中の道 4.荏田−二子玉川 地図 @市ヶ尾-宮前平 A宮前平−二子玉川
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荏田の真福寺からの「中の道」の散策を続ける前に、市ヶ尾駅で降りて市ヶ尾横穴古墳群を訪れ、大山街道のあとを辿りながら荏田に行くことにする。その先二子玉川までは、旧鎌倉街道は大山街道としても利用されていたようである。 |
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市ヶ尾駅前246号線 |
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駅前の246号線は鶴見川付近にできた東名高速の青葉インターへの出入り口に近く、大幅に整備されていた。 駅前の歩道橋を渡り、北に向かうと地蔵堂下の信号があり、ここで東西に走る道路に合流する。旧大山街道であり、この道は古代の官道(旧東海道)でもあり、古代の市ヶ尾は、鶴見川沿いの古道とこの官道が交差する交通の要所であったという。 |
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地蔵堂 |
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すぐ東に、地蔵堂がある。堂に上がる石段の左側に地蔵など石仏が並んでいるが、そのうちの一つが庚申供養塔で、道標にもなっている。 安永4年(1775)造立で、前面右側に 「上 江戸みち」、左側に 「下 大山みち」と刻まれている。 |
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横穴古墳群 |
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地蔵堂の北の小学校の西側を回って市ヶ尾遺跡公園の南にある横穴古墳群に行く。 公園の丘の斜面に、6世紀後半から7世紀後半にかけてつくられたもので、19基の横穴墓がある。 説明板があり、「前庭部と呼ばれる横穴入口に近い墓道の部分からも、刀、土器類が発見され、祖先の霊を祭る儀式が行われていたと考えられる」という。 |
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荏田宿 の庚申塔 |
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地蔵堂前まで戻り、市ヶ尾小南の信号を過ぎてから、東に下って田園都市線に沿って荏田駅に向かう。 荏田駅西口から、ガードをくぐり、東名高速の下で、東に向かう細い道をすすむ。 246号線に出る手前(ガソリンスタンドの裏側)の左側の金網の内側に庚申塔が立っている。脇には「旧大山街道 荏田宿 小黒谷(こぐろや)」という立て札が立つ。建立は寛保2年(1742)という。 |
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荏田宿常夜燈 |
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246号線を100mほど進んでから左斜めに入り、200mほどほぼ平行に進み、信号のある交差点を右折すると、荏田の交差点である。 越えてすぐ左の民家(中宿、小泉家)の庭に常夜燈がある。 高さ230cm、中台に「秋葉山」、竿に「常夜燈」と刻まれ、文久元年(1861)の建立。秋葉講の案内宿に建てられたものという。 この通りは、荏田宿のあったところで、東のはずれに地蔵堂がある。 南の丘陵から真福寺の脇に下ってきた鎌倉街道の旧街道は、ここから早瀬川に沿って北に向かう。大山街道は、同じ道を利用したという。 |
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地蔵堂・庚申塔 |
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お堂の中には、庚申供養塔と地蔵像がある。 庚申塔は、寛政5年(1793)荏田村下宿の婦人たちによって建てられたものという。 余り風化もなく当時の彫が良く残されている。 |
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鍛冶橋と早瀬川 |
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北のすぐ先に早瀬川にかかる鍛冶橋をわたる。橋の手前を左に行く道は、登戸の渡しに行く旧街道という。 約200mほど川に沿って進み、右に入り山裾の道を進む。 |
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老馬鍛冶山不動尊 |
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右側に小さな池があり、不動明王が立っている崖から水が流れてきている。「霊泉の滝」という説明板がある。 この辺り一帯は老馬(ろうば)というが、昔 牢場があったことから変化したものという。 急な石段を上ると、老馬鍛冶山不動尊という堂が立つ。 |
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観福寺の道標(馬頭観音) |
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先に進む前に、早瀬川の対岸、246号線を越えたところにある観福寺に寄り道する。246号線の荏田の交差点に入る手前の交差点の所にあった道標が、造成中のため観福寺に保管されているというメモがあったので、確かめに行った。 境内に「馬頭観世音」 側面に「登戸・・・・」と刻まれた石塔がある。文化12年(1815)に建てられた。 |
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もとの道に戻り、北に進む。市営地下鉄のガードをくぐり、坂道を上がるとバス道路に出る。その道なりに越えて坂道を上がって行く。上りきると尾根沿いの道となり、右側は斜面で植木等が栽培されている。その先は住宅街となり、旧道は消える。見落としてしまうほどの有馬川をわたり、246号線をこえる。 |
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尾根沿いの道 住宅街 有馬川 |
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鷺沼駅方向に向かうが、駅前を左手に見て、北東に進む。この辺りから緩やかな丘陵上の道を通り、宮前平駅までくだることになる。小台一丁目あたりには、頼朝がここを通った時に、乗馬の鞍を松にかけて休んだという「鞍掛け松」という大木があったという伝説があるという。 |
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駅入口手前にある茅葺の民家(左) 小台公園の桜 (右) イロハカエデ(左) |
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八幡神社 |
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田園都市線のガードを過ぎて宮前平駅前にいくと、左側高台にある。 参道石段の途中には、小台庚申堂という石碑とともに祠が建てられ、きれいに維持された庚申供養塔が祀られている。 正徳4年(1714)の銘がある。 |
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宮前平から丘陵地帯を進む。庚申坂とよばれる坂が、大山街道の名残を残すのみで、住宅街がつづく。 宮崎台駅の近くを通り、246号線の通る6叉路を過ぎると、ようやく街道の風景らしさが出てくる。 |
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庚申坂 |
6叉路手前 246号線を過ぎる |
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庚申塔 |
