国府津−小田原       地図→ @国府津〜鴨宮   A鴨宮〜小田原(湯本)

                    
               
 以前下曾我に住み、数年間 下曾我・国府津・小田原の間を通学しこの区間は特に親し
みもあるので、今回は旧東海道のルートから若干はずれて史跡めぐりも兼ねて散策した。
親鸞聖人勧堂跡石碑
国府津駅から国道一号線を西に50mほど行った左側に、親鸞聖人御勧堂」の石碑が建ち、その奥に勧堂の跡がある。
西側に真楽寺があるが、その住僧性順が、親鸞の弟子になり、ここに堂を建て親鸞を招いて共に7年間の間,教化活動をしたとい
う。
真楽寺
勧堂跡から、西に180m先の信号の北側の奥まった所に真楽寺がある。説明板によれば、聖徳太子に所以のある天台宗であったが、住僧性順が親鸞聖人の浄土真宗に帰依して建てたのが始まりで、寺号は親鸞聖人の命名という。 

本堂左手に、市指定天然記念物の大きなボダイジュがある
看板建築
国道の両側は、ずいぶん新たな建物に建て替えられてきているが、一部外壁をモルタル塗にした洋風の建物が残っている。これは看板建築と呼ばれ、通りから見ると洋風であるが裏側は出桁造りという町屋と同じつくりという。
国府津小学校跡地と伝馬屋敷
さらに西にいったバス亭の「岡入口」の手前の北側にはいる細い道をすすみJR線の下をくぐった先に、「国府津小学校跡地  伝馬屋敷」の石碑が、道祖神とともに建っている。
この付近は伝馬屋敷という小字が残っており、古代-平安時代の、東海道の「小総(おふさ)駅」の位置と関係があるとのみかたもある。
光明寺
小道を更に北に進むと光明寺が建つ。西北の菅原神社の先にある蓮台寺の末寺という。光明寺が東海道の北側の伝馬町にあるときに、明治14年 前川小学校の分校になり、、明治19年に独立して国府津小学校になった時も、この光明寺であった。
大正6年に現東海道線の熱海線の工事が始まり、今の地に移った。
本堂
安楽院
光明寺の西隣に、安楽院がある。ここは菅原神社の別当寺だった。天長10年(833年)この北にある宝金剛寺と同じ杲隣(こうりん)大徳の創建という。
本堂
菅原神社
ふるくから「天神さん」と親しまれてきた国府津の鎮守で、説明板「神社縁起」によると、『正暦5年(994年)に、国府津海岸に奇妙な木船が漂着、中に束帯した貴人がおり、、里人はこの貴人に麦飯と麦粉をかけた食事をもてなした。 その夜里人の夢枕ににこの貴人が現れ、「京の菅神を崇敬すれば幸多からん」」と告げた。目覚めると貴人の姿はなく、菅公の肖像一躯が残されていた。これを御神体として神社を創建したという。』
境内右手には、くぐると身についた罪や穢れご取り除かれるという茅輪があり、ほかに、曽我兄弟が仇-工藤佑経を待ち伏せて身を隠したという「曽我兄弟の隠れ石」や、市の天然記念物に指定されている「ムクノキ」がある。
蓮台寺
神社から100m北に蓮台寺がある。時宗一遍の弟子の真教により永仁5年(1297年)開かれた。真教は各地に道場を設け時宗教団の基礎を確立したので時宗第二祖他阿真教と崇められているという。寺のホームページによると所蔵の他阿真教上人像が上人の生前に造られた「寿像」であることが判明し、平成17年、国の重要文化財に指定され今は神奈川県立歴史博物館に預託されているという。
建武古碑
100m北に、小川に沿って山に登る小道があり、川から離れて左側に坂を上ると、みかん畑の中に石碑が建っている。「国府津建武古碑」といわれる。
説明板によると、この板碑は相模型板碑と呼ばれ、近くの根府川石をそのまま利用している。
中央に「弥陀・観音・勢至」を示す梵字3文字が刻まれ、左側に「建武五年(1338年)とある。ここは「無縁さん」と呼ばれ無縁仏を葬った場所といわれる。
みかんの花 建武古碑への道 箱根を望む
宝金剛寺 箱根を望む
もと来た道を戻り、右手に宝金剛寺の長い参道がある。説明板によると、平安時代の初期、天長6年(829年)弘法大師の十大弟子の一人杲隣(こうりん)大徳により開創され、久安元年(1145年)僧一海が中興、弘治二年(1556年)後奈良天皇の勅により今宝金剛寺と改められたという。
この地方屈指の大寺院で、多くの文化財が保存されている
境内にある応永15年(1408年)の宝篋印塔
東海道風景と小八幡一里塚
菅原神社の前の道を国道1号線までもどり、西に進むと親木橋を渡ると、街道らしく松がのこる。その先にバス停「一里塚」がある。江戸から19番目で、一里塚そのものはなく、左側にその説明板が建つのみである。
天保年中の相模国風土記稿に「左右相対、高二間、舗六七間、塚上に松樹あり」とある。(説明板)
説明板付近
八幡神社と庚申塚
200mほど先の信号を北に進むと、小八幡の八幡神社があり、拝殿右手に、地区内に点在していたものが工事などより集められた道祖神や庚申塔が並べられている。
承応4年(1655年)の石碑、年代不明の石祠、元禄4年(1691年)、元禄13年(1700年)、享保2年(1717年)の庚申供養塔がある。説明板によると、猿の姿に特徴があり珍しいという。
  
