極楽寺・名越え切り通し


 鎌倉七口の探索の2回目として、極楽寺坂と、鎌倉時代に遣われていた長谷小路と大町大路を通り、名越切通しまで探索することにした。



稲村ガ崎

 新田義貞の鎌倉攻めの故事で有名であるが、今は公園として整備されている。

新田義貞の石碑と、ボート遭難の碑、コッホ博士の記念碑がたっている。

 


 十一人塚の碑


稲村ガ崎から、駅方向にもどり、極楽寺方面に行く道路にぶつかり、そこに「十一人塚の碑」がある。

長谷駅の手前までは、この道に沿って歩くことになる。

この場所には、元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの時、極楽寺坂切通しに攻め入ったが、北条方の襲撃にあって討ち死にした義貞側の武将大館宗氏ら11人の霊を弔った十一面観音堂があったという。

 

蓮袈裟懸けの松の碑


日蓮が滝の口へ連れて行かれるとき、自分の袈裟をかけたといわれるところ。

 

 

その先はの江ノ電の踏み切りがあり、線路の直ぐ脇を行く。そこは電車の撮影場所として最適らしく何人かがタイミングを見計らっていた。

 針磨橋


 鎌倉十橋の一つで、昔この付近に針を磨く老婆が住んでいたという。

極楽寺 山門


 山門が工事中であり、裏門から訪れた。

鎌倉時代、慈善事業を数多く行い、人びとの尊敬を集めていた忍性と執権北条義時の子・重時が協力して正元元年(1259)に創建したといわれる。金堂、講堂、塔などの伽藍、49支院を持つ大寺院であったよいう。国の重要文化財である忍性の五輪塔がある。(境内は撮影禁止)

極楽寺坂


極楽寺から由比ガ浜方向に向かう坂道が、極楽寺坂切通で、鎌倉時代は、今の坂より上のほうにあって、右の丘の上にある成就院の山門あたりを通っていたといわれる。そこで、成就院の参道階段をのぼっていく。

極楽寺の忍性が鎌倉と京を結ぶ主要幹線道として開いたといわれ、それ以前は、東側の稲村口とよばれる崖の上を通っていた。

成就院


 弘法大師が護摩供養をしたという伝説の地に、承久元年(1219)北条泰時が北条氏の武運を祈願して再建したといわれる。


明月院と並ぶアジサイの寺で有名である。

石段の途中から見える由比ガ浜から材木座/名越切通しの方向まで広がる景観は、見事である。

 日限六地蔵尊


 階段を降りた左側に、地蔵がならんでいる。

「人々が邪心を捨て願い事を期日を極めてお願いすれば、其の期日までに功徳がいただける有難いお地蔵様として、日限地蔵と称されるようなったと言い伝えられている」という。

近年、東南・悪戯が激しく、保護のためシャッターを取り付けたという。

 

 星ノ井


鎌倉十井のひとつ。星月夜ノ井と星月ノ井もいわれる。昔この辺りは樹木が生い茂り、日中であっても薄暗かったので、井戸をのぞくと星が輝いていたという伝説から、其の名がつけられたという。

虚空蔵堂


明鏡山円満星の井寺。

本尊は知恵と福を与え、全ての人々の願いを叶えるといわれる虚空菩薩を祀る。

奈良時代、天平年間、行基がこの星の井をのぞくと中に虚空菩薩の姿が見えたという。そこで、虚空菩薩像を彫って祀ったと伝えられる。鎌倉時代には源頼朝が秘仏として35年に一度だけの公開を許したという。

 御霊(ごりょう)神社



 この先左側に「五霊社鎌倉権五郎景政」の石碑が建つ。左にはいり、江ノ電の踏切の向こうが、御霊神社である。(ごんごろう)神社ともいわれる。鎌倉幕府成立以前からあったといわれ、後三年の役(1083-87)で数々の武勇伝が残る権五郎景正を祀る。

 

境内には、景政が見回りの際弓を立てかけて休憩したという『弓立の松』や、手玉に取り袂に入れたという『袂石』などがあり、また石上神社・第六天社・地神社などなどの諸社が祀られている。

文政8年(1825年)の庚申塔がある

    

 江ノ電長谷駅前にでたあとは、由比ガ浜通りを東に向かう。西側に長谷観音・北側には高徳院(鎌倉大仏)があるが、今回はスキップした。由比ガ浜通りは鎌倉時代 長谷小路とよばれ若宮大路と交差し、その先が大町大路につづく幹線道路であった。

甘縄神明社

案内板:御由緒によれば、和銅3年(710)染谷太郎太夫時忠の創建で、永保元年(1081)源義家が社殿を再建したという。頼朝、政子、実朝など武家の崇敬が篤く、鎌倉最古の神社である。

