鎌倉下の道 @ (朝比奈−金沢八景)         地図→朝比奈-能見台




 勝田五郎著「旧鎌倉街道を歩く」を読む機会があったので、興味深く感じ、写真と地図もついていたので鎌倉古道を歩く第一歩としてはいちばんわかりやすい参考書であった。 この案内に沿って下の道を東京まで、散策することにした
 鎌倉七口のひとつ−朝比奈切通しを出発点とする。




朝比奈切通しの六浦より出口
 六浦街道への出口のところに、横浜市教育委員会がたてた案内板あり、それは、『朝夷奈切通』という名前をつけている。その、少し山側には、古道らしく庚申搭や供養搭がならんでいる。

常林寺

 六浦街道をはさんだ反対側の山すそに古いお寺の屋根が見える。

旧道に入って見るとお寺への古い階段があるが、崩れている。
寺の標識がないが、勝田五郎著「旧鎌倉街道を歩く」に、常林寺と記載されている。昔の面影をのこしている。
 
           

鼻欠け地蔵


 旧道を道なりに行き六浦街道にでて、しばらく下っていくと左側の大道中学の標識のある手前に、小さな白っぽいがけがある。それが鼻欠け地蔵である。
崖に彫り込まれた像の高さが4m余りのお地蔵様の磨崖仏で、風化して鼻が欠け落ちている為、このように呼ばれた。

(作は不明)

[案内板より・・・
 江戸名所図絵]には此の地蔵の挿絵があり、やさしそうな顔立ちや膝元で組んだ手などが描かれており、今はその輪郭を見ることができるのみ。また江戸時代の地歴が書かれている[新編鎌倉誌]には、この地蔵について、武蔵国と相模国の境界にあることから[境地蔵]といわれたこと、この場所から北へ向かう道は釜利谷や能見堂へ通じたことが書かれている。また地蔵の前の道は、六浦道と呼ばれた金沢と鎌倉を結ぶ中世からの大切な道であることから、この地蔵が交通の要所に祀られ、広く人々の信仰の対象になっていたことがわかります。
(横浜市教育委員会)

六浦街道



 六浦街道は、今は広く整備され三浦半島の東京湾側の横須賀街道と今の鎌倉街道を結ぶ道路として、交通量が非常に多い。

大道橋/侍従川



 六浦街道は、侍従川を横切る。
六浦小学校のHPには、「室町時代からの『小栗判官もの』の物語・・・絶世の美女照手姫と小栗判官の恋物語・・・の中で、乳母の『侍従』は、六浦まで、追われた姫の後を追ってきたが、行方が分からず、悲嘆のあまり姫の化粧具を残して川に身を投げた、といわれる。」と説明がある
宝樹院



右側の高台に宝樹院がある。
参道入り口の寺の石柱には、小泉純一郎謹書とある。

小泉又二郎誕生地碑



しばらく進むと右側に石碑がある。戦前、横須賀市長や、逓信大臣をつとめたひとで、総理大臣であった小泉さんの、祖父である。
その先で、再び侍従川を横切ることになるが、下の道は、侍従川沿いにくだったようである。橋を渡り、六浦街道を行くと、左側に光傳寺がある。 さらに、上行寺が続く。

光傳寺



天正元年(1573)の創建という。
本堂の前には立派なビャクシンの大木がある。
  
上行寺

茅葺きの山門と、広い境内、立派な本堂がある。

案内板にある上行寺縁起によれば、もともと、真言宗の金勝寺と称していたが下総の領主・富木氏が鎌倉に向かう途中は、同地から鎌倉への途中、たまたま六浦まで同船した日蓮上人と仏法論をたたかわし、結果、日蓮に帰依したという、『船中問答』として有名である。
また、徒然草の兼好法師が,草庵を営んだともいう。『船中問答』として有名である。
、以前はこのあたりまで海岸線がはいりこんでおり、六浦港として、千葉との往来が盛んに行われていた。山門を入って右側には、『船繋ぎの松跡』という標識もたっている。



さらに、境内左奥には、立派な「宝篋印搭」があり、南北朝時代に造立されたものとして、貴重なものという。
上行寺東遺跡







上行寺から、東にすこし行ったところの左側小高いところにこの遺跡がある。
マンションに向かう階段をのぼったところにあるが、道からの入り口はわかりにくい。
鎌倉時代から室町にかけての「やぐら群」と「建物跡群」のいせきである。
泥牛庵
京浜急行のガードをくぐると、16号線(横須賀街道)にぶつかり、八景駅より左側に泥牛庵がある。
散策日 2006年5月1日 鎌倉−金沢八景
参考 「旧鎌倉街道を歩く」 勝田五郎著
「神奈川県の歴史散歩」 山川出版
(HP) 「金沢・時代の小波」 小市民の散歩行こうぜ