三宝寺と百叩き刑場跡
八幡神社から国道の戻る途中に三宝寺があり、その西方100mの四つ角が、「百たたきのお仕置場」と伝承されている場所で、江戸時代の名主の裁量で軽罪の者に見せしめの刑を与えた所とのことである。
明治天皇野立跡
国道に戻った左手に「魚利」商店があり、お願いして裏庭を見せてもらった。
明治天皇が明治元年(1868年)立ち寄られたところで、「明治天皇御野立址」という石碑が建っている。
日本橋80km
このあたりから、鴨宮にかけて、松並木が続く。

北側の奥に、財務省印刷局 小田原工場がある。
桜の時期に観桜会として一般開放される。
長楽寺
「県営住宅入口」の信号を北に入ると、応永15年(1408年)本誉上人開山の長楽寺がある。明治6年(1873年)酒匂小学校
の前身である小学崇広館第二支校が、ここで開校したとい
う。

ここから酒匂川の手前にかけて多くの寺社がある。
上輩寺
長楽寺の向い側に上輩寺があり、永仁2年(1294年)建立、開山は他阿真教で、開基は酒匂右馬頭という。
墓地内に、「100本以上の乳柱を持ち、1mをこえる長さのものが20本もあるという「乳いちょう」がある。かながわの銘木100選に選ばれ、市の天然記念物に指定されている。
また、その根元に、3基の五輪塔があり、開基の酒匂右馬頭の墓という伝承である。
    
南蔵寺
上輩寺の北隣にあり、古い寺で所在地を度々移動し、室町時代までは、「福田寺」と名乗ったという

西側に五輪塔があり、坂田公時の墓と語られているという。
大見寺と小嶋家の宝篋印塔
国道に戻ると、ドライブインの脇に大見寺の「小嶋家の宝篋印塔、五輪塔」の標識がある。境内の説明板によると、小嶋家は、鎌倉時代からの酒匂の旧家で、北条時代には酒匂郷の小代官を務め、江戸時代に入っても名主・組頭役を務めたという。
この宝篋印塔は、徳治3年(1308年)銘で、小嶋家の祖先の左衛門入道の墓という。他に天文21年(1552年)の宝篋印塔と天正2年(1574年)銘の五輪塔があり、これらは市内で年代を明記したもっとも古いもので、市の重要文化財に指定されている
     
川辺氏の屋敷
その隣が、立派な長屋門をもつ屋敷・・・慶安4年(1651年)に移住した紀州浪人で代々名主を務めた川辺氏の屋敷がある。今は社会福祉法人「ゆりかご園」として経営されている。
酒匂不動院
国道をはさんだ向かい側に酒匂不動院があり、このあたりには鎌倉時代から土着していた旧家の鈴木家の屋敷があった所という。享保尺と呼ばれる物差しを制作したという伝承があり、「酒匂物差し」の発祥地とされているという。(「身近にある小田原の史跡-川東版」による)
跡地に明治天皇行在所の碑が残る。
大経寺
200m先の信号を右折すると、酒匂神社に向かうが、途中に大経寺がある。永禄3年(1560年)創建と伝えられる。