源頼義が相模守となり、この地に下向した際、この神社に祈願し八幡太郎義家が生まれたと伝わる。

本殿




         北条時宗公産湯の井


安達盛長邸跡の石碑

鳥居の近くに安達盛長邸跡の石碑がたっている。

安達盛長は、源頼朝の蛭ガ島以来の重臣であった

盛久頸座

通りに出てしばらく行くと、左手に左手に石碑や庚申塚などがたっている。

 大正八年の石碑によると『平家物語に文治元年()6月幕府命じて平家の家人主馬八郎左衛門盛久が、引け滅亡後捕らえられて由比ガ浜で首をで斬られることになったが、信仰していた清水寺の観世音菩薩のおかげで助かったといわれる。

和田塚


 盛久頸座から数分東へ進み、右に折れて江ノ電の和田塚駅を過ぎたところが、和田塚である。明治中ごろ道路工事の際に、土器や、人骨が発掘され、この塚が和田合戦で敗れた和田義盛一族の墓地と推定され、その後「和田塚」といわれるようになった。

 六地蔵



和田塚の前の通りを由比ガ浜通りへ向かった交差点に六体の地蔵が並んでいる。これが六地蔵で、この辺り一帯の地名ともなっている。

鎌倉時代、この土地の扇ガ谷側が刑場であったため、地蔵を祀ったといわれる。また芭蕉をしのんで、俳人松尾百遊が「夏草やつわものどもの夢の跡」の句碑をこの辻に建てたので、「芭蕉の辻」とも呼ばれている。

 

若宮大路と由比ガ浜通りの交差点と『下馬』の碑


この交差点に「下馬」の石碑が建っている。それによると。鶴岡八幡宮に参詣する武士は、必ずここで馬をおりて、徒歩で行かねばならなかったという。

延命寺

 JR横須賀線の踏切手前にある


 北条時頼の夫人が建立したといわれている。本堂に祀られている身代わり地蔵は、「裸地蔵」や「前出地蔵」とも呼ばれており、双六(すごろく)で負けた夫人を助けたという話が残っている。

安養院

 北条政子が源頼朝の菩提を弔うために長谷笹目にあった長楽寺という寺をこの地に移したのが前身で、その後、政子の法名をとって安養院と改めたという。



本堂裏手に 徳治3年(1308)、関東様式宝ぎょう印塔の典型で鎌倉に現存する最も古いといわれる塔と、北条政子の供養塔がたっている

安国論寺

日蓮はこのあたりの松葉ヶ谷に20年間に亘って滞在し、ここを拠点に布教活動を行っていたが、迫害に耐えつつ、文応元年(1260)、北条時頼に建議したといわれる「立正安国論」を執筆したところといわれている。寺の名はそれに因んでいるという。 

妙法寺

安国論寺から北に向かってしばらく行くと妙法寺がある。

 日蓮が安房から鎌倉に来た際に、庵を結んだところといわれている。その跡に、護良親王の子日叡が延文2年(1357)、寺を再興したのが妙法寺の起こりという。

一面が緑の苔で覆われている石段

(仁王門から法華堂までつづく)

 

塔宮護良親王墓

護良親王の墓の附近から稲村ヶ崎方向を望む

庚申塔

再び安国論寺に戻り、そのまま南に進む。

 左手に古い庚申塔がある。

そのうちの一つは

猿田彦大神

北斗尊星  と彫られている。

文化五年(1808)

長勝寺

横須賀線踏切を渡って直ぐ右側が長勝寺である。


安国論寺、妙法寺と並び、日蓮の松葉ヶ谷の草庵跡といわれている。

日蓮に帰依したこの地の領主石井長勝が弘長3年(1263)に創建した。

 



山門を抜けると、参道の桜が満開で正面の帝釈堂の建物、屋根の形との組み合わせがとても良い感じであった。それとともに高さ8メートルの日蓮上人銅像が目に入る。高村光雲の作という。

名越えトンネル


長勝寺の前の道をさらに東に進むと名越えトンネルがみえてくる。その左側上部に名越切通しがある。

日蓮乞水(にちれんのこいみず)




 国道から横須賀線側に左折し線路と平行している道をしばらく進むと石囲いの中の石碑と井戸が現れる。これは日蓮乞水といい、鎌倉五名水の一つにもなっている。日蓮上人が水を求められたときに、杖で地面をつついたらそこから水が湧き出し、日照りでも水が涸れることがなかったという。

名越切通し

日蓮乞水を過ぎ、横須賀線の踏切を渡ってから右側の坂道をのぼる。 日蓮乞水を過ぎ、横須賀線の踏切を渡ってから右側の坂道をのぼる。 丁度、横須賀線のトンネルの上を通るが、長勝寺の屋根が大きく見える。

左側斜面にのこる石仏

 名越切通しは、鎌倉幕府以前からの古東海道の鎌倉から房総へ続く要路で、難路であったため、ナゴエの名がついたといわれる。

「北条執権の時代になると、三浦一族がその脅威となってくるが、この切通は三浦氏の居城の衣笠城に通じる重要な道であり、北条氏にとっての鎌倉防衛の最重要拠点であった」という。




 「北側は、鎌倉石の石切り場があり、多くのやぐらや防衛線として名高い大切岸(おおきりぎし)がのこされている。」

 この坂を、名越えトンネルの逗子よりの出口までくだり、小坪、材木座海岸経由で、鎌倉駅に戻る

散策日 2006年3月27日