車する。 そこには、鬼石神社の石柱との鳥居があるが、鬼石神社はまだ200m以上 西の先である。 |
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鬼石神社 |
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<彫刻> |
鬼石神社の創建は不祥であるが、江戸時代には鬼石明神と称していた、という。 御神体は本殿床下にある直径120cm、地上高さ90cm、地下不明の「鬼石」といわれる巨岩である。 「西にある御荷鉾(みかほ)山の頂に鬼が住み、村人を困らせていたが、弘法大師に折伏されて巨石を投げ捨てて逃げ去った。その石が落ちたのが神社の御神体である」 という言い伝えがある。 こうした鬼石信仰は、山岳信仰の自然崇拝の石神で、いわゆる「神籠石」という。 以前歩いた「下の道」の葛飾区の「立石祠」の立石もその類という。 <神社本殿の床下に「鬼石」がある> <わずかに見える鬼石> |
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道の景色 |
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鬼石神社の石段を下ると、すぐに 国道462号線がある。 この国道は、古くは「十石街道」とよばれ、中山道の新町宿から、藤岡、鬼石、中里、上野を経て十石峠から信州佐久へいたる街道である。 この道を北に向かい、前回歩いた「山之道」に合流し、神流川沿いを下流に進んでゆく。 この辺りには、神流川上流の三波川(さんば)渓谷から採れる、庭石にする三波石を扱う業者が多かったという。、天然記念物として指定され、採取は禁止となったが、その実績から庭石の取り扱いが盛んであるという。 <八塩温泉> <神流川> |
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浄法寺 |
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奈良時代 神亀年間(724~729)鑑真の弟子の道忠が創建し、、古くは緑野寺とよばれていたという。 <境内にある宝篋印塔と本堂> |
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浄法寺相輪塔 | |||||||||||||||||||||||||||||
浄法寺境内の北側に墓地があり、道路側の一角に、最澄が弘仁6年(815)に発願、建立し、その時に天台宗に改宗したという 相輪塔が建っている。 現在のものは、寛文12年(1872)に再建されたもので、全国六か所にあるものの一つという。 青銅製で高さ:5.3m |
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道の景色 |
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<庚申塔> | このあたりには、「山の道」「十石街道」を偲ばせる石塔・石仏などは比較的すくない。天明年間(1781~89)の庚申塔は、新しい道路とは反対をむいている。道は新しく広く整備されて、以前からあったものは、どこかにまとめられているのだろう。 まもなく道は吉井方面と藤岡方面にわかれる。右の県道13号線を進むことになる。 |
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古墳 跡 |
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分岐の先にあるコンビニのある広場の東側に、説明板がたっている。 「この地は頭椎太刀が発見された全長30mの前方後円墳があった場所である。太刀は明治28年(1895)石室中より出土したもので、金銅装で全長約160cm、鞘は全面を金銅版で覆っている」という。 少し先の美九里郵便局のある三叉路を右に進んで、牛田の集落に向かう。 |
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牛田集落 |
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芳賀氏の「山道」の地図によると、そのルートはそのまま東に向かって牛田地区を過ぎて北に向かうようになっている。 十石街道に関するホームページによると、牛田公会堂の先にある医光寺に 板碑が残されているという記述があるので、牛田集落に立ち寄ることにした。各所に石塔や道標がのこっている。 |
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常夜燈 |
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集落の西に位置して大きな常夜燈と天保ききんの石碑がある。 碑は昭和20年の建てられたもの。 集落の多くの角に道標がのこっている。 大正時代に建てられたようだ。 |
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医光寺 |
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医光寺の境内西側に、屋根に覆われた大きな板碑が残されている。 高さ 253cm、幅 52cm 厚さ 6cmと大きなもので、鎌倉時代末期の延慶3年(1310)に建立されたものである。明治の末ごろ、神流川の土中で発見され ここに移転・保存されたものという。 |
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道の景色 |
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医光寺から牛田公会堂脇を北に進む。100、mjほどで、四辻があり、道標がある。道標の東面に、「右 川除、本郷、道中郷二ル」 南面に 「左 本郷、藤岡二至ル 右xx
」とあり、大正期のもの。 そのまま北に向かい、美九里郵便局から東に向かってくる道と合流する。 西側に丘陵が広がり、その間を抜けていく。 |
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椿杜(つばきもり)神社 |
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の | 由緒によると、「椿杜神社は豊受姫命を主祭神として、本郷上郷、川除、牛田の鎮守として祀っている。・・」 創建ははっきりしないが、「平安時代末の浅間山の噴火の後の復興のため、神の加護を願い、太治6年(1131)伊勢神宮の神領となり、高山御厨と呼ばれ、・・・供物を収めるために神明宮の社が建てられ・・・」という記述がある。 <本殿> (その後 高山御厨は、秩父氏につながる高山氏・小林氏が地頭職となり、鎌倉時代には高山荘に発展した。) |