芭蕉の句碑 『人もみぬ 春や鏡の うらの梅』がある。
酒匂神社
明治6年、駒形権現社に八幡・金山・諏訪・十二天・白山・雷電・神明・山王・七夕の各社を集めて酒匂神社が造られたという。
曽我五郎の投石といわれている親指跡のある大石(125cmx145cmx30cm)がある
法船寺
文永11年(1274年)日蓮上人が増水した酒匂川を渡れないでいる時に一泊した地蔵堂を寺にしたという由緒がある。
平成五年完成の五重塔のミニチュアは、見ごたえがある。総桧造りで本瓦葺きの本格的五重塔で高さは6.8m。
連歌橋交差点
法船寺の前が連歌橋交差点で、連歌橋は酒匂川の支流である下菊川に架かっていた。
法船寺前には「高札場」があり川越しの掟を記した木札がかかっていたという。
向かい側にマクドナルドがあるが、そこが「川合所」があったところという。ここで、名主、組頭などが詰めて人足を指揮し川越し業務を行った。
酒匂の渡しの石碑
酒匂橋の東から100m程上流に、酒匂川渡し場跡の石碑がある。、説明文によると、酒匂川の渡しは、延宝2年(1674年)船渡しが禁止されて徒歩(かち渡り)制となった。冬の時期を冬川と言い仮橋を架けて往来したが、夏の時期は、夏川と称して必ず「手引・肩車・蓮台」などを有料で川越人足の力を借りなければならなかった。
明治4年(1871年)廃止。

(多摩川、相模川については、船渡しであった。)
酒匂川
酒匂橋の東側から見た、酒匂川と箱根山。
       

  広重 小田原(酒匂川)
二宮金治郎表彰の碑
酒匂橋を渡り酒匂の渡しが着いていたと思われるり、土手にでてみると、石碑が建っている。
それによると、小田原藩主大久保忠真が、文政元年(1818年)幕府の老中に任ぜられ江戸に向かう途中領民の代表を集め栢山村の金治郎をはじめ13名を表彰した。その場所がこのあたりの河原で、こののち金治郎(後に金次郎・尊徳)は小田原をはじめ全国六百余の農村の復興や藩などの財政再建に貢献したという。
八幡神社
土手から西の方向100m余りのところにに大きな松林があり、その中に八幡神社がある。
この先に新田義貞の首塚があるが、向かい側ということで、境内に新田神社の祠がある。
新田義貞首塚
旧東海道は国道-城東高前の信号-を横切り、南に向かう。
向って右側の家の角に首塚への地図が掲示されている。この地図がないとわかりにくい場所なので非常に便利である。
説明板によれば、延元3年(1338年)越前国(福井県)藤島で討死した義貞の首を家臣の宇都宮泰藤(小田原城主大久保氏の先祖)が本国の上野国(群馬県)に葬るために、ここ網一色村に達したとき病にかかり再起できなくなったという。やむなく、この地に埋葬し、自身もこの地で没したという。
山王神社
 国道を西に進み山王川を過ぎると右手に山王神社がある。説明板によれば 『もとは北条家の郭内で、海辺の「袖の池」にあったが、大波で崩壊したため慶長18年(1613年)にこの地に移転した。旧社地のときから、「星月夜ノ井戸」があり、昼でも井戸の水面に星影が映るという小田原の名所であり、徳川家康は天正18年(1590年)の小田原陣のとき日々参詣したという。その井戸も移転した。寛永元年(1624年)朱子学者林羅山が星月夜の詩を詠む・・・・・』という。

境内左に、井戸と共に、林羅山の詩碑がある。
小田原宿 江戸見附
東海道小田原宿の標柱が見え、いよいよ小田原宿に入る。
すぐ先の歩道橋の手前に、「小田原城址江戸見附跡」標柱と、奥に小さな祠がある。