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約200mほど行くと庚申塔の立つ祠がある。庚申塔の側面には「右 大山道 左 やうがすじ道」と刻まれている。(→用賀筋道) 祠の手前には比較的新しい「西 荏田方面 東 二子橋方面」と刻まれた道標もある。 |
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笹の原の子育て地蔵 |
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梶ヶ谷駅への入口を過ぎて200mほど進むと、新しい地蔵堂がある。 子供の授からない夫婦が西国の百霊場を巡拝して、子供を授かったのでお礼に地蔵尊を建立したという。「都築橘樹 酉歳地蔵」とある。第18番札所という。 右手には弘化4年(1847)の秩父西国坂東供養塔が立つ。 |
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ねもじり坂 |
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古道らしい風情のある道で、坂道をくだっていく。ねもじり坂といい由来は不明という。別名はらへり坂といい、もっと急な難所であったという。 その先商店街となり、溝の口の駅前である。信号を渡った先には、庚申堂が立っている。 |
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庚申塔 |
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庚申塔は、文化3年(1806)の建立で、道標を兼ねており、右側面に「西大山道」 右側面に「東 江戸道」と刻まれている。 | |||
さかえ橋の親柱石 |
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南武線の踏切を渡ってバス道路との交差点の手前に大山街道の大きな案内板と、さかえ橋の親柱石が建っている。 説明板によると、『さかえ橋は平瀬川と根方堀(二ヶ領用水)が交差したこの場所にあった。ここが溝口村上宿と下作延村片町の境にあったことから「境橋」、あるいは古代から中世にかけ、このあたりに馬上からの検見(けみ=見積り)で税などが免除された田畑があったと伝えられていることから「馬上免橋」とも呼ばれてきた。…中略・・・駅開発の工事にともない、さかえ橋の親柱石が掘り出された』という。 |
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宗隆寺 |
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栄橋の交差点を東に行くのが旧街道である。少し先を左手に入ると宗隆寺である。 もとは天台宗で本立寺と称していたが、明応5年(1496)日蓮宗に改宗し寺名も宗隆寺とした。古くからお会式が行われ、その賑わいは池上本門寺に次ぐという。 芭蕉の句碑がある。 世を旅に 代(しろ)かく小田のゆきもどり |
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溝口神社 |
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神社の由緒によると「創立年代は定かではないが、江戸時代まで神仏習合にて、溝口村の鎮守・赤城大明神と親しまれ、社名を赤城社と称していた」という。 ここには、勝海舟自筆の大のぼり(幅1.75m長さ13.44m)があるという。 |
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二ヶ領用水 |
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旧街道に戻り東に行くと二ヶ領用水が流れ、大石橋がかかる。 稲毛・川崎の二ヶ領を潤す「二ヶ領用水」は、代官小泉次太夫が奉行として任命され、対岸の六郷用水とともに同時に工事を行い、14年の歳月をへて、慶長16年(1611)完成した。 後年には川崎の田中休愚(きゅうぐ)が修復した。 |
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ふるさと館前の道標 |
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左側に大山街道ふるさと館があり、その前に道標がある。正面に「是より北 高幡不動尊道、南 川崎街道」とある。側面は「西 大山道 文政12年(1829)」「東 青山道」 とある。 芳賀氏の「旧鎌倉街道探索の旅 中道編」では、[宗隆寺入口にある]としているので、道路改修時にここに移されたものであろう。 芳賀氏は、宗隆寺の東側の細道は旧府中街道であり、その前身も鎌倉街道(下道と中道との連絡道)であったようである、と述べている。 |
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この辺りは、旧大山街道の宿場-溝口宿−で、江戸日本橋から五里の行程だったという。 (次が荏田宿) |
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江戸時代から残る薬屋「灰吹屋」 蔵造りの店 田中呉服店 国木田独歩文学碑 |
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光明寺 |
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高津区のHPによると、光明寺は、慶長6年(1601)甲斐武田氏の家臣小山田宗光が出家して、二子塚のある「本村」に興したという。(今の高津駅の南側あたりに、2つの古墳がありそれが「二子塚」と呼ばれていたという。) その後寛永18年(1641)に現在地に移った。農民たちも一緒に移り、二子村を形づくっていき、明治7〜9年には本堂に二子学舎が置かれ、近代小学教育の場となったという。 |
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二子神社 |
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多摩川が近くなってきた左側に参道があり、その奥に二子神社がある。創立年代不詳、もと神明社といっていた。 境内東側に塚があり、岡本太郎が、母親岡本かの子へのを想いを作品にした「誇り」と題する彫刻が立っている。 岡本かの子文学碑 |
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二子の渡し入口 |
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大山街道に戻るとすぐに、二子新地駅に向かう道と交差する。旧大山街道二子の渡し入口と書かれた標柱が駐車場脇に立っている。 | |||
諏訪一本松跡 |
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交差点から二子新地の駅の方に向かい、駅を過ぎて100mほど進むと、「諏訪一本松之跡」と刻まれた石碑が建つ。 多摩川を流す船頭たちの目標になっていたという。 (写真は溝口駅前の案内板から) |
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二子橋親柱 |
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再び大山街道に戻り、多摩川に向かう。 ここに橋が架けられたのは大正14年(1925)で、それまで人々は「渡し船」に頼っていた。 二子橋の交差点の手前に「ふたごばし」と彫られた、親柱石が2つ立っている。 (この親柱は、昭和52年の大改修で撤去されたもの) |
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二子橋 |
多摩川-上流側 多摩川-下流側 |
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二子橋を渡るとすぐ、田園都市線の 二子玉川駅である。 |
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参考資料 | 「旧鎌倉街道探索の旅 中道編」 芳賀善次郎 |
散策日 | 2008年10月11日 |