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上の道 との 交差点 |
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北に進むと右側に美九里東小学校の校庭がある。 ここは、東西に通る旧鎌倉街道 上の道と交差していた場所である。 (東は、児玉方面、 西は、鮎川-山名-高崎へと続く。) 数年前に上の道を散策したときに通った道である。 もう一度東200m強のところにある板碑を見に行く。 緩い坂道を下り、川を渡った先の畑に真ん中(北側)に、小さな祠が木の陰に建っている。 |
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葵八幡の板碑 |
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葵八幡は木曽義仲の愛妾葵御前を祀ったといわれるが、由来は不祥。 祠の両脇に、板碑が二基建っている。 「右が、「應長元年六月」の紀年銘と判読できる阿弥陀三尊種子像の板碑で、左が、阿弥陀一尊立画像の板碑」 で、「二基は同時代の1300年代初頭のものと位置づけられる」という。 (應長元年は、1311年) 板碑の素材は「鮎川産の緑色片岩」という。 |
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美九里東小学校 | |||||||||||||||||||||||||||||
元の小学校の校庭の角までもどり、北に進む。 小学校の校門の入り口には、「鎌倉街道」と書かれた「上の道」の大きな説明板がたっている。。 北に進む道は新しく家がたったり、整備されつつあるが、ところどころの角に石塔や道標が残されている。 |
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土師神社 |
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森の中に土師(どし)神社がある。右からの道を南へ鳥居まで少し戻ることになる。 この辺りの地名は本郷と呼ばれるが、古代は土師郷(はじのごう)で古墳時代には埴輪づくりを職業にしている土師部(はじべ)の居住地域であった。 長い参道が続き、歴史を忍ばせる。 神社の創建は不祥だが、祭神は 土師部の先祖 野見宿祢(のみのすくね)である。日本書紀には相撲伝説が残る。 <相撲辻> 境内中央には相撲の土俵が残されている。伏せたすり鉢状で、高さ160cm、上円部径450cm、基底部1300cm、という。 大阪の住吉神社と能登の羽咋(はくい)神社のものとともに、日本三辻といわれる。 |
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本郷埴輪窯跡 |
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土師神社から北に進むと、道の左手には傾斜が続く。 その傾斜地を利用して、土師部たちが埴輪の製造をしていた窯跡が等間隔に並んで十数基発見された。 窯は登窯で、長さ5.5m、幅1.8mの大きさである。 この地は、一大埴輪製造工場地で、窯毎に仕事の分担があって、製品は上野国に供給されており、東部へは太田が供給地になっていたという。 |
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諏訪神社 |
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八高線を右に見ながら 北に進むと広い境内を持つ諏訪神社がある。 由緒によると、1100年前上野国緑野郡椙山明神として祀られていたのが始まりで、永享3年(1431)諏訪大社を勧請し、明治時代には高山神社という社名がつけられたこともあったという。 本殿は、鳥居から見ると一段と高い高い所に建てられている。嘉永3年(1850)に改築されたという。 そこは、諏訪古墳といわれる全長57m、後円部径37m、高さ4mの巨大な前方後円墳の上に建っている。 本殿からおりて、後円部に回ってみると、横穴式石室が開口している。 |
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天龍寺 | |||||||||||||||||||||||||||||
少し先の路地をはいると、天龍寺がある。 その境内の北側、八高線との間に 霊符殿古墳がある。残存する、墳丘の大きさは 径33m、高さ5.9mで、6世紀末ごろの古墳という。 この辺りから南にかけては、多くの古墳があったというが、宅地化により、八高線の東側に少し残っている程度という。 八高線踏切近くにある道祖神と道標→ |
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<藤岡 里程標> |
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藤岡駅に近づくと、大きな大正4年(1915)の里程標が建っている。 ここから先 高崎から碓氷峠を経て、、大和朝廷との東山道のルートにつながっていった。 |
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今回は、芳賀氏の「旧鎌倉街道 探索の道 山道編」 とは逆ルートで、ここまで散策してきた。 旧鎌倉街道 上、中、下 をそれぞれ歩き、少し時間が経ってからの今回の「山ノ道」歩きであったが、 まさに峠を越え、山の中を歩き、というルートが多く、自然に恵まれた「古道を歩く」にぴったりとした街道歩きであった。 |
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<八王子城跡・御主殿の滝> <増戸 大悲願寺 仁王門> <妻坂峠> |
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<西善寺から見た武甲山> <和銅遺跡> <阿久原牧跡> |
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これで、芳賀氏の散策編は終了。 今後は街道歩きではなく、鎌倉時代の鎌倉に深く関連して栄えた各地を、スポット散策として訪れていく。。 |
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