説明板によると、「小田原北条氏は、天正18年(1590年)の秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲9kmの堀や土塁を構築し城下町までを取り込んだ城郭を築いた。ここは、その総構の最南部にあたり家康が山王川の対岸に陣取っていた。
江戸時代に小田原城下にはいる東の出入り口として西の板橋口及び甲州道の井細田口と合わせ、城下警護の重要な役割を担ってきた」
江戸見附一里塚
国道の向い側=歩道橋を渡ったところには「江戸口見附並一里塚址」石碑と説明板がある。
説明板によると、「天保年中の相模国風土記稿によれば『江戸口の外南側にあり、高6尺5寸(197cm)幅5間(9m)ばかりで、塚上の木は、榎だったが枯れて松の小木が植えられ、塚は以前は二つあったが、大波のため一つになった。東は小八幡村、西は風祭村の一里塚に続く』とされている」
北条稲荷
一里塚の脇の道を南に行き、右折しすぐ左折すると、大きな樹木の中に北条稲荷・蛙石(かわずいし)がある。
蛙石はもと小田原城内にあったが、北条稲荷の勧請とともに城中から移されたという。小田原に異変があるときには必ず鳴き声を発すると伝わる。
蛙石
新宿町の石柱
 北条稲荷を過ぎたあたりから、板橋見附あたりまで広範囲にわたり小田原の旧町名とその案内を刻んだ石柱が見られる。ここ新宿町は、江戸時代前期、城の大手口変更によって東海道が付け替えられた時にできた新町。郷宿や、茶店、小田原提灯つくりの家があったという。
古清水旅館
旧東海道は新宿の信号で国道を左折し、次を右折する。通称かまぼこ通りといわれている商店街を進み、再び、国道1号線とぶつかるところが本町交差点であるが、その手前100mのところに、故清水旅館がある。もともと脇本陣で小清水と称していたが、明治年間に本家の大清水と呼ばれた清水金左衛門が廃業したときに、古清水旅館として跡を継いだという。
(旅館の脇には、8月15日の小田原空襲を説明した案内板がある)

明治天皇行在所跡、小田原宿本陣跡
 古清水旅館となりに「明治天皇小田原行在所址」石碑と説明板があり、清水金左衛門本陣があった場所である

清水金左衛門本陣は、小田原宿に四軒あった本陣のうちの筆頭で、清水家は町年寄も勤め、宿場町全体の掌握をしていたという。
およそ240坪の敷地面積という。
松原神社
古清水旅館の斜め前の小道を北に向かうと松原神社がある。
由緒のよれば、「後奈良天皇天文年間(1532-55年)に山王原村松原の海中よりに出現した十一面観音が出現、その託宣により当社が本地仏として祀ったことから神号を松原大明神と称したと云う。」以後小田原宿の鎮守として北条氏の庇護を受けた。
吉兆の大亀
なりわい交流館
 元に戻ってすぐ国道一号線と合流する。その角に「なりわい交流館角吉」がある。。江戸時代は住吉屋吉衛門と呼ばれた旅籠で角地にあったので「角吉」と呼ばれていたという。
関東大震災で被害を受けた建物を昭和7年に再建したものを再整備して、平成13年に市民や観光客の「憩いの場」開館した。
建物は小田原の典型的な商家の造りである「出桁(だしげた)造り」という。  

済生堂薬局 小西本店
寛永10年(1633年)創業の老舗の薬種商。
関東大震災で倒壊した旧店舗の材料を一部用いて、明治時代の瓦ぶきの建物が大正14年頃に完成したと伝えられる。
ういろう
その向かいが、建物でも有名な「ういろう」である。
薬としての「ういろう」は、ここ小田原の「外郎家」で作られている大衆薬の一種で、和菓子の「ういろう」は、江
戸時代以前は外郎家においては来客用の菓子であり、市販は明治時代からなされ全国に広まったという。
「(株)ういろう」のHPによると、『中国の元朝に仕えていた「陳宗敬」が明に滅ぼされたのち日本に帰化し、官職名の外郎の読み方とって「ういろう」と名乗った。その子宗奇が故国-明-に伝わる薬の霊宝丹の処方を持ち帰り、それは効能顕著であったため、天皇より透頂香の名を賜わり、人々には「ういろう」と呼ばれた。
その子孫が北条早雲に招かれて以後代々薬と菓子を作り続けている。』という。
小田原城―箱根口交差点
ういろうの次の交差点が「箱根口」の十字路で、城の方向に箱根口門跡があり、藤棚の信号東側が三の丸小学校で、その地は江戸時代後期の相模国最大の学校であった集成館の跡である。箱根口跡
小田原城―銅門(あかがね)
藤棚(御感の藤)を左にみて、住吉橋から銅門にはいり、常盤木門を通って本丸広場に行く。

   
天守閣
今の天守閣は、宝永3年(1706年)の再建時に作成された引き図や模型を参考に昭和35年(1960年)に復元された。

小田原城の歴史は、室町時代駿河国の大森氏が、今の小田原高校が建っている東側の八幡山故郭と呼ばれる丘陵上に城を築いたのが始まりといわれている。明応4年(1495年)に北条早雲が攻略し当時の城主、大森藤頼を追放したが、その頃の小田原城は小規模であった。その後 故郭を中心に同心円状に広がり、北条市の勢力拡大とともに、今の本丸や二の丸にまで広がったという。その後、天正15年(1587年)には大普請を行い三の丸総構とよばれる城郭を完成、さらに天正18年(1590年)には三の丸外側に町全体を囲む総延長9kmの城郭を完成させた。
報徳二宮神社
小田原城の小峰曲輪にあたる所に報徳二宮神社がある。明治27年(1894年)二宮尊徳の教えを慕う報徳社の意により創建された。
境内に昭和3年(1928年)約1000体が製作され、今はこの一体のみが残っているブロンズの二宮金次郎像が建っている。
山角天神社
国道にもどり箱根口交差点から西に300mほど先の小道を右折すると赤い鳥居が見える。「いかり天神」といわれる姿の菅原道真画像があり、市の重文に指定されている。境内には、文政3年(1820年)に俳句の結社の人が建てた芭蕉の句碑がある。

 有米家可耳 乃都登 日能伝る 山路閑難
 うめがかに のっと ひのでる やまじかな

小田原駅跡
歩道橋上り口(左側)に、小田原駅跡の石柱がある。
明治29年(1896年)熱海まで人が客車を押してレールの上をゆく「豆相人車鉄道」が開設され、ここ早川口が小田原駅となった。明治41年に蒸気化され軽便鉄道となったが 大正12年廃止された。
大久寺
JRガードをこえて左側にある。遠州二俣城(天竜市)城主であった大久保忠世は家康から小田原を与えられ初代城主となり、日英上人を開山として石垣城三の丸跡に建立した。
本堂脇に古瓦が置かれ、本堂裏手に、大久保一族の墓がある。忠世の墓石は、法華宝篋印塔として市の代表的なものという。

居神神社
大久寺の向かい側にあるのが居神神社で、三浦半島新井城主であった三浦荒次郎義意が北条早雲に攻められて自刃した際、首が飛んできたという伝説が伝わっている。
本殿左手の石段の上には、鎌倉時代末期の古墳群がある。


 文保元年(1317年)と天享2(1322年)の念仏供養の板碑と線刻五輪塔2基と半肉彫五輪塔が1基が市指定文化財で、ほかにも江戸時代の庚申塔などが並んでいる。
元享2年(1322年)の古碑(左)  半肉彫り五輪塔   線刻五輪塔
     
光円寺
居神神社となりで、古くは実相寺と言い、寛永年間(1624-44)に春日局[徳川家光の乳母・稲葉正成の妻)が開いた。
国道沿いに大きなイチョウがあり、「見附の大イチョウ」としてしられる。


この光円寺の角が、板橋見附を構成していたという。
寺の塀 左角に板橋見附の説明板がある。
 散策日 2008年5月9日    国府津-小田原板橋
 参考  「身近にある小田原の史跡-川東版」 小田原市教育委員会
 「あるく・見る 箱根八里」     田代道彌